宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ヨハネによる福音書15章1節~8節
ヨハネの手紙Ⅰ 4章7節~21

 「父と子の働き」

説教者  江利口 功 牧師

 

 おはようございます。私は教会の花を時々活けさせて頂いていますが、活ける時は、なるべくテーマを考えて活けています。説教の内容であったり、その週の誕生日や洗礼日の方のことを考えて活けています。

(勿論、普通に活ける時もあります)。今日もお花を活けさせて頂きましたが、今回は、今日の説教を考えて活けました。多分、「何この花と枝の組み合わせ?」って思われた方いらっしゃったのではないでしょうか。

「片方の花瓶だけでもいいのに『何?こっちの枝』」って思われたかも知れません。実は、「何この枝?」って思って欲しかったんです。「何の木の枝?」って思って欲しかったのです。

そして、「この木何の木の枝、気になる・・・」って思って欲しかったんです。 そして、この歌を思い出して欲しかったのです。「♬この木何の木気になる木、名前も知らない木ですから、名前も知らない木になるでしょう♬(知っています?)・・・(あと)見たこともない花が咲くでしょう。(とか)・・・みんなが集まる実がなるでしょう」って。これは日立グループのCMソングで、耳に残る素敵な歌だと思います。この曲は小林亜星さんの作曲で作詞は小林亜星さんの紹介で伊藤アキラさんがなさったそうです。(作詞を依頼する時に)初め、伊藤アキラさんに「木のイラスト」をお見せしたそうですが、その時、伊藤アキラさんが「この木は、なんという木ですか?」「どんな木なのですか?」「どこにあるのですか?」と質問したのに対し、スタッフが「知りません」「分かりません」という風に返したそうです。

実は、このやりとりがヒントになってこの歌詞が出来ているそうです。

(このやりとりがなかったらこの素敵な歌はできなかったとか)。

私は、今回、花屋さんに行った時に、「何の木?何の花?」って思うものを探しました。そして、花屋さんに行った時に、この枝を見つけました。

枝に少しの葉っぱがついているだけで、その時に「どんな木の枝なんだろう・・・」って思いました。そして、「どんな花が咲くのだろう、どんな実がなるのだろう」って思えたのでこの枝を買いました。普通、活け花は咲いている花など見た目がポイントなのですが、今日のポイントは、「どんな花が咲くのかな、どんな実がなるのかな・・・」そんなワクワク感を持って見て欲しいのです。そのうえで、今日のみ言葉の説教を聞いていただければと思います。

さて、私たちの主であり、救い主であるイエス様は弟子達にこうおっしゃっています。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

(ヨハネによる福音書15章1節~2節)

イエス様は、最後の夜、すなわち、この後、捕らえられて十字架で死なれる(その前に)この言葉を弟子達におっしゃっています。弟子達は(真剣な表情で語る)イエス様の言葉に耳を傾けていたと思います。イエス様は「わたしは“まこと”の葡萄の木だ」とおっしゃっています。ただ、「わたしは葡萄の木」とはおっしゃらず「わたしは“まこと”の葡萄の木」だとおっしゃるんです。

この“まこと”とはどういう意味なんでしょう。実は、聖書(旧約聖書)では、神さまは実りある葡萄の木についてお語りになっています。

ただ、現実として望まれるような葡萄の実を見ることができていなかったようです。ですので、弟子たちがイエス様のこの言葉「わたしはまことのぶどうの木」と聞いた時、聖書で神が求められてきた葡萄の木こそがイエス様だと連想できたのです。つまり、「わたしこそが、神が求めておられた実りをもたらす葡萄の木なのです」とイエス様がおっしゃったように聞こえるのです。

このイエス様の言葉は、弟子達に語られていますが、今、こうして会堂で聞いている私たちにも、同じように語られている言葉です。

イエス様は、今、私達にも同じようにお語りになっています。

では、イエス様は、どんな葡萄の木なのでしょうか、どんな実を想像したら良いのでしょうか。私たちは、イエス様のこの言葉から、何を受け取ればいいのでしょうか。もう一度、イエス様の言葉を聞きましょう。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

恐らく、多くの人が『わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。』という言葉を聞いて、「わたしはどうなのか?」とそこに着目してしまうと思います。しかし、ここで「わたしはどうなのか(良い枝なのか)」と自分を吟味して欲しくないんです(理由は後で説明します)。

少なくとも、イエス様は、事実を語っておられるだけで、一人一人が自分を吟味することを求めておられません。そうではなくて、イエス様は誰なのか、農夫である父は何をしておられるのかと(つまり、神の存在と神の計画について)お話ししておられるのです。ですので、農夫である神が、ご自身を信じている人たちに対して、美しい葡萄の実がなるように手入れしてくださっている・・・そんな景色をイメージしてください。

一本一本の枝に着目するよりは、美しい葡萄の木、青々とした葡萄の葉、そして、豊かな実りにしようと“手入れしている”農夫をイメージしてください。では、次に、先ほどいいました、「なぜ、“わたし”という枝がそれにふさわしい枝かどうかを吟味する必要がないのか」を説明します。

イエス様は、先ほどの言葉をおっしゃったあと、弟子達にこう続けておられます。『わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている(3)』このイエス様の葡萄の木の話しでは、この3節の言葉が唐突に現れているように見えるんですね。どういう意味?って思います。

でも、実はこの3節の言葉が鍵になっているんです。

先ほど、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。とお読みしましたが、①枝を取り除く農夫が描かれていると同時に、②実を結ぶ枝をいよいよ豊かに実を結ぶように『手入れをなさる』農夫が描かれています。

手入れするとどうなりますか?無駄な蔓などがなくなり、すっきりするわけですよね。すっきりすると、栄養が行き渡り豊かな実りになるわけです。

(ちなみに、私たちが実るのはイエス様から溢れ出る命と父なる神さまの働きによるということを忘れないでくださいね)。

農夫が手入れをするとありますが、「手入れをする」と言うこの言葉は(カサイレイ)となっていて、イエス様がおっしゃった『清くなっている』には(カサロス)という言葉が使われています。ともに、きよいという意味なのです。つまり・・・『わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている』 という言葉が弟子達(そして私達)の耳に入ってきたときに、父なる神さまの手入れが始まっているのです。「美しい実を結ぶために努力しましょう」という耳障りの良い解釈がなされがちですが、そうではなくて、イエス様の言葉と父なる神さまの手入れが、私たちを相応しい枝、豊かな実を結ぶ枝に変えていくのです。イエス様の言葉が、私たちを相応しい枝にするのです。 

実は、このことは「み言葉」というものがどういうものであるのかを知る上でとても大事な概念となっています。ヨハネによる福音書はこう書き始めています。初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(ヨハネによる福音書1章1節~4節) 

イエス様こそ、言が人となったお方であり、その言とは、天地を造る力を持っています。イエス様は、言が人となったお方ですが、イエス様の口からでる言は創造(クリエイト)する力を持っていますし、生きています。

そして、その通りになります。そのイエス様が弟子達に、まことの葡萄の木の話をしながら、『わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている』とおっしゃったのです。これはとても大きなことなのです。

この言葉によって、弟子たちが、イエス様と繋がるのです。

そして、このイエス様の言葉は、今、私たちが礼拝で耳にしているときにも成就するのです。 橿原教会では、今、礼拝を、コロナ前の形に戻そうとしていますが、豊かな礼拝式にしたいなと思っています。

日曜日の礼拝は、色々な形の礼拝と呼ばれる集まりがある中で特別なんですね。昔、神殿ではレビ人が犠牲の式を司っていました。

新約の時代は牧師が任命されます(偉くはありません。選ばれただけです)。その牧師が礼拝式を司り、そして、聖餐式を執り行います。

この日曜日の礼拝は、普段に信仰者が集まり、なされる礼拝とは違って特別なんですね。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 神さまは、み言葉(律法)によって私たちを整えられます。

それは、手入れのようなものでしょう。そして、福音が語られ、聖餐の恵みが与えられるのは、枝に対して豊かな栄養素が葡萄の木そのものから流れ込むのと同じなのです(私たちが実るのはイエス様から溢れ出る命と父なる神さまの働きです)。このイエス様の言葉を聞いた時、私たちは、「繋がる枝だろうか」「実を結ぶ枝だろうか」と吟味する必要はないのです。

私たちは、父なる神による手入れがなされている枝なんです。父と子の働きが私たちの中で起こっていて、私たちが、いよいよ豊かな実を結ぶように、神がなさっているのです。しかし、そのために私たちに必要なことがあります。それは、「つながっている」ということです。イエス様の次の言葉を聞いてください。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

(ヨハネによる福音書15章4節~5節) 

豊かな実りをもたらすのは繋がっている人です。私は、クリスチャンになる前(またクリスチャンになって間もない頃)、クリスチャンという一つのイメージがありました。真面目で、きよらかで、怒らなく、優しい人、罪を犯さない人・・・そういったイメージがありました。

しかし、長年クリスチャンとして歩み、気づいたのは、そのイメージを目標にしてはいけないということでした。目標とするべきなのは、イエス様につながることであって、わたしが抱いていたイメージは、繋がることによって生じる実であるということでした。クリスチャン像を目標として生きる方(教える方)の中には、実はその生き方は、聖書と関係なくて、自分が理想とする生き方であることがあります。自分が良いと思う生き方、親に教え込まれた生き方であって、その上に聖書の教えが後押ししているだけなんですね。

つまり、自分という葡萄の木にイエス様の教えを接ぎ木しているようなものです。そうすると、どうなるのかと言いますと、「見たことのある花がさき」、「見たことのある実」がなるだけなんですね。

勿論、悪いことではありません。でも、イエス様という「まことの葡萄の木」に繋がる人は、その人なりの姿になるんです。(自分でも想像していなかった姿に変えられて行くんです)。その人を知っている人からすれば、見たことない(想像していなかった)花が咲き、実がなるんです。

私はその姿こそ、神さまがその人を変えてくださった本当の姿だと思います。イエス様に繋がる人は、想像していなかった私に変えられます。

そして、それは、父なる神の働きとキリストの命によって変えられるものなのです。想像していなかった実が私から生じるようになり、周りの人が、不思議だねって驚くんです。父なる神さまは、イエス様という葡萄の木を喜んでおられ、そこに繋がる私たちも喜んでおられ、いよいよ豊かな実が実るように手入れし続けてくださいます。礼拝は大事です。特に、日曜日に神さまが立てた人が司る礼拝、特に、聖餐式の礼拝は大事です。

ここで、本当に深く、イエス様と繋がることができます。

そのために、イエス様は、この話をした夜に、聖餐を続けていくようにと命じられたのです。繋がる事は聖餐によって実現するからです。

最後に一つ「命の木」についてお話しをしたいと思います。

旧約聖書の創世記を読みますと、「命の木」について言及されています。

「永遠の命を与える木」それが、「命の木」です。そして、まことのぶどうの木こそ「命の木」です。週報の絵は、AIに「不思議な花と実ができる木を描いてくださいって」入力したら出来上がって来た絵です。(左上の絵)。

見たことのない不思議な木でしょ?創世記には「命の木」とありますが、どんな木かは書いていません。どんな花が咲くのか、どんな実がなるのか、分かりません。でも、必ず、素敵な花が、素敵な実がなるに決まっています。そんな想像を掻き立ててくれる木です。是非、創世記に出てくる命の木を思い浮かべ、この歌を口ずさんでください。♪この木なんの木。木になる木。見たことのない木ですから。見たことのない木になるでしょう・・・花が咲くでしょう・・・みんなが集まる実がなるでしょう♪是非、Youtubeで「この木なんの木」で検索して視聴してください。