宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ルコによる福音書8章 1節~38節
創世記 17章 1節~7節 ・15節~16節
ローマの信徒への手紙4章13節~25節

 「信じるしかない」

説教者  江利口 功 牧師

 

 おはようございます。神さまを信じていると言いながらも、気づいたら自分の願う道を歩もうとしているのが私たちではないでしょうか。神さまを信じる(信仰を持つ)のは、自分の力ではなく、神さまの業だなとつくづく感じるのですが、信仰を持ってクリスチャンとして自分の足で歩むようになって思うのは、正しいことを選択して生きることの難しさです。

「御国が来ますように、御心が天で行われるとおり地にも行われますように」と(主の祈りで毎日)祈っていながらも、知らず知らずのうちに人間の思いで心が覆われてしまうものです。『神のことを思わず、人間のことを思っている』(マルコによる福音書8章33節)とイエス様はペトロを叱責されていますが、本当に「神さま曲がった道を歩まないように霊的な目をいつもわたしに与えていてください」と願うばかりです。そのために、「み言葉に生きる(神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる)」ということの大切さをつくづく思わされます。イエス様はこう言っておられます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコによる福音書8章34節)どうしてイエス様はそのようにおっしゃるのかと言いますと、そこに命があるからです。「自分の十字架を背負いなさい」というのは、「古い自分を十字架につけてしまいなさい」という意味です。当時、十字架刑というのは「統治者に逆らう人たち」を見せしめにする処刑方法でした。

人々は、権力者に逆らうとこうなってしまうという恐怖を抱きました。

確かに、イエス様は十字架に架かられます。ですので、弟子たちにとってこの言葉は、「あなたも一緒に死を覚悟して私に従ってきなさい」という風に聞こえたでしょう。でも、今の私たちに語られるこの言葉は、権力者に逆らってでも正義を貫きなさいということよりも、もっと霊的な意味で、「古い自分を捨てる」ということを教えているのです。古い自分(つまり罪の姿が色濃く出た私の姿)に気づき、その私と“さよなら”するのです。そのような思いで毎日を過ごすのです。パウロはローマの信徒への手紙でこう言っています。

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

(ローマの信徒への手紙6章4節) 続いてこう言っています。

わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

(ローマの信徒への手紙6章6節~8節)洗礼は一度きりです。洗礼によって、私たちは神の力により新しくされます。(神さまに受け入れられた)私達ですが、古い私はいつも現れてきます。この古い私とさよならする作業は、洗礼を受けた後でもずっと続くんです(死ぬまで続くんです)。

イエス様の「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコによる福音書8章34節)というこの言葉は、私たちの内に働き、古い私に気づかせ、私たちを命ある生き方へと変えてくださる言葉なんです。ポイントは、イエス様と共に古い自分を十字架につけるとそこに新しい自分が生じてくる。命が生じるということです。そして、命ある生き方をするとき、周りが幸福になっていくということです。

私たちは、自分の願い、自分の思いを優先させてしまう傾向があります。

(そのような力が働くと言ってもいいかも知れません)。

しかし、その肉の思いに打ち勝つ時、霊的な実りがまっているんです。

聖書で、アブラハム(父・多くの)という人が出てきます(ユダヤ人にとっては肉の父、私達信仰者にとっては信仰の父です)。当時はアブラム(父・高める)という名前だったのですが、神さまはアブラムに『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように』(創世記12章1節~2節)。と命じ、祝福をお約束になりました。

アブラハムがその祝福を受け取るためには、捨てなければならないものがありました。それが住み慣れた土地でした。そして、信仰が必要となりました。

なぜなら祝福は行く先にあるのでそれが見えないからです。しかし、神さまの言葉を聞いたアブラムは、神さまの言葉を信じて(み言葉に従って)生まれ故郷を捨てて、知らない土地に向かって家族を連れて出て生きました。

そして、神さまが後にアブラハム(多くの人の父)と名付けたとおりに、彼からイスラエルという民が出てきて、ソロモン王の時に最高の繁栄を受け取ることになります。ただ、その後、霊的な腐敗があったりしてその繁栄はなくなります(現在のイスラエルの姿は皆さまご存じだと思います)。

ただし、神さまの約束は、肉の父ではなくて、霊的な父(信仰の父)アブラハムとして成就していくことになります。少し想像して欲しいのですが、自分が熱いお湯(熱湯)を持っていて、目の前にいる人がコップに冷たい水を持っているとします。自分の熱いお湯を相手にあげようと思えばどうすれば良いでしょうか。相手がコップに入っている水を全部捨てなくてはなりません。

少しでも残っていると、熱い湯をあげることはできません。このことは神さまの祝福を受けとるときに大事なことなんです。イエス様は恵みを与えようと私達にお語りになります。その時、邪魔になるのは、明け渡せない心なんですね。古い私です。イエス様はこうおっしゃいました。『だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。』(マタイによる福音書9章16節~17節)

これは、どういう意味かと言いますと、古い生地と、織りたての新しい生地とを一緒に縫い合わせると、織りたての布は縮むので、ほつれて、最悪、裂けてしまうんですね。ですので、イエス様は「あなたがたは新しい生地と古い生地を一緒にしないでしょ?」とおっしゃるんです。

また、新しいぶどう酒(つまり、これからもしばらく発酵するぶどう酒)を古い革袋(つまり、硬くなっている革袋)に入れないでしょ?とおっしゃるのです。なぜなら、発酵で膨らみ革袋が避けてしまうからです。

そのことはみんな知っているんです。そのうえで、私(イエス)を受け入れようと思えば、古い考え(風習)に固執していてはだめだと言うのです。

古い考え方を捨てて、わたしを受け入れなさい・・・イエス様はそうおっしゃるんです。当時のイエス様の教えって、すごい斬新でした。

と言うか、人々にはそのように見えました。特に、長老、祭司長、律法学者(つまり、政治を司る人、宗教を司る人、裁きの基準を知っている人)には、受け入れがたい聖書解釈だったんです。だから、彼らは、イエス様を受け入れることができませんでした。結果、イエス様を葬り去ろうと考えるのです。それが、十字架刑に繋がっていきます。ただ、その「人の企て」が、福音の成就に用いられて行きます。み言葉は日々私たちを新たにします。

祈りもまた私たちの心を澄んだ心に変えていきます。でも、もう一つ大事なことがあって、それが、み言葉に従順になることです。(気持ちを白紙にして受けとる)。み言葉に従順になると聞くと、律法を守るというイメージあるかと思いますが、今日は、そうではないんですね。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

(マルコによる福音書8章34節)と、今日イエス様がお語りになっておられるので。今日は、古い自分を捨てるということが従順に生きることだということを理解して欲しいと思います(そのことを意識して欲しいと思います)。最初に、コップのお湯の話しをしました。なぜか聖書って、新しくなる(入れ替わる)ということを強調するんです。年を取った人が若返るというのではなく、古い人が新しくなるという感じです。そのためには、新しい何かを受け取るために、古いものを全部捨てなくてはならないのです。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコによる福音書8章34節)

 これは、古い自分を捨てる作業は自分の存在を否定するほどに簡単ではないということでもあると思います。自分の願い、思いを実現したいのが私達だからです。でも、古い私に“さよなら”したときに、その先に待っているのは「祝福(もしくは新しい世界)」なんですね。今日の説教を準備していて、聖書の言葉ではありませんが、なるほどなと思う言葉に出会いました。

それは、「いばら(茨)の道を歩いた人はいばら(威張ら)なくなるよ」という言葉でした。私たちが、み言葉に示され、望まない道(時に茨の道)を(信仰をもって)歩むと、その後には、何かが必ず待っているのです。

 信仰の父であるアブラハムには、正妻サラとの間には、子共が与えられませんでした。歳を取りようやくイサクが生まれるのですが、神さまは、そのイサクを捧げよと命じるのです。捧げよとは命を捧げるという意味です。

アブラハムはこの神さまの言葉にも従順に従います。ただ、アブラハムは、イサクが死んで終わらないと信じていました。実際に、イサクは返してもらえるのですが、その後、約束通り、イサクから多くの子孫が生まれてくるのです。

最初に、コップのお湯の話しをしましたが、諦める時(正確に言うと、神の言葉を信じて何かを手放すとき)そこに新しい何かが生じるんです。

それは、どこか、私のコップに「長年かけて」「何とかして」手に入れた自分なりの幸福(他にも価値観・生き方など)を神さまがひっくり返して全部手放しなさいという感じです。貰えるものが何か分かれば、天秤にかけることもできるでしょうが、それが何か分からなかったり(時に本当にもらえるかわからなかったり)するのが、神さまが準備されている祝福です。

でも、それを手に入れるためには、全部、ひっくり返して捨てなければならないのです。先週、お話し致しましたが、私たちはみ言葉の下に、つまり、御言葉の前にへりくだって生きることを忘れてはなりません。

イエスさまは、十字架にかけられる前の夜に、ゲツセマネで、この茨の道を通らなくて良いのであればそうしてくださいとお祈りになりました。

しかし、同時に「あなたの御心のままになりますように」と、神の前にへりくだり、自分の身を明け渡しお委ねになりました。聖書に書かれた預言の言葉の下に身を置かれたのでした。イエス様は、十字架につけられましたが、その後、復活され、イザヤ書の預言が成就しました(イザヤ書53章10節~12節)。そして、イエス様を通して、多くの人が罪の赦しと永遠の命を頂いたのです。私たちは、アブラハムのような信仰を持ち合わせていないと思います。み言葉を聞いて、その通りにしないといけないなと思う時、また、これから先どうなるか不安になる時ってあるかと思います。ある意味、コップに入っている水をひっくり返して全部捨てなくてはならないような時かもしれません。その時は、信じるしかないと思って、「えい、や~」とひっくり返してみてください。

そんな明け渡し方でいいの?と思うかも知れませんが、それでいいのだと思います。「信じるしかない(委ねるしかない)」という時があるのです。

神さまは「信じなさい」とおっしゃいますが、「信じてみなさい」とおっしゃる神さまでもあると思います。「何が起こるのか見ていなさい」とおっしゃる神さまだと思います。信じるしかない(という委ねる気持ち)で歩んでください。すると、新しい世界を見ることができると思います。