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おはようございます。
皆さまは、人との関係に疲れを感じることありませんか?
恐らく、ほとんどの人が、人との関係において、何かしらの困難を覚えておられるかと思います。私たちは、常に人に囲まれて生きています。
家庭内でもそうですし、社会にでれば、「多くの」そして「色々な」人と交流します。そういった、人との関係の中で生きていると、疲れを覚えます。
世の中には良い人もいれば、一緒にいて困難を感じる人もいるかと思います。長続きするのはどんな人かなと考えた時に『その人が何を大事にして生きているのか』ということに尽きると思います。なぜなら、人の価値観はその人の行動や生き方に現れてくるからです。誰とでも長く付き合っていると、その人の好ましくない面が見えてくるものです。多くの場合は、馴れてくるかと思います。しかし、最終的に何が重要な要素となってくるかと言いますと。
その人が“周りの人(自分に与えらえた人)を大事にしたい”と思っているのか、それとも、“自分自身を優先”したいと思っているのか!!ではないかと思います。聖書的にも、この点が大事だと思います。
私たちは、人との関係に疲れを覚えます。その時、救いとなるのは、「自分を愛してくれる人と一緒にいること」です。さて、今日の聖書箇所ですが、私たちの主である、イエスさまは、ご自身のことをわたしは良い羊飼いである。(ヨハネによる福音書10章11節)と言っておられます。これはどういう意味でしょうか。イエスさまの“良い人アピール”なのでしょうか。そうではなくて、私から離れてはならないというイエスさまの真剣な語り掛けです。もう少し、良い羊飼いであるというイエスさまの言葉を探って行きたいと思います。
聖書にこういう話があります。昔、ソロモンという王様がいました。彼のもとに二人の女性がやってきます。一人の女性がこう言うんですね(原文とは違います)。「私たち二人は共に住んでいます。そして私たちには、それぞれ生まれたばかりの赤ん坊がいました。ある晩、この人は寝ている時に自分の赤ん坊に寄りかかってしまい、赤ん坊が死んでしまいました。すると、この人は、寝ている間に私の子と自分の子を入れ替えたのです。私は、乳をやろうと思って赤ん坊を見ると、自分の赤ん坊でないことに気づきました。この子は私の子です。」この主張に対して、もう一人の女性は「いいえ、生きているのが私の子で、死んだのがあなたの子です。」と言い、双方が「私の赤ん坊です」と生きている赤ん坊を奪い合っていました。そこで、ソロモンはどう裁いたのかと言いますと、「剣を持ってきて、生きている子を二つに裂き、二人に半分ずつ与えなさい」そう命じるんです。勿論、短気な王様だからではありませんでした。
王は試したのでした。王の言葉を聞いて、子を見て哀れに思った片方の女性が、こう進み出ます。「王様、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください」ともう一方の女性はこう言います。「この子を私のものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください」と言いました。勿論、ソロモンは、私は諦めますと言った女性こそが本当の母親だと言いました。(参照
列王記上3章16節~28節)
この二人の女性の大きな違いは何でしょうか。どこに現れたのでしょうか。
それは、自分の幸せが最優先なのか、子の幸せが最優先なのかという本当に単純なことです。もし、皆さまが、母親を選べるとしたら、この二人の女性のうち、どちらを母親にしますか?もちろん、“この子を殺さないでください”と言った母親だと思います。なぜ、こちらの母親が良いのでしょうか。
違う視点で尋ねてみますが、もし、裂いてくださって結構ですという女性が大金持ちで「私の子になれば、なんでもあなたのものですよ」って言ったらどうでしょうか。一方の女性は、ボロボロの服を着ていて、この人の子となれば、貧しい生活が待っているのです。それでも、貧しい方の女性を母親にしたいのではないでしょうか?なぜですか?それは、“愛情深い”母親がいいに決まっているからです。やはり、人が求めているのは「愛されること」だと思いますし、何より、愛は、困難を乗り越え幸せを作り出すからです
何を大事にして生きているのかはとても重要で、それは、何かあった時に、言葉や行動の姿として現れてくるのです。さて、イエスさまがおっしゃった、わたしは良い羊飼いである。と言う言葉は、「私から絶対離れてはならない」という語り掛けです。なぜなら、他のものは私たちを幸福にしないからです。
たぶん羊飼いは羊に「離れてはだめだぞ。ちゃんとついて来いよ」って言葉が分からない羊にでも言うのではないでしょうか。イエスさまはご自身を羊飼いに譬え、私たちに「わたしから絶対に離れてはいけない」とおっしゃっているのです。さて、私たちに対する語り掛けである言葉ですが、この言葉の背景があります。イエスさまの時代、神と呼ばれる存在は結構あったと思います(日本もそうですが)。中には、ひれ伏させるために自分を神の代理のように言う皇帝もいました。また、五穀豊穣(豊作)を約束する神もあったようです。
多分、他にも、ご利益の神と崇められる神もあったと思います。
しかし、何よりも戦われたのは、当時のユダヤ教の指導者や教師たちです。
彼らは、自分達の教えを教えとし、人を教えでしばり、また、聖書の教えから離れ、自分達の既得権益を何より愛するようになっていました。
その人たちを批判しておられました。その状況の中で、 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。(ヨハネによる福音書10章11節~13節)とおっしゃったのです。神さまは、唯一ですから、“どれにしようかな”と自分にとって一番良い神さまを選ぶのは間違いです。でも、世には、多くの魅力ある神があるのです。その中で、イエスさまは、ご自身こそ、本当の神(命)であるとおっしゃるのです。イエスさまは、羊のためには、命を捨てるとまで言い、そして、実際に、命を捨てるために、神なのに、人となり救ってくださいました。
羊飼いには大きく分けると2種類の羊飼いがいました。一つは、旧約聖書によく出てくるような、自分の羊、家族の羊を飼う羊飼いです。彼らにとって羊は家族のような大切な存在でした。一方で、もう一つの羊飼いは、雇われた羊飼いです。誰かが、羊の所有者であって、その人に雇われており、所有者のために、羊を牧草地に連れて行ったりする羊飼いです。イエスさまが譬えられるとおり、その羊飼いは、大事なのは“自分”であって、“羊”ではないので、いざとなれば、羊を見捨てて逃げるのです。自分の羊ではないからです。
そのような羊飼いに養われたら最悪です。イエスさまは、ご自身を羊の所有者であり、養う羊飼いであるとおっしゃっています。私たちは、もとより神さまの羊で、神さまは私たちを掛け替えのない存在に思ってくださっているのです。
今日の箇所の前になりますが、こうもおっしゃっておられます。
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(ヨハネによる福音書10章9節~10節)
この羊飼いこそ「わたしです」とおっしゃっておられます。
イエスさまは肉の糧を与え、命を豊かに与えるお方なのです。
このイエスさまの羊飼いの姿に対する賛美の言葉は、ダビデが美しく唄っています。主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしてもあなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り生涯、そこにとどまるであろう。(詩編23編)
これは、賛美歌にもなっていますが、イエスさまを誉めたたえた美しい歌だと思います。ところで、イエスさまは、「わたしは良い羊飼いである」とおっしゃっています。ここで、「良い」というのは「善い」と訳されていません。
というのも、ここでは、「アガソス」という一般的な「よい」に用いられるギリシャ語が使われておらず、「カロス」という単語が使われているからです。この「カロス」という単語は他にも“美しい”“魅力的な”“非の打ち所がない”“立派な”という意味を持つ単語なんです。それは恐らく羊にとって必要な存在という意味であると思います。実際、そのようなイエスさまの美しい、魅力的な、非の打ち所がない、立派な姿は、聖書の福音書の中に沢山描かれていると思います。これが私たちの羊飼いの姿です。私たちには必要な羊飼いです。最初に、“何を大事に生きているのか”ということが重要ですとお話ししましたが、イエスさまは、①父なる神さまの思いを大切にし、そして、②私たち一人一人を、自分以上に愛することを大切にしてくださるお方でした。それが美しい、魅力的な、非の打ち所がない、立派な姿になるのです。生きざまというのは、いざという時にはっきりと見えてきます。イエスさまの最後のお姿こそ、イエスさまの生きるうえで重要とされていたことが何であったのかを示すお姿でした。イエスさまは、神なのに人となり、父なる神さまの御心のままに生きられました。そして、私たちを愛するイエスさまは、その命をお捨てになってくださいました。私たちが命を得るためです。私たちが愛を受け取り愛を知るためです。イエスさまが私たちを大切に思ってくださっているというのは、聖餐式を通しても受け取ることができます。礼拝は、私たちを変えます。
私は、だんだん、生き方というか大切にしたいなと思うことが変わってきました。それは、実感しています。また、教会員の方を見ていましても、次第に、何を大切にして生きるのかといことが変わっていかれる姿を見てきました。
神は、私たちを造り変えます。礼拝は、私たちを造り変えます。聖餐という聖礼典は私たちを造り変えます。イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。これによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、私たちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。(ヨハネの手紙1
3章16節~20節)
イエスさまの願いは、みんなが愛されて生きることです。みんなが心の中心に自分をおかず「神」「隣人」を置くことです。勿論、その生き方は、一方通行に終わることは決してありません。まず、神に属していることが実感でき、平安に生きることができます。隣人のために生きる人を神は喜ばれます。父なる神と、イエスさまのことを思い、愛を注ぐ人はその人の中に命が生じ、その人は造りかえられて行きます。この生き方が、人生の最後に自分の生き方になっているといいですね
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