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おはようございます。「置き忘れること」ってありますよね。
傘なんかその典型ではないでしょうか。建物の玄関に傘立てがあると、置き忘れるってこと多いですよね。傘に限らず、水筒を忘れて帰ってしまう、時にはスマートホンをトイレに置いたまま出てきてしまう…そんなことも、ついつい、してしまうのではないでしょうか。さて、今日は、年の初めに、「幸せ」ということを考えて見たいのですが、幸せもまた、過去に忘れて、置いて来てしまうものかも知れません…。私はそう思います。我が家では、正月三が日は、大抵、私一人で過ごすこと多いんですね。私以外の家族は、和歌山の実家に帰ります。すると、数日間は、独り暮らしのゆっくりとした時となります。
(とは言ってもその次の日曜日の準備をしなくてはなりませんが)。
今年も例年通り、独りで過ごすことになっていましたので、私は、大晦日に自分が食べる三日間分の食料を買い込みました。独りで過ごすとはいえ、やっぱりお正月ですから、贅沢したいですよね。今年もちょっと贅沢に買い込んでしまいました。さて、正月三が日、一人贅沢に、静かに食事をして、ゆっくりと過ごしていたのですが、ふと、真ん中の子が薦めてくれていた映画があったのを思い出しました。その映画のタイトルは、「ラーゲリより愛を込めて」という映画です(ご存じの方もいらっしゃるかも)。この映画は(元)嵐のメンバーの二宮和也さんが主演の映画で、実話から生まれた映画です。
第二次世界大戦が終わる頃、日本が降伏しそうなのを知ると、ロシアが日本に攻めて来ました。そして、土地を奪い、日本兵を捕虜として連れ去るのですが、その時に満州から連行され、捕虜としてロシアで強制労働させられた日本兵の映画です。映画を見ていますと、捕虜として強制労働させられている日本兵の食事が本当に惨めなんですね。一日の食べ物がこれだけかと思うほどのものでした。極寒のロシアで強制労働させられているのに貧しい食事しか与えられていないのです。この映画は事実に基づいた映画なのですが、私は、その映画を見ながら、お正月に好きなものを食べて優雅に過ごしている自分を見て「贅沢だなぁ」って思いました。それだけではなくて、「美味しいものを、特に何も意識せずただ美味しいと思って食べているな…」って思ったんですね。
感謝はしているけど、有難さを感じていないんですよね。
そんな中、ネットで、こんな言葉に出会いました。「幸せの基本って美味しいものを美味しいと思えることだと思う」これって誤解のないために言いますと、美味しいものを食べれば、誰でも美味しいって思います。
そういうことを言っていないんですね。当たり前の美味しさを喜ぶのではなくて、本当の美味しさを取り戻せた時の幸せを言っているんです。
私、洗礼を受けた当初、時々に一日の断食をしていたことありました。
大学生の時だったので、若いからお腹すくんです。ですので、意志の弱い私は夜になると「一日の断食とは午前0時までを言うのか、それとも、朝起きるまでを言うのか…」。そのことを真剣に考えていたんです。
ある断食をしていた夜、お腹が空いて仕方なくなった時に「神さま、もし0時まで(つまり日が替わるまで)が断食でしたらそう示してください」そんな風に祈ったんですね。しばらくすると母親が、階段をトントントンって上がってきて、「苺食べるか?」って苺を持って上がって来てくれたんです。
私の帰りが遅く晩御飯も食べなかったから、深夜なのに気にかけてくれたのでしょうか、私の断食を知らない母が苺を持ってきてくれました。
私はその時、時計を見たのですが(冗談みたいですが)0時丁度だったんです。これは神さまからの答えだと思って、苺を食べただけでなく、冷蔵庫の中に食べ物ないかなと探しに行きました。その時は、さっと食べられるものがなくて、あったのはハムとレタスだったのですが、その時食べたハムが本当に美味しかったんです。ハムって添え物ではなく美味しいんだって思いました。
ハムを食べていることを幸せに感じました。幸せの基本って美味しいものを美味しいと思えることだと思う。多分、今、ハムを食べても、そこまで喜びを感じないと思いますし「幸せだなぁ」って思わないと思います。
でも、それが戦時中だったら、美味しい贅沢な食事の一つなのかも知れません。そのような喜びを体感出来た時、人は幸せを自分のものに出来るのだと思います。ハムでも十分幸せになれるんです。最近、めっちゃ物が高くなっているじゃないですか。ガソリンだけでなく、全ての物の値段が上がって来ています。これは単に物価が上がって来たというのではなくて、戦争が終わらない結果だと思います。でも、私、最近感じるのは、その戦争も「人の企てによって操られているんじゃないか」っていうことです。戦争で儲けている人いるんですよね。だから終わらないんです。現在、富が一部の人たちに集中しているように感じます。同時に、私達、庶民がどんどん貧しくなっているのではないでしょうか。なんか、嫌な時代だなって思っていたのですが、お正月、(戦後を歩んだ人たちの)映画を見ていて感じたことがありました。
それは「日本人が再び幸せを取り戻せるのではないか」って・・・。
近年、日本は本当に豊かになりました。でも、幸せになったようには思えないんです。生きにくくなっているなぁって思うんです。昭和の人間…と言われるかも知れませんが、スマホもなく、メールという手段もなく、何よりも不便であった時代、また、お寿司が百円で食べられなかった時代(美味しいものを食べたいときにお腹いっぱい食べられなかった時代)、つまり貧しい時代の方が、心がまだ豊かだったのではないかって思います。一部の人の企て(政治の中枢の人の企て)にsssよって、庶民は貧しくなるばかりなのですが、逆に、美味しいものを美味しいと思える昔の幸せを取り戻せるのではないか…そう思いました。そして、そんな風に思っていた時に、我が家の壁にかけてあるみ言葉が目に入りました。人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。
(箴言19章20節)良い御言葉ですね。人がどれだけ企てても、神さまの御心が実現していく。人がどれだけ企てても、人はかえって幸せを取り戻していくようになる。これは、世界のレベルでも、個人のレベルでも実現していくことなんです。神さまは、確かに、私たちの世界に降りて来られました。
人となり、私たちの間を、その足で歩いてくださいました。
それが、ナザレでお育ちになった人、イエスだと聖書は言うのです。
イエス様の周りで起こった出来事は、旧約聖書で預言されていたことばかりでした。目の見えない人の目が見えるようになり、耳の聞こえない人の耳が聞こえるようになる。そして、口のきけない人の口が開くようになり、足の不自由な人が自由に歩くようになる。それだけでは勿論ありません。
もっと沢山のことが起こりました。その神の子を、人は十字架につけてしまいました。時の権力者や宗教指導者たちは自分たちが築き上げてきた地位や富を批判するイエス様を憎みました。そして、企てによって、イエス・キリストを十字架に架けて殺してしまったのでした。しかし、そこに聖書の言葉が実現します。人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。
イエス様を十字架にかけたことにより、人は愛の本質を知りました。
その愛が自分に向けられていたことを知りました。それだけでなく、全ての人はキリストによる罪の赦しを戴きました。イエス様の十字架によって、悪魔もその力を失いました。また、黄泉も私たちを捕らえ続けることができなくなりました。人の企てによって神を十字架に架けたのですが、主のご計画の方が、一歩も二歩も先を行っていたのです。イエス様の十字架によって、人の霊的な目が開かれ、イエス様の声が聞こえるようになり、父なる神さまに対する感謝と賛美の言葉が口からでるようになりました。これこそ預言の成就です。
悪魔からすれば耐えられない結果となっていったのです。
人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。
人は神に勝つことは到底、不可能なのです。人の企てが、かえって、神のみ旨を実現するのです。時に人が踏み荒らした花畑から、見たことのない綺麗な花が咲くことがあるのです。それが、神の業です。私は、「幸せって過去に置いて来てしまうもの」だと思います。だからこそ、幸せの基本って、初めの気持ちを取り戻すこと、本来の喜びを知ることだと思います。
私は信仰をもって、聖書を通して物事を見るようになり、神のご計画の中を歩んできたのですが(つもりですが)、年を重ねて来たからこそ気付いてきたのは、信仰を持って歩むと、必然と、知らなかった幸せ、忘れてしまった幸せに気付く(取り戻す)ようになるということです。それが、「神さまと共に歩む人生の喜びなのではないか」と思います。今回、神田さんの洗礼を準備するにあたり、自分が洗礼を受けた時のことを思い返していました。
洗礼を受けた日、気持ちが、晴れ晴れした感覚を覚えています。
洗礼はあっと言う間に終わりましたが、帰りに見た空は夏でしたから青空でした。気持ちも爽やかになっていました。さらに、帰りがけに、私は、自分に起こった過去の事と神さまのご計画が一つになりました。
それは、私が、小学生の時のことです。いとこの子の家に言った時に、ときたま、隣の家で集会がありました。瓶のふた(王冠)でバッジを作ったりして遊んだのですが、その時に、天国と地獄の話を聞きました。
その時には気づかなかったのですが、洗礼を受けた帰り道に、記憶が蘇ったというか、一つとなったのです。それは、そのお兄さんとお姉さんがクリスチャンだったと分かったんです。聖書にこういう言葉があります。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。(ヨハネによる福音書15章16節)神さまは、すでにみ言葉の種を私に撒かれていました。そして、それがいつ実るかも全てご存じでした。人の思いや計画を超えて、神は豊かに働かれます。それは、私たちが豊かな実を結ぶためです。頑なな私たちに対して、時にかなって神さまは実りをもたらせるのです。映画の中で、こんなシーンがありました。それは結婚式の時のセリフなのですが、「ず~と覚えていなさい。今日という日を・・・」という言葉でした。これは、「ずっと覚えていなさいよ。幸せに感じている今という時のことを」という意味で言われたセリフです。イエス様は、おっしゃいました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
(ヨハネによる福音書15章5節)洗礼は、神と人とが一つとなる大いなる御業が働く時です。洗礼を受けたときに、私たちは神様と一つとなり、命あるものへと変えられます。人で言うならば、結婚式のようなもの。
霊的なことを喩えれば、枝が本来の木に繋がったようなものです。
記憶のない時に洗礼をお受けになった人は、他の人が洗礼を受けられた時に、自分に起こった神さまの御業を思い起こして欲しいと思います。
神さまは、私たちを清め、そして、ご自身と一つになさいます。
イエス・キリストに繋がれば、誰でも、信仰を通して必然的に豊かな実りをもたらすようになるのです。そして、神のご計画が私の人生を通して働く時、その実りは驚くほどの実りとなります。「ず~と覚えていなさい。
今日という日を」「ず~と覚えていなさい。神と一つとなった日を」私たちは決して一人ではありません。生まれる前から私たちを選び共に歩んでいるのが神さまです。幸せの基本は喜びを喜びと思えることです。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章16節~21節)
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