宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ルコによる福音書1章9節~15節
創世記九章八節~一七節
ペテロの手紙Ⅰ 3章18節~22節

 「義しく生きる時」

説教者  江利口 功 牧師

 

 おはようございます。食卓って不思議だなと思います。

食べ物を戴く場所なのですが、大切なことを教えられる場所でもあるんですね。命を繋ぐために食べ物を頂く場所だけのようで、大切な場所でもあるのですね。

 近年、「孤食」という言葉が出てくるようになりましたが、それは、独りで食事をすることを意味します。忙しい現代、仕方ないとは思いますが、独りでだけで食事をするというのは避けたいですよね。特に、子供は親と一緒に食べるのが良いと思います。私たち大人であっても、親がいる間は親と食事を一緒にする機会を大切にするべきだと私は思います。

親は食事の時に子供の話を聞いたり、大事なことを教えたりします。

そこで子供は心も養われます。“食卓で子供は育つ”ともいわれていますが、本当にそうだと思います。しかし、大人の私も、食卓で学ばされる時って多いんですよね。ある時、テーブルの上に置かれているお皿を見た時に、“家内のお皿”にはおかずの切れ端が多く載せてあり、“私や子供達”のお皿には、真ん中の部分、つまり、美味しい部分・形が綺麗な部分が多く盛り付けてあったんですね。私はそれを見て、「人の優しさ」を見た気がしました。

人の優しさに触れたと言ってもいいのかも知れません。

また、ある時は、私のお皿にはおかずが多く載せてあり、子供が小さかったこともありますが、子供のお皿には、少しだけしか載せられてなかったんですね。私だったら、「私のおかず少ない!」と(言いはしませんが)思います。でも、子供は何も言わず(何も思わず)親が盛り付けたおかずをニコニコして食べていました。私はその姿を見た時、「無垢な人」とはこういう姿なんだと思いました。子供が成長してきますと、今度は、子供に沢山食べさせようとします。親であれば「欲しかったらもっと食べ」と言うでしょうし、自分のお皿から取って子供にあげることもします。これって「教えられて」することではなく、親であれば必然的に取ってしまう行動です。でも、これが子供にとって良い体験となっていきます。何かを期待してではなく、ただ、そうしてしまう。

これが愛です。このような親の無償の愛を受けて、子供の心は育っていくのだと思います。私は食卓って、命の糧を頂く場所だからこそ、そこには、言葉の交わりがあり、また、見えない愛情があり、さらには、大事な教えがあると思います。ですので、子供に限らず、大人同士も、一緒に食事をするというのは大事なんですね。チョコレートを半分に割って、大きさが違えば、大きい方を子供にあげる。これって聖書が教える基本的な愛の姿です。

でも、これは教えられてするのではなく、そうされることで、意識せず実践する人になっていくのではないでしょうか?神さまは、この世界をお造りになりました。そして、この世界を一つの真理、秩序で統治しておられます。

それは、「愛」です。しかし、罪が入り込んだ世界では、人の心は歪んでしまいました。貧困が生まれ、略奪が生まれ、命が奪われていく。そのようなことが起こっています。私たちは、聖書を通して、「愛」を知ります。

でも、罪が入り込んで「愛」する力を失った私たちはどうしたら「愛」に生きる人となれるのでしょうか?それは「愛」を受け取ることです。

父なる神さまから受け取ることです。神さまは、愛に生きることを教えておられます。でも、神さまは、文字だけで私達に「こうしなさい!」と命じておられるのではありません。神さまは、ご自身の御子を十字架に架けるということを通して、私達に愛をお示しになり、そして、礼拝という食卓を通して、神さまは私達にいつも愛の糧を与え、愛の言葉をお語りになるのです。

それが、礼拝です。「食卓で子供は育つ」と言われていますが、人間は十字架の救いの愛と礼拝という神の食卓で心が育つのです。そして、この二つの恵みから、私たちは、情緒豊かになって、世に出て行くことができるのです。

さて、今日、私たちは、福音書を読み、そこに、イエス様の三つの歩みを見ました。一つは、洗礼をお受けになったイエス様。そして、もう一つは荒れ野で試練をお受けになったイエス様。三つ目は、公に出て宣教し始めるイエス様です。このイエス様のお姿を通して、私たちの「クリスチャンとしての生き方」をお話ししたいと思います。さて、今日の聖書箇所の一つ目、イエス様が洗礼をお受けになったところですが、私たちは、他の福音書を見ますと、もう少し、詳しく知ることができます。イエス様はヨルダン川で洗礼をお受けになったのですが、実際は、洗礼者ヨハネは一般の人々に「悔い改めよ」と洗礼を授けていたんですね。そこにイエス様が来て「わたしも洗礼を受けます。

私にもそのことをして欲しい」と洗礼者ヨハネに言うんです。

すると、誰もが思うと思いますが、洗礼者ヨハネはイエス様に「あなたが私から洗礼を受けるのですか?」と躊躇するんです。イエス様が洗礼を授けて欲しいとおっしゃれば、私だって(誰だって)「なぜあなたが私から?」と思うはずです。洗礼者ヨハネもそう言いました。で、そこでイエス様がおっしゃった言葉こうです。「正しいことをすべて行うことは、我々に相応しいことです」(マタイによる福音書3章15節)このイエス様の言葉、覚えておいてください。「正しいことを全て行うこと」とありますが、ここで「正しい」という言葉は「義」という言葉です。「義」という単語は聖書的にはとても大事で「神の国の門を通過できるほどの」最高の姿です。皆さまご存じだと思いますが、アブラハムという信仰者の話があります。神さまは、アブラハムに住み慣れた町から出て、示す土地に行きなさいと命じられます。アブラハムはそのお告げに従って、住み慣れた町を出ていきます。神さまは、アブラハムに祝福を約束されますが、彼にとって祝福の一つである子孫の繁栄を見ることはできていませんでした。年老いたアブラハムに対して、神さまは、夜空を見上るようにアブラハムに語り、「この星の数のようにあなたの子孫が増える」とおっしゃったんです。その言葉を聞いたアブラハムは、そんなこと有り得ないと思うのでなくて、信じたんですね。そのアブラハムのことで聖書はどう言っているのかと言いますと、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と書かれているんです。ここで、「義」という言葉が使われています。

これはイエス様が洗礼をお受けになる時におっしゃった「正しい」という言葉と同じ単語です。イエス様にとって、正しい姿、つまり義と呼ぶに相応しい姿とは何だったのか。それは、神の前に罪人としてへりくだることでした。

イエス様は、自分の利益を求めず、私たちの利益だけを求め、そして、父なる神さまに従順であられました。イエス様は、決して「神さま、わたしはほかの人たちのように、罪深い人でもないことを感謝します。

わたしはあなたの前に義しく生きることが出来ました」という風には思われませんでした。(参考:ルカによる福音書181112節)。

そうではなくて、私たちと同じ人間の姿にお生まれになっただけでなく、神さまの前にへりくだり、胸を張るのではなくて、頭を垂れ、洗礼を受けられたのがイエス様だったのです。それは、神の前にへりくだるイエス様の姿。

神の言葉の下に自分を置く姿でした。これが「義しい人の姿」なのです。

イエス様がそのように神のみ言葉の前にへりくだり、洗礼をお受けになった時に、天から聞こえて来た言葉は何だったでしょうか?それは、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉でした。

これは、御子だからこそ語られる天からの声でありますが、もう一つ、私たちにも、神のみ言葉の前に「わたしはあの人たちのようではありません」という思いではなく、「あなたの前に罪深いものです。」とへりくだる時に聞こえてくる神さまの言葉です。私たちはその告白を礼拝の始めに致します。

そのようにへりくだる時、神さまは、「あなたはわたしの愛する子だ」「義しい子」と喜んでくださるのです。イエス様は、次に荒野に向かわれました。

そこで断食をされ、色々な悪魔の試練をお受けになるのです。

そこで、イエス様は悪魔から三つの誘惑をお受けになります。

これも他の福音書を見ると良く分かります。その誘惑の一つは、空腹のイエス様に、「神の子ならば、石をパンに変えたらどうだ?」という誘惑でした。

イエス様は、悪魔の「神の子なら、石をパンに変えたらどうだ?」という誘惑に対して何とお答えになったかご存じですか?「人はパンだけで生きるのではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」と書いてある」(マタイによる福音書44節)とお応えになりました。自分の力ではなく、神様のみ言葉を戴きながら人生を歩む。決して自分の思いを神さまの上に置かない。というのが義しい生き方であるということです。ここで、“聖書の言葉によって生きる”とはおっしゃらず、神の口から出る、一つ一つの言葉で生きる。“一つ一つの言葉で生きる”という処がポイントだと思います。み言葉は大事、でも、さらに大事なのは、毎日聞こえてくる神さまの言葉に生きるということが大切なんです。さて、神様を信じて生きることが大事だとお答えになったイエス様に対して、今度、悪魔は、聖書にはあなたを守ると書いてあるぞ、ならば、神殿の上から飛び降りて見よと、み言葉の真実を試してみてはどうか?と誘惑してきました。その言葉に対して、イエス様がおっしゃった言葉は何かと言いますと、それは「あなたの神である主を試してはならない」という言葉でした。

聖書は、あなたを祝福する。あなたを守る。色々な嬉しい言葉を語っています。でも、その通りにならない・・・。むしろ逆のことが起こった・・・そんな体験や経験をすることは誰にでもあります。神さまは、善い人にも悪い人にも雨を降らせ、太陽を登らせるお方、かつ忍耐のお方ですので、善い事ばかり私たちに起こるということはありません。特別扱いはなさいません。

そこで、イエス様がおっしゃる「あなたの神である主を試してはならない」という言葉はどういうことを意味するのかと言いますと、「私たちは、み言葉の下にいる」ということなんです。与えられたものを無垢に受け取る。

「聖書にこう書いてあるのになぜ私にこのようなことが起こるのだ」というのは、確かに、私たちの心の叫びです。当然出てくる叫びです。

しかし、神様に対して「約束を破るな」というのは、み言葉の上に、私たちがいるのです。一方で神の前にへりくだると云うのは、み言葉の約束の下に自分を置き続けるということなのです。み言葉とは違うと感じることが起こったとしても、そこに意味がある、愛がある、神の御心のままになりますように・・・というへりくだる祈りこそが、「義しい人」の生き方なのです。

御言葉をピックアップして、その通りになっているかどうかを吟味する。

これが試すということです。さて、イエス様は、神の前にへりくだり洗礼をお受けになり、また、神のみ言葉の下に自分を置きながら試練を通りすぎられました。そのような苦難の時に、イエス様の傍で何が起こっていたのかと言いますと、み使いが仕えていたのです。確かに、色々なことが起こります。

青草の原に休むときもあれば、死の陰の谷を行く時もあります。でも、どんなことがあっても「恐れてはならない。ただ信じなさい」という神の言葉と導きを受けることが出来るのが、実は、義なる人なのです。さて、洗礼を受け、試練を乗り越えられたイエス様ですが、そのイエス様は世に出て、人々にこうおっしゃいました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」マルコによる福音書は、他の福音書と違い、イエス様の洗礼、誘惑、宣教の姿を短く記しています。だからこそ、エッセンスを受け取ることができるのではないかと私は思います。それは、「神の前に義しい人はどう生き、何を受け取るのかということです。」私たちは、神さまの前に罪人である自分を認め、へりくだり、そして神の恵みである洗礼を受けます。これが第一の義と認められる生き方です。そして、どのような時も、み言葉の下に自分を置いて謙遜に生きるのが義しい人の生き方です。そして、その神を受け入れるように世に伝えていくのも、義しい人の生き方なのです。しかし、今日、もう一つ、覚えて欲しいことがあります。それは義しい人は、神の食卓にいつも集い、神の言葉を聞き、命の糧を頂くことを続けるということです。

最初に、食卓の話をしました。食卓で子供は育ちます。

イエス様は「渡される夜に」霊的な食卓を「私たちのために」定めてくださいました。その食卓が礼拝です。神さまは、ただ命令を与え、私たちに「人を愛しなさい」「人に仕えなさい」とおっしゃるのではありません。

イエス様の人生は全て仕えられるためではなく仕えるお姿でした。

そして最後に十字架の御業によって、全ての罪の赦しを与え、私たちに義の衣を着せてくださいました。そして、渡される夜に、神の食卓を地上に残してくださったのです。礼拝は、英語で“Devine Service”と言います。

これは、「神の奉仕」という意味です。礼拝は「私達が何をする」かが重要な時ではありません。「神が何をしてくださる時なのか」が大事なのです。

神さまはまず、与え、そして、与える人になるように私たちを変えてくださるのです。私たちは、洗礼を受け義の衣を受け取った後、私たちは、礼拝という、小さな恵みのリズムの中で生き続けます。これが霊的な食卓です。

子供が家庭の食卓で育つように、私達も礼拝という神の食卓で神の言葉を聞き、イエス様の約束に従い霊的な糧を戴きます。そうして、私たちは、義なる人として、世に仕えるのです。イエス様が洗礼をお受けになった時、父なる神の言葉が聞こえてきました。霊に導かれてイエス様は試練をお受けになったのですが、その時、み使いが仕えていました。そして、イエス様が十字架に架かって死なれた時、神さまは、復活という大きな力を発揮されました。

義しく生きる時、最後に霊的な力をいつも受けるのです。そのことを忘れないでください。そして、神さまは、礼拝という食卓でみ言葉を語り、そして、霊の糧を与え続けてくださっているのだということを忘れないでください。