宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ヨハネによる福音書2章13節~22節
出エジプト記20章1節~17節
コリントの信徒への手紙Ⅰ1章18節~25節

 「訴えても通じない」

説教者  江利口 功 牧師

 

 父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

エルサレムの近くにベタニアという村がありました。

イエス様は、その村にあるマルタとマリアの家をよく訪れておられました。ある時のこと、イエス様が彼女達の家を訪れになった時、マルタの姿は見当たりませんでした。マリアはイエス様の前に静かに座っていたのですが、マルタはそこには居ませんでした。彼女は、イエス様一行をもてなそうと、必死になっていました。(しびれを切らした)マルタはイエス様にこう言います。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』

(ルカによる福音書1040節)マルタはイエス様のためにしていることが「正しいこと(当然のこと)」だと思っていました。(疑ってもいなかったのです)。ですので、イエス様が賛同してくれると思いイエス様に直接言ったのです。しかし、イエス様はマルタにこう言いました。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』(ルカによる福音書1041節)マルタは「イエス様をもてなすことが最優先」だと考えていました。一方でマリアは安息日の時のように、「手を止め、イエス様の前に座ることが最優先」だと考えたのです。マルタは、イエス様を前に「自分が(→)イエス様のために何をするのか」に関心がありました。一方でマリアは「イエス様が(→)私のために何をお話しくださるのか」に関心があったのです。これは、主の前に集う時に大切な事(型)です。

皆さまは、玄関にイザヤ書(56章7節)のみ言葉が掲げてあるのをご存じでしょうか?そのみ言葉は、私が神学校の時に同じ授業を受けていたある牧師夫人から聞いた話しに感銘し、掲げたものです。そのみ言葉は『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』(イザヤ書56章7節)というみ言葉です。その牧師夫人の教会にもこのみ言葉が掲げてあったそうです。

ある時、もめ事がありました。そのことで気持ちがすさんでいたそうです。

そのような時に、会堂に入る時にこのみ言葉が目に入ったそうです。

『わたしの家は、全ての民の祈りの家と呼ばれる。』改めて、教会とはどういう場所なのかを感じさせられたそうです。神さまの直接的な語り掛けとして聞こえたのだと私は思います。私は、教会の会堂が「どのような場所なのか」を忘れないために、み言葉を通して神さまから語って頂くために掲げています。一日の初めに礼拝堂に入る時には、まず、このみ言葉に目を注ぎます。

そして「私自身にとっての祈りの場所だと神さまは言ってくださっている」とそのみ言葉を聞き、また、「牧師として、この場所をどのような場所にしなければならないか」を思い直すことにしています。

先日、スリランカのご夫妻が教会にお越しになられました。この方は時々来られます。でも、私と話をするために来られるのではありません。

お祈りをするために来られるんです。ご主人がカトリックの信者の方で、多分、日曜日に礼拝にいけなかった時にお祈りにだけ来られているんだと思います。(平日、カトリック教会は会堂に入れないのでしょう)。

私はお二人が敬虔にお祈りに来られるお姿を見て、神さまの存在の大きさを感じました。また、祈っておられるお二人の姿を見ると。『わたしの家は、全ての民の祈りの家と呼ばれる。』というみ言葉がこの会堂で成就しているのを感じました。お祈りって家でもできると思います。でも、お二人は、わざわざ聖壇の前にやって来られ、そして、祈って帰られるんですよね。神の前に出るとはどういうことなのかを見て思わされます。また、礼拝堂の存在って大きいと思います。イエス様はある時、次のような喩えをなさいました。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神さま、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神さま、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカによる福音書1811節~14節)

ファリサイ派の人は、自分がどれだけ正しく生きているか、また、生きて来たか、頑張っているかを誇って主の御前に集っていました。

主の前に誇れる自分だと思っていました。彼は、主の御前に出ていますが、関心は自分がしてきたことにありました(マルタと同じ)。自分を見て(↑)欲しいんですよね。一方で、徴税人は神さまの御前に自分が罪深い者であることを認め「憐れんでください」と憐れみを願い求めて(↓)います。

彼の関心は、神さまよりの憐れみにありました。イエス様は、『義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。』とおっしゃいました。「義とされて家に帰った」というのは「神の憐れみと恵みを受けて家に帰った」という風に解釈してくださっていいと思います。神の憐れみと恵みは、神の御前に憐れんでくださいと上よりの恵みを求める人のところに来るんです。これが、神さまと私達との関係です。教会はそのような関係性が大事な処です。人々が、神さまを慕い求めてこられるのが教会です。

そのような視点で今日の福音書の箇所を見ますと、イエス様が何に怒りを示されたのかが良く分かるかと思います。ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネによる福音書2章13節~16節)エルサレムの神殿というのは、大切な儀式をする場所なのですが、同時に、神の臨在が中心にある大切な場所でした。人々は祭りのたびごとに神殿にやってきました。私たちの今年のみ言葉は、『わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす。喜び歌い感謝をささげる声の中を祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを。』(詩編42編5節)ですが、このような期待を壊すような現実が神殿にはありました。神殿は、お金を愛する商人たちでいっぱいだったのです。普段使っている通貨は神殿の中では使えなかったようです。ですので神殿に来た人は両替する必要がありました。そのために両替商がいましたが、手数料は高額でした。また、犠牲の動物を手に入れる必要がありました。神殿で買うと(傷のない動物と)お墨付きがもらえるので、人々は他で手に入れてくるのではなく、神殿で買っていました。ただ、そこで売っている動物は高額でした。神さまは、貧しい人は(安い)鳩を捧げなさいと命じておられましたが、その鳩も神殿では高く売られていたようです。

また、それを許可することで大きな富を得ている人たちもいました。

神殿はお金を愛する商人たちでいっぱいだったのです。私は、小学生の頃、祖父母と一緒にお寺に良く通っていました。もともと宗教心が強かったので何の違和感もなく通っていました。しかし、ある時から行かなくなりました。

それは、宗教心が無くなったからではありません。お金を愛する人たちのようにしか見えなかったからです。お賽銭のことではありません。何かをしてもらうとお金がいるんです。しかも高いんです。昨日、今日の説教のためにネットでサッと「お加持」について調べました。「お加持」というのは簡単に言えば癒しの儀式です。私も何度か「お加持」をして頂いた記憶がありますが、何と、今は「3万円!」って書いてありました(貧しい人は、癒してもらえません・・・)。多分、昔も高額だったのだと思います。勿論、参拝する人は熱心なんです。でも、その神を求める心を利用してかどうかわかりませんが、そこに人間の欲というか罪が入り込んでくるんですね。私はそこに霊的なものを何も感じなくなりました。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」このイエス様の言葉はすごくわかります。

回復したい気持ち、集う人たちの心を大切にされているイエス様の優しさを感じます。そして、本当の神の神殿がどのような処であるのかを教えようとされるイエス様の憤りもわかります。神を求める人の心をよくご存じのイエス様でしたので、本当に腐敗した神殿の姿には憤りを覚えられたと思います。

そして、その憤りを見たイエス様の姿に弟子たちは、詩編69編9節のみ言葉を思い出しました。「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」(ヨハネによる福音書2章17節)恐らく、イエス様の父なる神さまへの思いが、命を顧みない行動となっていることからそのみ言葉が思い浮かんだのだと思います。実際に、イエス様は、このことで当時のお偉い人たちとの関係が悪くなりました。お偉い人たちの心は変わりませんでした。最終的には十字架に架けられてしまいます。でも、十字架での死、そして、その後の復活は、新しい時代の始まりとなりました。ご自身の死を通して私たちに命が注がれたのです。

イエス様はその事をご存じでした。イエス様は、誰と闘っておられるのでしょうか?神殿を管理するお偉い人たちでしょうか?そうではなくて、人の罪と闘っておられるのです。その罪とは、私の中にも、皆さまの中にもあるのです。私は、教会は変わらなくてはならないと思います。

「変わらなければ」というよりは、「本来の姿に帰って行かなくてはならない」と感じています。私は、自分の立場上、幾つかの処で、あるみ言葉をお伝えしています。しかしなぜか伝わりません。それは、皆さまがよくご存じのみ言葉です。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書1128節~30節)私は、教会が、このみ言葉通りの教会の姿なのか、時に疑問に思います。疲れて教会を頼ってくる人に対して、何を提供しなければならないのでしょうか?教会に来るまではしたことなかった新しい用事でしょうか?教会に来るまではなかった新しい献金袋でしょうか?安らぎと同時に、荷は必要です。

しかし、それは軽くなくてはなりません。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」イエス様の言われる神殿とは、御自分の体のことでした(ヨハネによる福音書2章21節)。イエス様は、律法に基づく神殿の終わりをもたらされました。神殿は神の言葉に従わなかったがゆえにローマ帝国によって滅ぼされてしまいます。しかし、新しい神殿はイエス様の復活と共に実現していました。神はまた、全てのものをキリストの足もとに従わせ、キリストを全てのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、全てにおいて全てを満たしている方の満ちておられる場です。(エフェソの信徒への手紙1章22節~23節)イエス様は、全ての人と交わりを持ちたいと願っておられます。勿論、復活して天に昇られたイエス様は目には見えません。しかし、イエス様はみ言葉と共におられます。ご自身のみ言葉に対する信仰を求めておられます。なぜなら、み言葉を素直に受け取る所に交わりつまり真の命があるからです。この後、聖餐式があります。

ここに命があります。私たちは信仰によってパンとぶどう酒(ジュース)と共にみ言葉による約束どおりイエス様の真の肉、真の血がそこにあると分かって受け取ります。イエス・キリストこそ、命の木なのです。