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お早うございます。皆さま、飛行機に乗られたこと、一度はあるかと思います。大きな飛行機とは違い、セスナ機のような小さな飛行機には乗られたことはあるでしょうか。私は、アメリカへ神学留学をした時、グランドキャニオンをセスナ機で遊覧飛行したことがあります。とてもスリリングな飛行を体験しました。このような小型飛行機を操縦するパイロットの話で、興味深い話を聞いたことがあります。それは、飛行機で目的地に向かって飛んでいる時には、途中途中で広い場所があると「その場所を記憶しておく」と言うことでした。
なぜ、広い場所があると記憶するのかと言いますと、万一のことがあった時に、そこに緊急着陸するためです。飛行機の大前提は、安全に目的地にまで飛ぶことです。頻繁に飛行機事故があるわけではありません。
それでも、もしもの時のために、飛んでいる時には、いつでも広い場所があるとそこを記憶しておくと言うのです。いざという時のための備えというのは、とても大切なことですし、いざという時にはそれを用いるのが大事です。
今日は詩編を読みました。涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て御顔を仰ぐことができるか。(詩編42編1節2節)
これは、ゴスペルでも歌われてきた大変有名な詩編です。
なぜ、この詩を歌っている人は、神の臨在に飢え渇いているのでしょうか?
諸説あるようですが、この人は、捕えられてしまって、周りには、信仰を挫こうと、もしくは蔑む人たちが取り囲んでいるのですね。その彼は、続いてこう歌っています。私は、魂を注ぎ出し、思い起こす
喜び歌い感謝をささげる声の中を 祭りに集う群れと共に歩み 神の家に入り、ひれ伏したことを。この人はかつて、祭りの度ごとに、祭りの喚起溢れるムードの中、エルサレム神殿にみんなで一緒に出向いて行っていた時のことを思い起こしているからです。
でも、今は取り上げられて出来なくなっているのです。
喜び歌い、感謝を捧げる声が満ちていて、神さまは素晴らしいと心から喜んで神殿に向かっていった頃のこと、(日本風に言えば詣でていた頃のこと)。
それを懐かしんでいるのではなく、“取り戻したい”(もう一度、あの喜びと感謝の思いの中で、神の家に入り、礼拝したい)そのような霊的に満たされたあの時を取り戻したい・・・そう願っているのです。彼から、神礼拝の喜びを奪ったのは、敵の国だと云われています。彼は、囚われ自由を失っている状態なのです。その状態の中で、彼は喜びと感謝が溢れていたあの状態を取り戻したい・・・そう願っています。神さまとの交わりを奪うもの、それは、この詩編のように外からの圧力というものがあるかと思いますが、もう一つ、「忙しさ」というのも、神さまとの交わりを奪ってしまう強力な力なのです。
今日、もう一ヵ所、イエス様が、ある家族の家を訪れた時の話を読みました。
マルタとマリア、そして後にイエス様が墓の中から蘇らせたラザロのいる家族の話です。ルカによる福音書10章38節にこうあります。
一行が歩いていくうち、イエスは村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。イエス様が彼女たちの家を訪れた時、マルタは一番先頭に立って、イエス様ご一行を迎え入れたと書かれています。
しかし、イエス様が中に入り、周りを見渡しても、そこにマルタの姿はもう無いのです。主の足元に座り、イエス様の話をじっと聞いていたのは、マリアだけだったのです。イエス様一行を、一番に出迎えたマルタが、イエス様の前にはいないのです。滑稽ではないでしょうか。何故でしょう・・・それは彼女には山ほどの用事があったからです。私は一行を喜び迎え入れたはずのマルタがいなくなっていることも、悲しさを感じますが、もう一つ、マルタはマリアからもイエス様の前にいる喜びを奪おうとしているのです。先ほども言いました。「忙しさ」というものは、神さまとの交わりを人から奪ってしまう強力な力なのです。こう書いてあります。マルタはいろいろのもてなしのため、忙しく立ち働いていたが、傍に近寄って来て言った。「主よ、私の姉妹は私にだけもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」マルタの言い方を見ますと、もてなすことが一番大事な事であり、それは、主の前に座ることよりも優先すべき、当然の事だと考えているのが判ります。本当にそうでしょうか。イエス様はこうおっしゃっています。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは善い方を選んだ。それを取り上げてはならい」神さまが今日、私たちに「必要なこと」は何とおっしゃっているのか、それは“あなたが”神の前に神と共に安息することです。
「主よ、私の姉妹は私にだけもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」
マルタがマリアにではなく、イエス様にこのことを言ったことから判ることがもう一つあります。それは、マルタの行動は、神も正しいと思って下さるに違いないと思ったということです。でも、イエス様は、こうおっしゃいました。必要なことはただ一つである、あれも大事、これも大事、イエス様の話を聞くのも大事・・・色々なことを並列して大事だと思い込んでいるマルタにイエス様は「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことは沢山あるわけではない、ただ一つです。」とおっしゃるのです。
それは、神の前に、今の時代は、キリストの前に、座って福音のみ言葉を聴くことなのです。疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイによる福音書11章28節~30節)このみ言葉は、どの教会でも、イエス様のことを知らない人たちに向けて、つまり、疲れた人たちに向けて発信している言葉です。
イエス様は、マルタを求めているのではなくて、マリアを求めておられます。
では、今、どの教会でもこの「安息の時」が実現しているのでしょうか・・・
ひとつの譬えをお話しします。原子力の原理の中に「臨界」といいう言葉があります。ご存じですか?これは原子力の分野で使われる言葉です。
「臨界」の範囲内で核分裂が起こっていると効率よく熱を発生させ、それを電気に替えることが出来ます。しかし、この「臨界」を超えてしまうと、核分裂の制御ができなくなり、爆発を起こしてしまいます。これが核爆弾の原理です。
また、年金を考えてもよく判りますが、ある一定数の若者がいれば、年金の仕組みは安定すると言われています。しかし、一定数の若者がいなくなり、年金受給世代の人が増えれば、年金のシステムは破綻します。
私はむかし、教会は信徒数も多く、若者も比較的多かったのだと思います。
しかし、現在、人口は減少傾向にあり、“ワンオペ”という言葉があるように、一人一人の社会で課せられている責任が重くなってきています。
さらに、教会でも、従来からの行事のための奉仕者が必要となり、一人一人の重荷が増えてきています。私は、いずれの教会も、臨界状態ギリギリにある、もしくは超えてしまったのではないかと思います。「忙しさは」は、神さまとの交わりを奪ってしまう強力な力なのです。以前の大勢の信徒で運営した教会も高齢化と信徒の減少にあります。そのような集まりで従来通りのことを消化しようとすれば無理があります。守るべき一番に大切なものは何かと、考え直すことが必要です。疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。このイエス様の言葉が「実現している空間」が、この会堂に実現することを心から願っています。必要なことはただ一つである。
イエス様がおっしゃる「ただ一つの必要なこと」とは、一体どういうことなのか、どういう状態なのかを皆様と共にこれから考えていきたいと思います。
私たちルーテル教会が大事にしているアウグスブルク信仰告白では、こう書かれています。我々の諸教会はまた、こう教える。唯一の聖なる教会は、永遠に存続する。教会は、聖徒の集まりであって、その中で福音が純粋に教えられ、聖礼典が正しく執行される。そして、教会の真の一致のためには、福音の教理と聖礼典の執行について同意すれば、それで十分である。人間的な伝承、あるいは人の定めた儀式や祭式は、どこにおいても同じでなければならないという必要はない。それはパウロが「ひとつの信仰、ひとつのバプテスマ、ひとりの神、またすべての者の父」云々(エフェソの信徒への手紙4章5節)と書いている通りである。私たちルーテル教会が大事にしているところでは、教会というのは、み言葉と聖礼典が執行され、そこで、人々が、神の恵みを受け、そして、喜びと感謝をもって賛美できる空間であることだけであるということなのです。最初に、小型飛行機の話をしました。飛んでいる最中に、何かあった時の着地点を意識しておく、そのようにお話ししました。ちょっとおかしいな・・・そう思いながら頑張って飛び続けることは、危険が伴います。
名パイロットでない限り、何かあれば、一旦、着陸して仕切り直す方が良いのです。スポーツやゲームなどでよく言われるのは、勝利は、チャレンジ(一発勝負)ではなく、リスクを最小限にして積み重ねていくことだそうです。
ゴルフでも、「ここでガーンと打って上手くいけば、挽回できる」そんな風に一発勝負ばかり考える人は、結局は勝利できないそうです。
奉仕というのは、ある程度の我慢も必要だと思います。
しかし、今、もし教会が、臨界に達している状態であるならば、私は新しい在り方を模索した方がいいのではないかと思います。
イエス様は十二人の弟子たちを選ばれました。十二人の弟子には、イエス様が中心に据えるようにおっしゃったのは、組織を造ることではなくて、互いに愛し合うことでした。また、最初にあったのは、家の教会、そのような小さな群れです。そこでは実現していました。私は、総会の日である今日、皆さまと共に、神さまがおっしゃる言葉に耳を傾けるべき言葉は、必要なことはただ一つである
このイエス様がマルタやマリアにおっしゃった言葉だと思います。
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