宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ヨハネによる福音書7章37節~39節
創世記11章1節~9節
使徒言行録2章22節~35節


 「イエスとは」

説教者  江利口 功 牧師

   

ひらめくという経験ありますか?わたしは、何かを作る時、また、花を生ける時(笑)、結構、ひらめくのを待っています。祈ってひらめきを待つこともあります。多くの場合、ひらめきが与えられないのですが、何かひらめきが与えられた時は、短時間で、斬新なもの(形の良いもの)が仕上がります。

上よりの力って、本当にあるし、求めるべきものだと思います。

さて、1980年頃のことですが、一人の科学者がいました。

その方は、生物化学の博士なのですが、論文をばんばん発表するという方ではありませんでした。その方は、サーフィンが大好きで、LSDやマリファナなどドラッグ(違法薬物)を楽しむような人でした。また、何度も結婚をしている人でもありました。破天荒な博士という感じでしょうか。その博士が、ある時、カルフォルニアの森林地帯を一人の女性とドライブをしていたんです。

夜空は満点の星空。アンタレスというさそり座の星が綺麗に輝いて見えていたそうです。そのような綺麗な夜空を見上げて走っていた時に、突然、あるアイデアが天から降り注いできたというのです。彼は、車を止めて、相手の女性のことは放っておいて、ひたすら紙の切れ端に“だ~っ”と浮かんできたことを書き始めていきました。この博士の発見は、後に、科学界に大きな革命を与える発見となりました。今まで「車で移動していた社会」に「旅客機が登場してきた」ような感じです。彼の発見は、本当に生物化学の世界の進歩を一気に加速させました。それは、私たちの命を支える医学の世界においても、とても貢献する技術となりました。私たちは、この博士の発見のことを聞くと「凄い事を閃いた」のかなって思うかもしれませんが、そうでもないんです。

当時の学者さん達によると「“既存の3つの方法”を一つにしただけ」ということです。多くの学者が「どうしてこんな簡単なことが閃かなかったのか?」と思ったようです。でも“誰も”この3つの方法を一つにすることはできませんでした。バラバラに存在していた3つの論理が、この博士の中で、一つになったのでした。この天から降ってきたこのひらめきで、この博士は10年後にノーベル賞を受賞します(サーファーがノーベル賞!と言われていた)。

実は、霊的な事柄に関しても同じなんです。神さまは、私たちの目を開くお方です。聖書の真理を悟らせるために聖霊を注ぎ目を開くお方なんです。

聖書を見ましても、時々、イエス様が弟子達の目を開かれているのがわかります。目が開かれると人は一気に理解が深まるんですね。

私は中学生の時に聖書と出会いました。ギデオン協会の方が学校の門の前で聖書を配っていたのですが、手に取って開いた時に「これは神さまの言葉だ(聖書は真理を語っている)」って分かりました(神の招きです)。

そして、99匹を残して一匹を探す羊飼いの話を読んだときに「あなたを探していたのです」という声を聴きました(これは“私がさまよっていた”という意味です)。それからは、わたしにとって「聖書の言葉」は「神の言」となりました。神さまは、私たちにまず、聖書の言葉に命を感じさせます。

そして、信仰の目を開かれます。恐らく幼児洗礼を受けておられる方は、「信仰ってこんなものかなぁ」って思っているかも知れません。

しかし、(降ってくるように)イエス様の声を聴く時には、今持っている信仰とは違う、さらに深い真理へといざなわれて行きます。

幼児洗礼に限らず、洗礼を受けておられる方で「こんなもんかなぁ」って思っておられる方も、是非、聖霊を求めて祈って見て頂ければと思います。

信仰の喜びはこんなもんではありません。今日お読みしたヨハネによる福音書にこう書かれていますよね。祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

イエス様を信じる人に起こる最高の出来事は何かというと、「目が開かれる」ということなんです。すると、自分の中から「生きた水が川となって流れ出るようになる。」そんな体験をするというわけです。ただし、最後にこう書いてあります。「“霊”がまだ降っていなかったからである。」つまり、この時の人々には聖霊がまだ降っていなかったので、彼らはイエス様のこの言葉を聞いて「なるほど」「ふ~ん」という風に思えても実感ができないんですね。

しかしここにいた多くの人が後に「目が開かれ」神さまの聖なる力や喜びを感じ取ったのだと思います。ある程度の変化は「み言葉を聞いたり」「祈ったり」そのような信仰生活を通して徐々に起こります。でも、時に、神さまは聖霊の力によって、私たちの目を劇的に開かれるんですね。ですので、是非、「弟子たちに約束の聖霊を送られたように、私の心を開いて、み霊の力を受けることができるようにしてください。」と祈り求めて欲しいと思います。

さて、今日のもう一つの聖書箇所、使徒言行録を見たいのですが、これは五旬祭(ペンテコステ)の日の出来事です。これはユダヤ教の3大祭りで、過ぎ越し祭の七周目に行われる盛大なお祭りです。多くの巡礼者がエルサレムの神殿に来ています。今日の使徒言行録の箇所では、弟子達に聖霊が降って、その後、ペトロが集まって人たちに説教をしている箇所となっています。

中身をみますと、ペトロは詩編を引用しながらイエス様の話をしているのがわかります。恐らく、私たちはペトロが引用している箇所を聞けば、「なるほど。イエス様のことだ。そうだよな」って思うかも知れません。それほど、難しいことではないと思うのではないでしょうか。でも、ユダヤ人である彼らにとってはそうではないんですね。この箇所の後になりますが、巡礼者の一人であるエチオピアの宦官のもとに、フィリポが遣わされた時の話しが書かれています。このエチオピアの宦官は帰りがけに馬車の中でイザヤ書を朗読していました。彼が朗読していた箇所は『彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。

毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。』に始まるイザヤ書の箇所でした。これは、旧約聖書の中では「苦難の僕」について書かれている箇所なんです。私たちは、イザヤ書の53章のみ言葉を読みますと、これはイエス様のことだってわかります。イエス様の十字架の話しだって思います。でも、ユダヤの人たちにとっては、そう簡単ではないんですね。

私は、一週間、礼拝のことを調べるために色々と検索していました。

その中で、あるユダヤ人の方のサイトに出逢ったのですが、私にとっては、まさに「目が開かれた」ような出逢いでした。その方のこの53章の解説がすごかったんですね。恐らく、その方だけの意見ではないと思います。

広く知られている見解だと思います。その方曰く、53章の苦難の僕とは「自分達ユダヤ人のことなのです」というのです。「本を読む時に途中から読むことはないでしょ?途中から読めば『彼って誰?』という事になりませんか?」「イザヤ書を最初から読んでいくとそうとしか読めない」そんな風におっしゃるのです。私はそれを聞いて動揺することはありませんでした。

むしろ、嬉しかったんですね。目が開かれた感じでした。

なぜなら、聖書が本当にうまくできている書物で、聖霊が働いた時に、それまで点在していた真理が、いっきに一つの絵になって顕われてくるということが改めて分かったからです。その方は、「選民思想」についても誤解のないようにと、本当に丁寧にユダヤ人が選民である理由を説明されました。

それは、自分達だけが救われて、他の国の人たちに救いがないというのではなくて、自分達は神さまの栄光を世に知らせるために選ばれただけなのだというわけです。確かに、旧約聖書を読みますと、バベルの塔の出来事があった時、神さまは、アブラムを選び、彼の子孫と共に歩まれました。

それがユダヤ人でした。神さまはユダヤ人を選んだ理由は、世界の国々に対してご自身の栄光を示すためにユダヤ人を選んだんですね。そして、ユダヤ人を祭司の国として選ばれました。その方もそのことを強調しておられました。

その根拠となる言葉は出エジプト記の言葉です。「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出エジプト記19章6節)そのユダヤの方は、この箇所とか他の色々な旧約聖書の御言葉を通して、ユダヤ人が世界のために果たしている役割をお話ししていました。本当にそうだなぁって思いました。しかし、その方にとっては、それらの個所とイエス様と繋がらないんです。でも、私には、めっちゃつながるんですね。先ほども言いましたが、旧約聖書は、聖霊が働いて目を開いてくださった時には、それまで点在していた真理が、一気に一つの美しい絵になって顕われてくるんです。先ほどの「祭司の王国」という意味から言いますと、「イエス様はユダヤ人の象徴としてお生まれになった」と考えるとわかるんですね。昔、日本が戦争に降伏したときに、マッカーサーの処に天皇陛下がやって来ました。マッカーサーは経験上、おそらく「天皇陛下は命乞いに来る」と思っていました。しかし、そうではありませんでした。天皇陛下は「悪いのは私なので、私を死刑にして国民を助けてください」とお願いに来られたのでした。天皇陛下というのは、今は、憲法上「象徴」となっています。でも、昔も、天皇陛下ご自身は日本国の代表の象徴として考えておられたわけです。ですから、「身代わり」ではなくむしろ「代表(象徴)」として一人処刑されようとお考えになったのだと思います。聖書にこう書いてあります。

一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。(ローマの信徒への手紙5章19節)

つまり、「ユダヤ人」は「祭司の王国」として選ばれた国でした。

また、「苦難の僕」とはユダヤ人そのものでした。そのとおりだと思います。でも、イエス様は、ユダヤ人の象徴として(代表として)お生まれになったのです。そして、苦難の僕として歩まれたイエス様をユダヤ人たちは十字架にかけたのです。「祭司の国であるユダヤ民族が、全人類のために、聖なる犠牲を捧げた」のでした。それが、イエス様の十字架でした。でもそれだけでなく、祭司の国であるユダヤの国の象徴となるイエス・キリストが、霊的な意味での大祭司として、ご自身の体を犠牲の動物として神にささげるということが起こっていたのです。そのことが今から二千年前にこの世界で起こりました。

このことは、へブル人への手紙を読みますと本当に良く分かります。

この方は、他にもユダヤ教のことを色々とお話ししてくださっていたのですが、牧師である私が聞くと、本当に全てが逆にイエス様のことに聞こえてくるんですね。びっくりしました。多分、その方に聖霊が降り、目が開かれたら、どの牧師よりも涙を流して主を賛美するのではないかって思います。

その方が、おっしゃっていたことで、もう一つ、「へ~」っと思ったことがありました。それは、「私たちユダヤ人は世の光として存在しているのです」という言葉でした。勿論、旧約聖書を引用してお話しになっていましたが、わたしは、これを聞いて、すぐに「あなたがたは世の光です」というイエス様の言葉が浮かんできました。なぜ「世の光です」ってイエス様がおっしゃったのかが良く分かりました。「これからはあなたがたが世の光となっていくのです」ということ、つまり、ユダヤ人からクリスチャンへとバトンが受け渡されるということの意味だったのですね。私にとっては久しぶりに“目からうろこな体験”をした一週間でした。神さまが私たちの目を開かれる時、まず、イエス様が救い主であるということが分かるようにしてくださいます。

でも、聖霊によって目が開かれるという体験はそれだけに終わりません。

導きを受けますし、力を頂けます。また、救いのことがさらに分かるようになります。すると、それは豊かな慰めへとつながり人を愛する力へと変わっていきます。毎日祈るのも大切です。毎日聖書を読むのも大切です。

加えて、「私の目を開いてください」って祈りも時には加えて祈ってください。「信仰ってこんなもんかな」って思っている方がいらっしゃったら、是非、「私の目を開いてください」って切に祈って欲しいと思います。

ひらめく時って、本当にいっきに色々なことを理解できますし、思っても見なかった方向性を頂くことができるのです。