宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ヨハネによる福音書20章19節~31節
ヨハネの手紙Ⅰ 1章1節2節

 「今も生きておられる」

説教者  江利口 功 牧師

   

 おはようございます。イエスさまは復活されました。

イエスさまはただ息を吹き返して蘇って来られたのではありません。

“永遠に朽ちることのない身体”になって墓から出て来られました。

そして、イエスさまを信じる私たちはイエスさまと同じように“永遠に朽ちることのない身体”を頂くことができるという未来が約束されています。

古代から人は死を恐れていて、例えばエジプトでは死んだ王をミイラにし、蘇りを期待していました。しかし、蘇ってきた王は一人もいません。

例え、蘇ったとしても、その人は、また、死ぬのです。

なぜなら、肉の身体はどうあがいても朽ちる身体でしかないからです。

例え医学が発達して不老不死を手に入れたとしても、それでも、人は朽ちる存在であることには変わりません。この身体にはやはり希望がないのです。

しかし、神さまは、私たちに、それとは比べものにならない身体を与えてくださったのです。それが復活の体です。イエスさまを信じる人は、朽ちるものであっても朽ちないものに復活し、弱いものでも力強いものに復活すると聖書は言っています。それが私たちに与えられている輝かしい約束です。

“永遠に朽ちることのない身体を手に入れる”というのは本当にすごいことなんです。この世のものは全て永遠ではありません。この会堂もいつかは朽ちて無くなります。この地球だって宇宙だって永遠には存続しないんです。

この世のものは必ず消えていく・・・これが見える世界の現実です。

しかし、聖書は、もう一つ、「見えない」世界を教えています。

それが、神の国です。聖書にこう書いてあります。 

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(コリントの信徒への手紙Ⅱ4章18節)私たちの周りには見える世界と見えない世界があります。そして、見えない世界にこそ永遠であり、私たちにとっての最高の世界なのです。さて、今日の福音書ですが、イエスさまは復活した後、お弟子さん達の前に現れました。ご自身が既に彼らに教えていたように復活したことを示すためです。しかし、トマスだけはその場にいなかったんですね。

トマスが弟子達に合流したときにはすでにイエスさまはおられませんでした。弟子たちはトマスに「私たちは主を見た」と言いました。恐らく、興奮して言っていたと思います。しかし、トマスは一人蚊帳の外でした。その弟子達の証言に対して、トマスはこう言っています。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』(25)トマスが、「見て、触れなければ決して信じない」と言ったのは、彼が不信仰であったとか、復活を信じていなかったということではないと思います。「見た」という他の弟子達に対して、悔しい思いをしたからかも知れません。本気で「見たい。信じたい」と思ったからそう言ったのかも知れません。ともかくトマスは「触れてみない限り信じない」と言いました。そのトマスの要望に応えるかのように、イエスさまは、次の日曜日にも弟子達の前に現れました。そして、イエスさまは、トマスに『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』そうおっしゃいました。トマスも他の弟子達と共にイエスさまを宣教した弟子の一人です。ですので、イエスさまは、トマスにも、復活の証し人として「信じる者」にする必要がありました。イエスさまは彼の願い通り、ご自身の傷跡に触れさせました。そして、イエスさまに触れてはっきりと復活を信じたトマスにイエスさまは加えてこうおっしゃいました。

『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』

これは、「見て触れたら信じるよ(そうでなければ決して信じない)」というトマスの言葉に対して「見なくても信じなさいよ」というイエスさまの叱責のような言葉ではありません。私はもっと深い意味があるのだと思います。

それは、見えていない世界に本当の世界が隠れているということ。

また、見えない神さまに対する信仰こそ命ある生き方になるということです。

「見えている神ではなくて見えない神に目を注ぐ」ということに大きな意味があるという、“私たちに”対するメッセージなんですよね。私たちは目に見えるものは信じやすいし、目に見えるものに信頼や価値を置く、もしくは憧れる傾向があると思います。たとえば、健康などもそうだと思います。

健康であれば活動的になれますし、気持ちも晴れ晴れとすると思います。

何より、若々しさって何より求めたいと願うものだと思います。

また、物質的なもの(富・車・家)なども見えるものとして憧れますし、手に入れると安心します。さらには、美しさというのも見えるものとして憧れますし価値を置くのではないでしょうか。勿論、それらも求めることは間違ってはいないと思います。しかし、私たちは経験として、それらが永遠ではないもの、自分のものにずっとならないこと、また、時に奪われてしまい、時に、目おとりするということも知っていると思います。見える者は移り行くものでし。

また、見えるものは決して永遠に存続することはありません。

永遠に私たちの傍に存在し続けるものとはならない虚しいものなのです。

旧約聖書イザヤ書にこう書いてあります。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむがわたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。(イザヤ書40章6節b~8節) 

神という見えない存在こそ、本当の命の源となっておられます。

私は、花を生ける当番になると、花屋さんに買いに行きます。

今回も花をいけるために花を買いに行きました。冬とは違い、春になりましたので色々な綺麗な花が店に並んでいます。店に並べられた花を見ていると「きれいだな」って思います。先日、馬見丘陵公園に行ってきました。

今は、季節のチューリップが沢山植えられていて、とても綺麗でした。

パッと見れば沢山のチューリップが綺麗に咲いている花の公園です。

しかし、目の前に咲いている一本の花に対して、「これって神さまが創造された花なんだ」なって思えたら(信じれたら)、公園の一面の花の全てが神さまの作品に見えてくるんです。カラフルなチューリップが沢山咲いている花畑に終わらず、神さまの作品(神さまの命が宿る一つ一つの花が一面にある)っていう別の感動が沸くんですよね。すると、全然違う光景が広がるんです。

イエスさまはこうおっしゃいました。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。(マタイによる福音書6章28節~30節)神さまが、「美しく花を創造なさった」だけでなく、「愛情も注がれている」って思えると、さらに変わるんですね。見える花全てが、神の愛情が注がれて喜んでいるように思えるんです。これって見えないものに目を注ぐことができる人だけに与えられる感動だと思います。私たち信仰者の特権ですよね。自然の中を散策していても同じだと思います。ついつい、そのことを忘れて歩きがちですが、一本の木を見て、そこに神さまの存在を意識することができれば、周りにある木々や草花全てから神さまの息吹を感じるようになるんですよね。意識すれば、単なる自然豊かな場所だけに終わらず、自分を包み込む神さまの息吹を感じることさえできるようになります。見えない世界に目を注ぐって本当に大事だと思います。

『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』

トマスにかけられたイエスさまのこの言葉は、トマスにまた私たちに、目を向けさせようとする神さまのメッセージだと思います。

私は、イエスさまが死んで復活され、そして、天に昇って行かれたことに大きな意味があると思っています。もし、イエスさまが天に昇ることなく、この地上に復活の体を持ちながら一緒にしてくださったなら、福音書に記されている通り多くのの人々がイエスさまの元にやってきて、病を癒してもったと思います。時には、食べ物をくださいとお願いしてきたかも知れません。

また、問題を解決してくださいとやってきたのかも知れません。

もし、イエスさまが昇天されなければ、この地上から飢えがなくなったかも知れません。病を恐れることもなくなったでしょう。でも、それは肉の世界で肉の願望だけが満たされていくだけに終わってしまうんですね。

私たちは、やはり見えるものに価値や信頼を置き、それらを手にすることを憧れると思います。それを求め続ける存在だと思います。

イエスさまは、私たちに見えるものではなくて、見えない神の国に目を注ぐように、天に戻って行かれたのではないかと私は思います。

なぜなら、見えない世界にこそ、本当の命ある生き方を教える力があるからです。イエスさまは昇天される時、「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」とおっしゃいました。また、イエスさまとずっと一緒にいたヨハネはその手紙の中でこう記しています。初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。― この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。― 私たちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書くのは、私たちの喜びが満ちあふれるようになるためです。(ヨハネの手紙1 1章1節~4節) 

ヨハネは「聞いたもの」「目で見たもの」「よく見て手で触れたもの」を伝えますと言っています。これこそ、イエスさまのことなのですが、この言葉には「今もイエスさまの存在を感じているのです」というニュアンスが含まれています。そして、イエスさまを過去の人のこととして話しているのではなく、今も生きておられるお方として、その交わりに、読む人たちを導こうとして話しているのがわかります。何故なら、イエスさまとの交わりを持つことが出来た人は、喜びに満ちあふれるようになるからなんです。

イエスさまは昇天されました。父のもとに帰られました。

父のもとで父と一つとなられました。イエスさまは、昇天される時に、「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」とおっしゃいました。

私は、イエスさまの昇天というのは、こういうメッセージなのではないかと思います。わたしは天に帰ります。あなたたちの目には見えなくなります。

でも、わたしは生きています。父と一つとなり生き続けています。

わたしは見えなくなります。でも、周りの世界を見た時に、そこにいつもわたしがいることを意識してください。わたしが見えなくなることで、あなたはどこにいても、何を見ても、わたしの存在を感じるようになりますよ。

どんなことがあってもわたしが共にいることがわかるようになりますよ。

見えるわたしではなくて、見えないわたしを見て欲しいのです。

そのわたしこそ本当のわたし(神であるわたしなのです) 

そのようなメッセージではないかと私は思います。聖書は神の言葉です。

イエスさまが復活されたことは、聖書が本当に神さまの言葉がであったことが世に示されることとなりました。4つの福音書を見て感じるのは、イエスさまが本当に“お身体を持って”復活されたということを一生懸命証言しようとしていることです。弟子たちは、墓にイエスさまを包んでいた亜麻布だけが置いてあったと証言しています。これは、イエスさまが霊的によみがえられたのではなく、ご自身のお身体を持って墓を出て来られたということです。

また、イエスさまの手足を見て、そして、触ったと証言しています。

さらには、一緒に食事をしたとも証言しているんです。

そして、最後には天に昇って行かれたと言っています。 

宗教的には、霊魂になってあの世に行くという方が理解しやすいと思います。しかし、聖書は、復活という人間には信じられない、想像しにくいようなことを信じるように言っています。イエスさまのメッセージはこうではないでしょうか。“私が復活したことを信じてごらん、すると、未来が全て希望ある世界に変わりますよ”“今も生きていてあなたと共にいる私を意識してごらん。すると、恐れも消えていきますよ。”“あなたは生きる価値を見いだし、人生の最後の時も勇気をもって進んでいくようになりますよ。”見えるものではなくて、見えないものに対する信仰こそ、私たちの人生の本当の力になるのです。