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おはようございます。この前、「テネットTENET」という映画を見ました。この映画は、昔からよくある「過去に戻って何かを変えようとする」映画なんですね。しかし、この映画はこれまでのタイムスリップ系の映画とは違います。これまでの映画では、過去に戻ろうと思えば、タイムマシンを使っていきなり10年前とか50年前に戻って行きます。しかし、この映画はそうではなくて、時間を遡って行くことによって過去に戻って行くんです。
つまり、3日前に戻りたかったら、3日間、フィルムを逆向きに再生したかのような世界の中で生きていくんですね。見ていて頭がこんがらがるような映画です。皆さまは逆再生の映像って想像できますか?最近はデジタル映像なので、逆再生して見ることは殆どなくなりましたが、昔、DVDではなくカセットテープ(VHS)しかなかった時代は、「逆再生」というか、「逆向きに早送り」をすることが良くありました。逆向きに進む映像とはどういう映像かと言いますと、簡単に言えば、人は背中を向けて歩いていきます。
車も後ろに向かって進んでいきます。投げたボールは手元に返ってきます。
コップに注がれたお湯は、ポットの方へ逆に戻って行きます。
そのような映像です。逆再生の映像がどのような感じかつかめましたか?さてここからが本題です。今、ウクライナやパレスチナの地で戦争が起こっています。壊された建物とか沢山映し出されています。では、これを逆再生するとどうなるでしょうか?ちょっと想像してみて欲しいのです。
ミサイルで粉々に壊れた建物はどうなるでしょうか?元の形に戻って行くのです。また、銃で撃たれて倒れた人はどうなるでしょうか?起き上がってくるんです(生き返るんです)。戦車も飛行機もミサイルもみんなもとの場所に戻って行くんです。兵隊は迷彩服を脱ぎ、普通の服に着替えるのです。
建物が元の形に戻り、死んだ人が生き返り、流された涙が目に戻って行くんです。それは、単に滑稽に見える逆向きに動く世界でしょうか・・・。
良く考えると、それは希望ある世界ではないでしょうか。
私たちが望む光景を、逆向きに再生している世界に見ることができるのです。戦争に限らず、この世が突き進んでいく世界を逆再生すると、同じように私たちが望む平和な世界を見ることができるということです。この逆が今の世界なんですね。聖書は、終わりの日には、国同士が争い、人同士が裏切り、憎み合うようになると言っています。また、不法がはびこり、愛がさめるとも書かれています。本当の私たちの世界は、草は枯れ、花はしぼみ、生き物は老いて死に、更に、人によって色々なものが壊され奪われて行く…そんな世界なんです。
これが、神さまから離れ、自分の考えで生きて行こうとしている(罪の入り込んだ)世界なのです。ところで、もし、(時間ではなく)世界中の人が自分の考えと真逆のことを選択して行動するならば、この世界はどうなると思いますか?奪う人は与え、蓄えようとする人は人に施します。
嘘を付かずに真実を語りますし、自分だけが楽をせず、人を休ませようとします。子供を虐待する親は子供に愛情を注ぎます。
勿論、その逆の行動をする人(本来は良い人)も出てきますが・・・
私は、絶対に世界は良い方向(平和)へと向いていくと思います。
放っていても良い方へ勝手に進んでいくと思います。
聖書には次のように書いてあるからです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、誰もかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマの信徒への手紙3章10節~12節)つまり皆が逆の選択をすると、必然的に正しい生き方で満ちた世界へと変わるのです。子供の顔は笑顔でいっぱいになるでしょう。
弱肉強食とは違い、弱い人が守られる世界になるでしょう。
生き易い世界になることは間違いありません。ニュースはいつも明るいニュースばかりだと思います。みんながいつも未来に希望をもって生きることができる世界になると思います。もし、こんなスイッチがあればどうでしょうか。
それを押すと、みんなが考えていることとは逆の選択をいつもする世界になるのです。私は絶対に良い世界に自動的になっていくと思います。
何故なら、『善を行う者はいない。ただの一人もいない。』と聖書にあるからです。でもこう思う人もいるでしょう。「私は、悪い事を選択しないといけないのですか?」そうなんです。人を助ける人は、人が嫌がることをしなくてはなりません。誰だって嫌ですよね。でも、自分が悪者になることによって、もっと沢山の人が“本来私がしたかったこと”を実現してくれるとしたらどうですか? 皆さまでしたら、そのスイッチを押しますか?押せば、自分は悪者になるのですが平和が実現するのです(実は自分の嫌な性格は消えます)。
そんなスイッチ、押しますか?わたしはそのスイッチを押したいです。
世界平和が実現するのであれば(みんなの顔が笑顔になるのであれば)、自分は悪者(嫌われ者)になってでも世界平和を実現したいと思います。
聖書には、「初めに神が天と地を創造された」と書かれています。
神さまは、無からこの世界をお造りになりました。神さまがお造りになったこの世界は、素晴らしく美しい世界でした。命が次から次へと生れる、命溢れる世界でした。更に聖書には、創造の冠として“神に似せて”私たち人間を造ってくださったと書かれています。つまり、天地創造の最終目的は、人と神との「安息」でした。この「安息」というのは「休む、安らぐ」という意味があります。その安息のために神さまはこの世界をお造りになったのです。
(神さまがお造りになった世界で)私たちが憩う。また、神さまが私たちと永遠の関係を持つ。これが創造の目的でありました。でも、そこに罪が入り込んでしまったんです。その結果、神さまとの関係が壊れました。最初の頃の自然との関係、神さまとの麗しい関係を失ったのです。その関係性が壊れた人間は、神さまを造った世界を壊すようになりました。神さまは「愛」によってこの世界を創造されました。同じように、この壊れた世界を同じ「愛」によって回復しようとなさったのです。それが福音です。『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』とある通りです。私たちは、イエス様の十字架による贖いを通して、こうして今、安息の一部“神さまとの正しい関係”を取り戻しています。礼拝はそれを実感できる時です。これはイエス様の十字架による新しい契約(回復)によって実現しています。そして、園の命の木から取って食べるように、命のパンであるイエスさまの霊性を頂いています。
そこには罪の赦しがあり、命があるのです。もちろん、本当の安息(神さまと顔と顔とを見合わせるような親しい交わり)は、キリストの再臨の後、実現します。私たちはその時を待っています。さて、私たちは今、四旬節(受難節)を過ごしています。この時期は、私たちの贖い主であるイエス様の十字架の受難を覚える期間となっています。今日の福音書の箇所では、「(主よ)お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と幾人かのギリシャ人がやって来たところから始まっています。しかし、今日の聖書箇所を見ますと、イエス様の置かれている状況はあまり良いようではなかったようです。
それは、まずフィリポを尋ね、フィリポがアンデレに話し、それからイエス様に会っているところから想像できます。ちょっと緊迫したムードを感じます。この幾人かのギリシャ人(異邦人)は“礼拝するために祭りに来ていた”とありますので、旧約聖書を通して語られている“神の国”に関心があったのが分かります。更に、イエス様による「新しい神の国」には、もっと関心があったのです。それは、新共同訳では訳されていませんが、彼らがフィリポに言葉をかけた時、敬意を込めて「主よ(先生)」と呼びかけていることから分かります。彼らはイエス様とその弟子たちを特別な存在として捉えていたのです。
さて、異邦人が訪ねて来たことを知ったイエス様はこうおっしゃいます。
『人の子が栄光を受ける時が来た』この栄光とは十字架の救い(贖い)のことであり、復活のことでもあります。いよいよ、神の大きな贖いの業が実行される時が来たのです。それは、罪のない神の独り子が、世の人々(ユダヤ人だけでなく異邦人をも救うために)十字架で死んでいくという、普通ではありえないことが起こる時なのです。罪のない神が呪われた人として掲げられるのです。
それは、世の罪を全て背負って死んでいった神の姿であり、また、それを信じ仰ぐ人は永遠の命を得るという、信仰の回復をもたらすための姿でもあったのです。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネによる福音書12章24節)このイエス様の言葉は、ご自身の十字架の死が、どのような意味を持つのかを教えている言葉です。過ぎ越し祭りは、春にありました。
それは、「大麦」の収獲祭でもありました。でも、その前に、動物の犠牲が捧げられていました。つまり、犠牲の祭りがあり、続いて喜びの祭りがあるのです。ですので、イエス様は、「麦」を喩えて、死と復活とそれに伴う神との関係の回復という実りを説明されたのでした。ギリシャ人はイエス様がエルサレム神殿にロバにまたがり入城してきたのを見たと思います。
でも、イエス様は、本当は人を解放しご自身の民として取り戻すために天から降ってこられたのです。今日お読みしたエレミヤ書にこう書かれています。
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ書31章31節~33節)これは、イスラエルの民(旧約の民)との間に結ばれた契約(シナイ山での契約)とは違い、新しい契約(異邦人を含め全ての人と結ばれる新しい契約)がイエス様を通して実現するという預言を記した言葉です。
このみ言葉の成就が、最後の晩餐の時に告げ知らされました。
また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。(マタイによる福音書26章27節~28節)
天地創造の最終目的は、人と神との「安息」でした。
神さまは私たちと永遠の関係を持とうしてこの世界をお造りになりました。
それが、一度、罪によって崩れましたが、神さまは、再び、それを取り戻すために、御子を世にお遣わしになったのです。「愛」から天地を創造した神は、同じ「愛」によって回復なさるのです。この後、聖餐式を行います。
これは、まさに安息に生きる私たちの姿です。本当の安息はまだとっておかれています。でも、ここに、「既に」と「未だ」が重なっている安息の一日が実現しているのです。最後になりますが、イエス様のこの言葉を聞いて終わりましょう。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。(ヨハネによる福音書12章25節)
最初に逆再生の世界にこそ真の平和の姿がある。自分が思うことと逆の選択をする時そこに真の平和がある・・・。そのようなことをお話ししました。
イエスさまの言葉に逆説的な言葉が多いのはそのためです。
あなた方を迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。(ローマの信徒への手紙12章14節)
これこそ逆の生き方(命ある生き方)、クリスチャンらしい生き方の一つだと思います。今週、この祈りを是非実践してみてください。
恐らく、不思議な実りを見ることができると思います。
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