宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
マルコによる福音書9章2節~9節
コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章3節~7節
コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章16節~18節

 「キリストの栄光」

説教者  江利口 功 牧師

 

 おはようございます。私は神学生の時に難病を患いまして、一時は、自分の中で「教会のために働くことはできないだろうな」と思いました。

でも、症状が良くなりまして、神学校も無事卒業でき、この橿原教会に赴任することができました。病弱な私を優しく受け入れてくださったことを感謝しております。私は、赴任した時に、さらに自分の病気の症状が(スっと)軽くなっていったのを体感的に感じました。それは、多くの方が、私のために一生懸命祈ってくださったからだと思っています。特に、当時、故井上千恵子姉が私の健康のことを一生懸命祈ってくださっていたのを覚えています。

皆さまの祈りによって私は元気になっていったと思っています。

その人自身が気づかない処で繰り広げられている事がある。それが大きな力となっている。その一つが祈りだと私は思います。祈りは自分のことを祈る時もありますが、他の方たちのために祈ることの方が多いと思います。

他の人のために祈る祈りは、やはり、物事の背後で繰り広げられている“陰の力”だと思います。また、隠されていて見えないもう一つの世界、つまり、神の国で有効に働く力だと思います。もちろん、良い結果が祈りの結果であるとは証明できません。しかし、祈りは見えていない世界で有効な陰の力なのです。

さて、この世界は、見えている世界と見えていない世界があります。

簡単に言えば、世の支配者が支配している世界と、神が支配している世界です。今日、お読み頂いた、コリントの信徒への手紙にこう書かれています。 

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。

見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

(コリントの信徒への手紙Ⅱ4章18節)ここでは「見えないものに目を注ぎます」とあります。目を注ぐとは、“そこに何かがあるからこそ”注目する(注視する)という意味ですよね。目には見えないのですが、神の支配する世界があるのです。しかし、〔覆いがかかっているので〕人にははっきりとその世界が見えないのです。少し、礼拝を考えて見て欲しいと思います。

この礼拝(今、皆さまと共に集まっているこの空間)の中心に何があるでしょうか?「信仰でしょうか?」確かに、ここに集まっている私たちは信仰を持っています。でも、忘れてはならないのは、私たちのこの礼拝の中心にあるのは「み言葉」だということです。み言葉、つまり、神の言葉です。生きた神の言葉です。家にいても聖書を開けばみ言葉を読むことはできます。

また、オンデマンドの時代ですので、聞きたい時に、み言葉のメッセージを聞くこともできます。でも、礼拝のこの時は違います(特に聖餐の恵みが与えられる時は違います)。先週、栗﨑先生がお話ししてくださいましたが、こうおっしゃっています。御言葉は聞きたい時に聞けるのではなく、一回一回がまさに主の恵みの意志に依存しているのです。故に私たちにとって御言葉との出逢いは一回一回が真剣勝負でなければならないのです。(栗﨑師の言葉の引用) 

私たちのこの礼拝の中心にあるのは「神が今お語りになるみ言葉」だということです。神さまは私たちを招き、私たちに命の言葉をお語りになるのです。 私たちは、御言葉を聞く時、(覆いが掛かっていて見えない)神の世界(支配)に触れることができるのです。この世界は、イエス・キリストを認めようとしません。神が私たちにしてくださった最高の愛を信じようとはしません。

それは、私たちを覆っている罪の力だと思います。

また、神の栄光を見させようとしない、悪魔の業だと思います。

今日お読みした箇所でパウロはこう言っています。わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道を辿る人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。        (コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章3節4節)今日、私たちが読んだ(聞いた)み言葉は、イエス様が山で光り輝かれたという話しです。この時のことは、後に、ペトロがその手紙の中でその時に見た荘厳な栄光の話を語っています。(ペトロの手紙Ⅱ1章16節)。イエス様の栄光をペトロ、ヤコブ、ヨハネだけが見ました。イエス様はご自身の見た目の輝きによって人々に信仰を呼び起こさせることはお考えになりませんでした。なぜなら、その栄光を見ても、人は、その栄光を肉的に利用しようとしか考えることができないからです。

(ヨハネによる福音書6章26節 参照)。しかし、この聖書箇所は、明らかに私たちに、イエス様は神の栄光を持つお方であるということを教えています。イエス様の人生は、人として歩まれた人生であり、また、神が歩まれた道でもあります。この二つは重なっていますが違う働きを持っています。

弟子たちが見たイエス様の栄光の姿は、神であるイエス様の姿を垣間見たようなものです。聖書は不思議な書物で、特に旧約聖書って不思議な書物で、普通に読み進めることもできますが、イエス様を通してみると、別の見え方がしてきます。そしてそこに感動が生じます。今日お読みしたパウロの手紙でパウロは次のように言っています。しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。

(コリントの信徒への手紙Ⅱ3章14節~18節)パウロは「旧約聖書は覆いが掛かっている」と言っています。そして、その覆いは「イエス・キリストにおいて取り除かれる」と言っています。例えば、アダムとエバが採って食べてしまった「善悪の知識の木」について考えて見ても分かります。私達は創世記の話から「採って食べてはならない」という神の命令を学びますし、罪の始まりを見ることもできます。しかし、良く読むと「善悪の知識の木」と同じ処に「命の木」があり「命の木」には覆いが掛かっているのです

そこで、私たちがこの創世記の話から「採って食べてはならないという不信仰の木」の話しをするのではなく、「イエス様が最後の夜に『採って食べなさい』とおっしゃった命の話し(聖餐の恵み)」をしたらどうでしょうか。

そこに「新しい命をもたらす信仰の話し」が蘇ってこないでしょうか。

つまり、イエス様こそ命の木なのです。同じ様に、私たちが、「イサクを捧げたアブラハムの話」を聞いて、そこにイエス様を見る時、つまり、「愛する独り子イエス・キリストを十字架につけた父なる神の話」と「約束のために命を捨てた方」の話しを重ね合わせて理解したらどうなるでしょうか。

「神の義」「神の愛」が見えて来ないでしょうか。

旧約聖書は、覆いが掛かっています。その覆いは、イエス・キリストのご生涯と重ね合わせると、取り除かれます。

そして、取り除かれた時に、私たちの内に神の命が宿るのです。

今日の聖書箇所、コリントの信徒への手紙にこう書いてあります。

「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

(コリントの信徒への手紙Ⅱ4章6節)旧約聖書を見ると、神は、光あれと言って、闇の中に光をお造りになりました。その神は、今度は、闇と化した私たちの心の内に「光あれ」と光で照らしてくださり、私たちは、目が明るくなり、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟るのです。私たちは、旧約聖書を見ても、新約聖書を見ても、イエス・キリストの栄光を見ることが出来るのです。これは、山で三人が見た栄光とは違うキリストの栄光なのです。

神さまは、イエス・キリストを通して私達に命を回復しようとされています。イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは生きるものへと変えられて行きます。イエス様を知り、イエス様を信じる時に私たちの中に命が回復するのです。パウロは続けてこう言っています。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。(コリントの信徒への手紙Ⅱ4章7節)私たちは、復活する時に、神さまの栄光、つまり、私たちを復活させるという神の愛、力が世に示されるのです。それまでは、私たちの内には見えない神の力が働き続けているのです。今から、約二千年前、エルサレムで年に一度の大きなお祭りがありました。“過ぎ越し祭り”です。

旧約聖書の時代、年に三回、大きな祭りがあったのですが、その一つが春にある過ぎ越し祭りです。この時、多くの巡礼者がエルサレムの神殿を訪れます。

日中、神殿の境内は沢山の人で賑わっていました。両替商や犠牲の動物を売る人たちがいて、人々はお金を両替したり、動物を買い求めていました。

神殿の周りを巡って観光もしていたのかも知れません。

また、夜は夜で独特なムードがあったのかも知れません。

この時期は、ローマの兵隊たちも多く集められていたと言われているぐらい緊張感もありました。ピラトもエルサレムに滞在していました。

そのように、沢山の人で溢れる人間的なお祭りムードいっぱいのエルサレムの町(都)で、イエス様と弟子たちが過ぎ越しの食事をしていました。

そして、そこで、イエス様は、大きな恵みの手段を残されました。

それが、聖餐の恵みです。活気あふれるこの世的な世界の中で、霊的な世界(つまり神の業)が静かに進行していました。陰の部隊として動いていました。そして、イエス様は十字架に架かられたのですが、人の目には政治的に犯罪者として取り扱われた人でしたが、私たちにとって(霊的に見た時には)それは私たちの罪を背負って死んでくださった神の姿だったのです。

イエス様の十字架の姿は滅んでいく人にとっては愚かな姿ですが、私たち信じる者にとっては、神の力なのです。私は、初めにお祈りの話を致しましたが、私たちは、気づかないところで他の方に祈られています。

それは、霊的な力となっていて、私たちの人生の何かに影響しています。

ある意味、舞台裏のようなものです。私たちは祈りによって支えられています。同じように、私たちの内側で気づかず働いている霊的な力があるのです。

それが、神の業です。この力は、私たちを復活にまで、導いて行きます。

私たちは、知らないところで祈られています。それは、支えとなっています。そして、もう一つ、私たちの内に働く神さまの業が働き続けているということを覚えて欲しいと思います。目には見えませんがこうした霊的なものによって私たちは支えられているのです。私たちは、見える世界ではなくて、見えない世界に目を留める必要があります。

なぜなら、それこそが本当の世界、永遠の世界だからです。