宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ヨハネによる福音書3章1節~17節
イザヤ書6章1節~8節
ローマの信徒への手紙8章12節~17節

 「見えない聖霊の働き」

説教者  江利口 功 牧師

   

おはようございます。1987(昭和62)年、大韓航空機の爆破事件があったのをご存じでしょうか?若い人は知らないかもしれませんね。

北朝鮮の工作員だった金賢姫(きむひょんひ)という女性が旅客飛行機に爆弾をしかけて爆破したんです。この当時、国際的な大問題となりました。

彼女は、捕らえられて、韓国政府のもとで取り調べを受けるのですが、彼女は徹底的に違った世界観を刷り込まれた思想教育を受けていました。

彼女は、韓国が資本主義に支配されていて、国民が不自由で貧しくて、そして、社会が腐敗していると教えられていたそうです。ですので、彼女は、自分の行動によって、韓国を幸せにできる、自由を取り戻す・人の暮らしが豊かにできる、そんな夢と言いますか、任務を託されたと思い込んでいました。

自分は、英雄になれると思い込んでいたようです。実際には彼女は捕まってしまうのですが、取り調べを受けるうちに、段々と、自分が思っていた韓国の状況のことと、実際の世界が違うことに気づきはじめたんですね。

捜査官は彼女を「気晴らしにソウルの街を見学しよう」と街に連れ出します。彼女は車の窓からソウルの街を見てびっくりするんです。

聞いていた世界と全く違う。全然貧しくない。整備された道路には車が溢れている。街は明かりがいっぱい灯っている。町行く人も幸せそうだし、何より自由に生きている。逆に、自分の国のありさまを思い起こすと、自分の国の方がよっぽど不自由で貧しいんです。貧しい生活を強いられていたのです。

本当の自由とは何か、命が尊重される社会とはどのようなものかを目の前に広がる実際の世界を自分の目で見て実感していくのです。

そして、彼女は目が覚めて、一つ一つの全てのことを告白したのでした。 

私たちは、この話を聞くと、金賢姫は洗脳されてしまって可哀想な人のように思うかも知れません。しかし、私たちも同じように、悪魔の力によって、偏った世界観を見せられているのは確かなんです。悪魔は、「神さまはいない」ということを思わせるのが大好きです。「神さまは何もしてくれない」って思わせるのが大好きです。「神さまがいなくても私は生きていける」と思わせ「神さまは必要ない」と思わせます。さらには「わたしは自由に生きている」と思わせるのが大好きです。なぜなら、神さまと人との距離を引き離すのが彼の業だからです。今日の福音書でイエス様はニコデモにこうおっしゃっています。

ニコデモはどんな神さまを拝めばよいのか、何をすれば神の国に行くことが出来るのかと考えていたのかも知れません。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネによる福音書3章3節)これは、神さまの事柄は「あの世」の話しですということをおっしゃっているのではありません。神の国は、「あの世」の話しではなくて、今、「この世界」を覆っている神の支配なのです。そういう意味です。

そして、それが見えていないのが私たちなのです。神さまは、私たちを覆っている神さまの栄光を(その力を)私たちに知って欲しいと願っておられます。何か奇跡を見たら神さまを信じるという人は多いかも知れません。

でも、それは、神さまの世界の全てを見ているのではないのです。

神さまの支配、栄光を見るには、目が開かれる必要があるのです。

「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」このイエス様の言葉を聞いて、ニコデモは「母からもう一度生まれる」ということですか?と尋ねています。しかし、イエス様は、何度、母親の胎から生まれ直しても、肉から生まれた人は肉であって、霊的な世界に属さないし、霊的な世界が見えないのですとおっしゃいます。

そして、何より、ニコデモはイエス様の言葉を間違って捉えていました。

イエス様の「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」という言葉ですがイエス様は「上より生まれなければ、神の国を見ることはできない」という意味でおっしゃっていたのでした。

「新たに」という言葉は「上より」という風にも訳せる言葉なのです。

ニコデモは、「神の力によって人は生まれ変わる」という事を理解していなかったのです。ニコデモは特に律法を守ることを強調したファリサイ派に属して旧約聖書に精通していました。でも、肉の目では分からなかったのです。

「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネによる福音書3章5節~8節)聖霊は風のように見えないのですが、確かに、この世界に働きかけておられます。その方の働きによって、私たちの目は開かれます。私たちは、この目で何か奇跡を見たら、神さまを信じられるのにと思うのではないでしょうか。実はそうではないのです。何か奇跡を見たら神さまの存在を信じられるようになるのではなくて、神さまに「目を開いてください」と聖霊の御業とその力を信じて祈る時に、神さまが私たちの目を開いてくださり、私たちは「どのように神さまに守られ生きているのか」ということがわかるようになるのです。私たちはこうして聖書を持っていますが、聖書は(御言葉は)、自分は「見えているし、分かっている」と思っている人の目を開こうとします。クリスチャンであっても、見えていない事柄が沢山あるのです。神さまは聖書のみ言葉を通して、今日も私たちの目を開こうとされているのです。それは、私たちが神さまの守りによって生かされていることを教えるためです。また、本当の自由を獲得するためです。

さて、イエス様はニコデモにご自身が世に来られた理由を説明されます。

聖書をよく知っているニコデモに、旧約聖書に記された一つの出来事を引用されます。それは、荒野での蛇の出来事です。昔、イスラエルの民は、エジプトからの旅の途中の荒野で神さまに不平を言ったことがありました。

その時、神は炎の蛇を送ります。蛇に噛まれた人たちは死んでいきました。人々は悔い改め、モーセに執り成しを願います。神さまはモーセに蛇を竿の先に掲げるように命じます。そして、「それを見上げれば命を得る」とおっしゃいました。モーセがその通りにすると、噛まれた者も見上げて助かりました。

神さまが送り込まれた裁きの蛇が、逆に、民の救いのために掲げられて行く(死んでいく)という二重の目的を記した話しです。

イエス様は、ニコデモが認識したとおり“天から降ってきた者”“神より遣わされた者”でした。しかし、蛇と同じ様に、木に架けられて、全ての人の命となるために死ななければならないお方でした。そして、ヨハネは神の愛を語ります。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。(ヨハネによる福音書3章16節~18節)

神は悪い人を裁きたいのではなく、罪人を救いたいと願う神でした。

信じたら救ってあげましょうと篩(ふるい)にかける神ではなくて、何とかして人を救いに与らせようとする神でした。キリストの十字架は、神の大いなる愛の現れであったと言います。十字架を見て、気づいて欲しい、目が開かれて欲しい、そのような願いもこもっている姿でした。そして、全ての人が、イエス・キリストの十字架を信じて洗礼を受け、上からの力によって生まれ変わり、永遠の命に生きる者になって欲しいと神さまは願っておられるのです。

天地を造られた全能の神は、愛ゆえに独り子を世に与えました、御子ご自身は愛ゆえに十字架で苦しまれ、罪の赦しを与える贖いとなられました。

聖霊なる神さまは、そのイエス様の命を私たちのものとするために、目を開き、新しく生まれ変えさせています。この世界は、初めから三位一体の神の栄光で満たされており、その支配の中にあります。私たちは神さまの力によって今日も生かされています。さらに、イエス様が死んで復活し、そして、昇天され、聖霊が降ったあと、聖霊なる神さまが救いのために豊かに働いておられます。

大事なのは、見たから(見たら)信じるという考え方ではなく、見ないのに信じる(信じたいと願う)ことです。信じて目が開かれた時に、自由とは何か、本当の命、本当の自由、愛とは何かが分かってくるからです。

最初にお話ししましたが、私たちはクリスチャンであっても、見えていないことがあるのです。神の支配、神の栄光、神の力、神の愛がいっぱいあります。聖霊なる神さまは、私たちの目を開き、本当の世界を見せようとしておられます。私たちは、自由だと思っていてもやはり不自由に生きています。

み言葉によって目を開いて頂き、本当の自由を勝ち取って欲しいと思います。本日の使徒書、ローマの信徒への手紙をお読みします。

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。(ローマの信徒への手紙8章13節~16節)神の子とは、本当の自由を戴いた人のことです。

神の霊を戴く人は、肉の親から離れ、神の子となるのです。

その時、永遠の世界に生きる人へと変えられて行くのです。