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おはようございます。牧師館の部屋から幼稚園の園庭を眺めますと何本かの木が見えるんですね。そのうちの一本がちょうど部屋の真ん前で青々と茂っているんです。そして、今の時期、沢山の実がなっています。
部屋から眺めていますと、鳥が飛んで来て留まりました。
実を求めて飛んできたのでしょうね。手が届きそうなくらい近くにしばらくいて実をついばんでいました。傍でぐみの木の実が今、青くなっています。
もうしばらくすると、今度は、ぐみの木の実が赤く色づきますので、鳥だけでなく、幼稚園の子供たちが集まってくると思います。実を集めている時の園児の笑顔もいいですね。見ていて幸せを感じます。私が植えたのではなく、育てたわけでもありません。でも、わたしは、幸せのおすそ分けを自然の恵みから頂きました。神さまがお造りになった自然って素晴らしいですね。
先週は、イエス様の「わたしはまことのぶどうの木」であって「あなたがたはその枝なんですよ」というメッセージを聞きました。イエス様の命が私たちの内に溢れ、そして、父なる神さまが私たちを手入れしてくださることによって、イエス様に繋がる私たちからは、いよいよ豊かに実が結ぶようになる。
そのような約束を聞きました。私たちはイエス様に繋がっていることによって、わたしという枝からみんなが喜ぶ実がなるのです。実は、ヨハネは同じ福音書の中で同じ真理を書いています。それは、イエス様がサマリアという地域を通られた時のことです。イエス様はお疲れになって、ある井戸の傍で休んでおられました。するとそこに一人のサマリアの女性がやってくるんです。
その女性は、日中の暑い最中に井戸の水を汲みにやってきたのです。
イエス様は、その女性にこうおっしゃいます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書4章13節~14節)この美しい約束は、私たちが信仰を持ち、神の愛と救いを受け入れることによって、私たちの内なる渇きを癒すだけでなく、そこから周りの人へと影響を及ぼしていくことを教えています。
さて、イエス様という「ぶどうの木」は、大きな目的をもっています。先ほど、牧師館から見える木のお話しをしましたが、植物は、大きくなり、葉を茂らせ、そして、実を実らせます。その実は種ですので、大地に落ちれば次の木の目がでてくるでしょう。しかし、木の実は、あえて鳥に食べてもらえるように実ります。命を包む果実を鳥に提供しているんですね。でも、それは、その木の子孫を遠く離れた場所でも実らせるという新たな目的にもなっているわけです。
神さまがお造りになったこの世界は、生き物が自分のためだけでなく、共に生きるように(助け合って生きるように)造られているんですね。
植物も動物も昆虫もそして菌類もみんな、お互い助け合って、命を育みあっているんですね。本当に、神さまのお造りになった自然は美しいと思います。
イエス様はご自身を「ぶどうの木」に譬えられました。
それは、この世界の植物と同じように目的(方向性)を持っています。
それは、広がって行き、沢山の実を結ぶということ。そして、沢山の人がその実(愛)を受けとるということです。もちろん、その愛に触れた人には、喜びがあり、笑顔も生れます。時には、涙が笑顔に変わるということもあるでしょう。不安が平安に変わるということも起こります。イエス様は、世界中の人が、愛されて、幸せに生きるように、お互いが愛し合うような世界(笑顔で満ちた世界)を望んでおられるのです。そのような、「人を幸せへと変えていく愛の実」をイエス様は、私たちと一緒になってそのことを実現しようとされているのです。そのダイナミックな現実の中で、私たちも生きている・・・これが聖書の教えなんですよね。16節にこう書いてあります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
この世界はイエス様が働きが今も起こっています。でも、中にはこんな風に思われるかも知れません。「わたしはそんな実りをもたらす人ではない」。
実は、その思いが、味わいある本当の愛の実を結ぶ人となるのです。
茶の湯のことはご存じですよね。茶の湯を単なる「お茶会」と言ってしまったら、元も子もありません。茶の湯はそうではなくて、「お茶を通した“おもてなし”」なんですよね。そこには、色々な作法があります。また、庭(景色)、掛け軸、お花、茶わんや道具など、色々なところにも“もてなし”の心を表現します。でも、大事なのは「心」なんですね。これはただ真似をしただけでは表現できません。昔、学生の頃に、何の授業かは忘れましたが、ある先生が茶の湯の茶碗の話をしてくださいました。確か金ピカの茶碗や茶室(豊臣秀吉?)と質素な茶碗・茶室(千利休?)の話しをしてくださったと思います。
その先生曰く、「高価な茶碗あるいはきらびやかな茶碗がもてなしの在り方だと広まると、みんな高価な茶碗を手に入れようと必死になった(手に入れたものを自慢し合った)。しかし、後に、完璧な茶碗ではなくて、古かったり、欠けたものを継いだものであったり、いびつだったりと、不完全な茶碗の方が趣きがあると言われるようになると、今度は、人はこぞって、古めかしい茶碗や不完全な茶碗を手に入れるようになった(古めかしさを競い合った)」と、確かそんな風におっしゃっていました。先生がおっしゃりたかったのは「もてなしの心は流行りを追いかけることではない。形だけ真似してもだめだ。」ということをおっしゃりたかったのだと思います。私は、愛というものも、「こうすることが愛なのですよ」と知ったり教わって、それを実践しても駄目なんだと思います。なぜなら、愛は、相手によって、また、時によって表現方法は変わらなくてはならないからです。しかし、相手を想う“もてなしの心”があれば、必然と、相手が違っても、状況が違っても、相手に合わせて変化することができるんですよね。愛は、まねてもだめで、自分の中に愛がなければ、本当に愛したことにならないんです。茶碗自身もそうなんです。最終的に、きらびやかな茶碗(完成度の高い茶碗)から、わびさびを感じる、古めかしい茶碗・不完全な茶碗(いびつであったり、作る時の手の後がついてあったり、塗りが不完全であったり、欠けてある部分を補修していたり・・・)そのような茶碗に移行していった理由も良く分かります。“わびさび”を感じる茶碗というのは、不完全なんだけども、そこに美しさが現れているのがいいのです。
私は、人の姿もそうだと思います。私は良い人だと思っている人よりも、私は罪人ですとしゅんとしている人の方が、一緒にいて落ち着きます。
私は「わたしは良い実を結ぶ枝ではない」「私は不完全なものです」「欠け多きものです」そのようなへりくだりの心がなる人こそ、相手に本当の愛を与えることができる“わびさび”の人だと思います。旧約聖書を読みますと、イスラエルの民はシナイ山で十戒を与えられます。時に、「十戒の一つでも守れなかったら天国に行くことはできない」という風に聞くことがあります。
これは、誤解を生む表現です。「十戒の一つでも守れなかったら天国に行くことはできない」というのは、「じゃあ、天国に行く可能性を持って人は生まれてくるのか?」ということになってしまうからです。そうではなくて、私たちは生まれながら罪人なのです。十戒がシナイ山で与えられた時には、3つのステップがあります。一つ目は、神さまがイスラエルの民をエジプトから導き出したという出来事です(選び)。2つ目は、十戒を与え、この戒めを守る限り私の民であるという契約です(同胞間の規律:後に愛の規律であるとわかる)。
そして、3つ目は、罪を犯してしまう民のために与えられた犠牲の動物を用いた回復の儀式を与えたということです。聖書でファリサイ派の人が登場しますが、彼らは、自分は正しいと自負していた人たちです。彼らは律法を守れると誤解していた人たちです。そして、人を見て上から目線で人を裁くようになっていました。十戒というのは、この基準を守って生きなさいという神の言葉です。しかし、深くその意味を理解すると守れないということがわかってくるんですね(つまり自分が罪人であるということが分かるんです)。
それは、聖い神さまが私たちの前に立たれれば、瞬時にして、私たちが自分が罪人だと気づくのと同じように、神さまの聖なる基準の前にたつと、必然的に自分が生まれながら罪人であるということに気づくんですね。
しかし、ここで、神さまの“赦す”という愛に触れることができるのです。
ここが大事なんです。人は赦されるという経験をして、愛のある人へと変えられて行きます。なぜなら、「赦し」は「相手を受け入れること」であり、愛だからです。厳しい親は、子供をしつけることに一生懸命になります。
愛のない親は「赦す」ことができません。攻め続けます。赦しても「赦してあげる」という借りを与えたような仕方をします。神さまの赦しは全然違います。罪を思い起こさないまでに赦すのが神さまです。イエス様は「互いに愛し合いなさい」「わたしの掟を守るなら、わたしの愛に留まっていることになる」という風におっしゃっています。ただし、ここで「掟を守る」というのは、守れたかどうかを吟味するのではなくて、「互いに愛し合うという」ことを通して実りをもたらしたいという思いが問われているのです。完全に愛せているかどうかではありません。私たちには愛が備わっていないからです。そのパワーが備わっていないのです。イエス様の選びによって弟子たちは、イエス様に繋がるものとなりました(選び)。次に、互いに愛し合いなさいと愛の戒めをお与えになりました(同胞間の規律)。そして、今日の聖書箇所にはありませんでしたが、イエス様は最後の夜に、聖餐式(罪の赦しを与える儀式)をお与えになっています。私たちは、愛しなさいという戒めに生きようと努力し、しかし、その力がないということを認め、イエス様の聖餐式で与えられる赦しの恵みをいただく・・・このサイクルが重要なのです。不完全な私であるという、悔い改めている心が現れる時に、わびさびを感じる茶碗のようになることができるのです。私たちも自分を誇るのではなく、心から憐れみ深い主を誇りたいと思います。さて、最後になりますが、イエス様がぶどうの木の譬えの中でお話しになった「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない(13)」という言葉を見て終わりたいと思います。愛し合う、互いに愛し合うという戒めをくださったイエス様ですが、続けて「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とおっしゃいました。映画を見ていましても、自分の命を犠牲にしてでも仲間を助けようとするシーンってよく出てきます。フィクションではありますが見ていて、心打たれます。私たちは、神の裁きとして、死ぬことが定められています。地上での人生は一度きりですし、地上での命には限りがあります。これは悲しい定めなのですが、実は、限りがあるからこそ、人生を捧げるという、大きな愛を持っているのです。私たちは、片方の手に富を持っています。それが手を離れる時に、その人の信仰が現れてきます。そして、もう一つの手に、私たちは、人生(命)を持っています。
私たちがどのようにして生きるのか、それもまた、信仰が現れてくるのです。しかし、この人生、特に命に関しては、本当に愛の心がないと捧げられないものなのです。その命を捧げてくださったのがイエス様です。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマの信徒への手紙5章7節~8節)
私たちは神さまの前に愛されて当然のような者ではありませんでした。
神さまに逆らって、してはならないことをし、しなければならないことをする私たちです。愛すべき人を愛さず、愛すべきものではないものを愛する。
これが私たちです。その私たちが、“悔い改めるかどうか分からない状態の時であったのに”、イエス様は、ご自身の命を私たちのために捨ててくださったのです。ご自分を十字架につけた人たちのためにも命をお捨てになられました。イエス様は神さまでした。しかし、人となられたことで、イエス様には、富とは違う最高の捧げものを手にされました。そして、その片方の手に持っている命という「愛がないと捧げることが決してできないものを」惜しみなく、罪深い私たちのために捧げてくださったのです。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」 私たちがイエス様を愛したのではありません。
イエス様が私たちを愛してくださったのです。それは、私たちが、イエス様の愛を受け取り、私たちが愛の実を結ぶためです。そのために、赦しという愛を、命を捧げるという最高の姿を通して与えてくださいました。
私たちは今、イエス様のダイナミックな愛の広がりの中で生きています。
私たちに必要なのは、わびさびのある茶碗になってイエス様のご用に用いられることです。それは、不完全であることを心から認めながら謙遜に愛に生きることです。神さまは、そのような人を喜ばれます。
そして、周りの人もそのような方から頂ける愛を求めておられます。
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