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おはようございます。偉大なイエスさまを心から賛美いたします。
本当に十字架と復活の出来事は、私たちにとって神さまの最高の御業だと思います。イエスさまが復活されたのは、勝利の宣言(証し)です。
それは、黄泉が私たちを永遠に閉じ込めておくことができなくなったという証しです。また、私たちが神さまの前に義とされた証しです。
私たち人間では決してできないことを神さまは御子を通してなしてくださいました。イエスさまが復活なさったことは、“勝者として相応しい”神の栄光の姿だと思います。この福音を知ることができたことを心から喜びたいと思います。さて、私たちは今日、イエスさまが復活された時の話を見ています。弟子達の中で女性たちだけが日曜日の朝早く、死んで葬られたイエスさまに香油を塗るために墓へ出かけました。これは、“特別な理由”があって墓に行ったのではなく、“死者に香油を塗るため”に墓に行っただけでした。
しかし、彼女達がまず驚いたのは、墓の石が横に転がしてあったということでした。当時は洞穴のような横穴の墓で、その墓を丸い石で蓋をしているんです。
ですので、あまり出入りはしませんが、出入りする時は開き戸のように墓石を転がさなくてはならないわけです。その墓石が彼女達が墓に行くとすでに横に転がしてあったというのです。でも、私が驚いたのは、『誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』(マルコによる福音書16章3節)と彼女が話し合っていることです。「いや、普通、女性の力では転がせないのなら、誰か男の人を連れて墓に行くでしょ」と思うのは私だけでしょうか。
でも、そんな彼女達の心配は必要なかったようです。
必要なかったというよりか、もっと不思議なことが起こっていたわけです。
つまり、墓の石が既に横に転がっていたのです。「あれ?」という感じだったと思います。もしかしたら、誰かが先に来ているのかな?と思ったかも知れません。とにかく、彼女たちが墓の中に入ると、み使いがいました。そのみ使いはこう言いました。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコによる福音書16章6節7節)
彼女たちは、この出来事を体験して「喜んだ」のではなく「恐れを感じた」ようです。これはイエスさまがお生まれになった時に、羊飼いに天使が現れた時とは違うようです。羊飼いは驚きながらも喜びましたが、彼女たちは違いました。彼女たちが恐れたのは、ことの次第が呑み込めなかったというのもあるかも知れませんが、やはり、「死者が蘇った」というメッセージと実際にそこにイエスさまの遺体がないということが大きな恐れとなっているのだと思います。いずれにせよ、「神が何かをなさるとき」は、私たちの思いを遥かに超えたことが起こるということだと思います。ところで、皆さまは、世界のクリスチャンの人口って何人だと思いますか?世界の何%の人がイエスさまのことを信じていると思いますか?30%以上の人がイエス・キリストを信仰しているのです。これは、少し言い換えますと、世界の3割の人が、イエスさまのこの福音を信じて毎日を歩んでいるのです。パウロはコリントの信徒の人に宛てた手紙の中でこう言っています。兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。(コリントの信徒への手紙Ⅰ15章1節~5節)私たちにとって、福音は、生活のよりどころなのです。
さて、今日お読みしました、この復活のメッセージ、実は、四つの福音書を全て見ますと(大きな流れは同じ)なのですが(細かいところ)でその内容が食い違っています。私は四つの内容が細かいところで違っているからこそ本当にあった出来事なんだなと思うんですね。なぜなら、四つの福音書はそれぞれ違う弟子が、違う人たちに宛てて書いているからです。でも、人間の知恵で聖書を読もうとすると躓くんですよね。この復活の出来事を記した聖書箇所は、吟味しようとして読んだ時にここに秘められている力を失うんです。読んで吟味するのではなく、読んで神さまからのメッセージとして心の耳で聞くときに、神の力が私たちのものとなるのです。私たちは聖書を通して知識や徳を学ぶのではありません。聖書を通して心に語り掛ける神さまの声を聴くのです。
神さまは、私たちがイエス・キリストを信じ、永遠の命を得るために(力を得るために)この聖書を読んで欲しいのです。私たちは、イエスさまが復活したという出来事を聖書から“学ぶ”のではありません。
天よりの声として(神さまの語り掛けとして)「イエスさまが復活した」と“受け取る”のです。先ほどのパウロの言葉に戻りたいと思います。
パウロはこう言っています。兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 5章1節~5節)パウロは、(私たちのために)イエスさまが勝ち取ってくださったこの一連の出来事を、“私たちにとっての「生活のよりどころとなる」福音である”と言っています。そして、この単語は完了形で書かれていますので「生活のよりどころとなり、今も、あなたのよりどころとなっている」と言う意味になります。また、ここではギリシャ語で「ヒステーミ(立つ)」という単語が使われていますので、「生きる上であなたの支えとずっとなってきている恵み」という感じになります。パウロにとっても、イエスさまの死と復活は彼の人生を大きく変えました。パウロは直接にイエスさまと出会ったのでそれだけの変化があったのですが、私たちはパウロのようにイエスさまと直接に出会っているわけではありません。それでも、イエスさまの死と復活を受け入れる時、私たちの人生は大きな影響を受けるのです。皆さまは、「天然酵母」って聞いたことあるかと思います。酵母というのはパンを発酵させるものです。ただ、膨らませるのではなく、酵母によって、味や香り、食感が変わって来るそうです。天然酵母という特有の酵母類は、パン作りにおいて特有の香りや食感、味を引き出す素となっているわけです。ですので、パンの味、香り、食感にこだわる人は酵母にもこだわるようです。パンを人間に、そして、何を土台として生きているのかというのを酵母に例えればどうでしょうか。
人は、何を土台としているのかでその人の生き方は変わりますし、周りに対する影響も変わってきます。何より、何を土台としているのかは直接わかりませんが、実りを見たら分かります。実は聖書はそのことを教えています。
イエスさまは、こうおっしゃいました。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」その時、ようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教え、のことだと悟った。(マタイによる福音書16章11節b~12節)
あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。(マタイによる福音書7章16節~18節)イエスさまは、教えに気を付けるようにおっしゃっています。何を信じるのかに注意しなさいとおっしゃっています。教えは、あなたの中で膨らむのですとおっしゃっているわけです。
先ほど、酵母の話をしましたが、何を信じているのかで、「あなた」というパンは、その味も、香りも、食感も、人生も変わってくるのです。
兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。(コリントの信徒への手紙Ⅰ
15章1節~5節)
パウロは、イエス・キリストが私たちの罪のために死んだこと、そして、三日目に復活したこと・・・それが、あなたの人生(生活)に大きな影響を及ぼしているということを言っています。そして、それが、あなたを下支えしている命であると言っています。しかし、そのパウロは何に困っているのかと言いますと“復活はありえない”と思い始めている人がいることなんです。
パウロはこう言っています。キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。
そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
(コリントの信徒への手紙Ⅰ15章12節~20節)
人間的に考えれば、復活はありえないというか理解できない出来事ではないのかなって私は思います。“ありえない”“理解に苦しむ”のが復活だと思います。復活って神さまの栄光がもっとも現された出来事だと思います。
しかし、そこに躓きが逆に起こっているのだと思います。
見ていないから信じきることができないというのであればわかります。
でも、私たちは、十字架で死なれたイエスさまを信じることはできても、死んだのに蘇ったイエスさまの栄光の姿は“理解できない”“信じられない”と思ってしまうんですよね。でも、パウロは、「もし、キリストが復活していないのであれば、自分こそこの世で最も惨めな人間になるのではないでしょうか」と逆に問いただしています。それはそうだと思います。
パウロは人生を捨て、命がけでイエスさまを宣教した人です。
パウロに限らずイエスさまのために命を捨てて来た人たちも沢山いるわけです。聖書の話が嘘ならばその人たちはもっとも惨めな生き方をしたわけです。
でも、パウロは確信しているのです。イエスさまは復活したと。
私たちの初穂となられたのだと。パウロは、「罪のために十字架につけられて死なれた」こと、「復活された」ことが、生活のよりどころとなる最も大切なことであると言っています。そして、パウロの言葉を少し言い換えますと、「その福音があなたのもとに届いた」という事実も、最も大切なことの一つだと言っています。福音の内容、そして、神さまがその福音を私たち一人一人のもとに届くようにしてくださったことは、本当に恵みです。
そして、この福音の内容は、見えませんが、酵母のように私たちの中で働きかけ、私たちを美味しいパンのように仕上げてくれるのです。
イエスさまはご自身のことを「命のパンである」とおっしゃいました。
イエスさまというパンこそ、本当に味も香りも柔らかさもすべて完璧なパンだと思います。そのパンの酵母が私たちの中に福音として入ってきたとき、私たちもまた、素敵なパンへと変わって行くのです。キリストは復活されました。これは事実です。神さまは、復活によってご自身の栄光を世にお示しになりました。今、「多様性」という言葉を良く耳にすることが多くなりました。
また「自由」が当然の権利として主張されるようになってきました。
しかし、「自由」や「多様性」は最後には自分を見失っていくようになります。それが悪魔の業だと思います。逆に「自由」「多様性」の社会の中でアイデンティティを確立するのは大事なことだと思います。「イエスさまの死と復活」をご自身の譲れないアイデンティティ(生活のよりどころ)として欲しいと思います。
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