宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ヨハネによる福音書1章43~51節
サムエル記3章1節~10節
コリント人への手紙Ⅰ 6書12節~20節

 「神と私たちの繋がり」

説教者  江利口 功 牧師

 

お早うございます。新しい年が始まって初めての皆様との礼拝になりました。今年も宜しくお願いいたします。先日、ある方とお話ししておりまして、その方が、「人は神さまにお願いばかりして、神さまは「あれもこれもとお願いばかりで、大変だ」って聞いたことがあります。と笑いながら話しておられました。確かにそうですね。人はお願いばかりします。

でも、以前、クリスチャンの方がこんな風に言われたんですね。

「神さまの後ろには恵みの箱がいっぱい積んである。」私はそれを聞いて「恵み豊かな神さまなんだなあ」って思ったら、そうではなくて「みんな全然願い求めて来ない」と神さまが嘆いておられるという落ちでした。

確かに神さまは、「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる。」マタイによる福音書77節)そうおっしゃっているのですね。確かに「神さまに祈っても・・・」そんな風に思って祈らなくなりがちなんですが、神さまは「ともかく祈ること」を求めておられるのですね。なぜでしょうか。

神さまは語るお方。それだけでなく、見ておられるお方。

そして、時にかなって恵みを与えるお方なのです。でも、これは、試練の中で鍛えられて行くものなのです・・・。今日はヨハネによる福音書を見ていますが、ここでは、フィリポとナタナエルという人が弟子になった時、(イエス様と出逢った時)のことが書かれています。ナタナエルという弟子は、福音書、使徒言行録に、あまり名前の出てこない人なのです。恐らく、バルトマイという弟子が、このナタナエルという弟子のことではないかと言われています。

それでもバルトマイという弟子のことを聖書はあまり記していませんので、ナタナエルという弟子のことはよく判りません。しかし、今日の聖書箇所を見ますと、ナタナエルという人物像が見えてきます。勿論、全てのことが書かれていないので、推測になるとは思いますが、ナタナエルという人は、神の国の到来を心から願う人、そして、聖書を良く知っている人であるということが判ります。そういう意味では、熱心なユダヤ教徒という風に言えるかと思います。

ナタナエルはフィリポからイエス様を紹介されています。

フィリポはこう言っています。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出逢った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」

(ヨハネによる福音書145節)「モーセが律法に記し」というのは、モーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)に記された人ということを言っています。更に、「預言書にも書かれている方」という表現に「来るべきメシア」という意味も含まれています。

つまり、フィリポもナタナエルも共に記されたメシアを待っていた人(期待していた人)ということが判ります。更に、預言書にメシアのことが書かれているということは、私たちもよく認識しているかと思いますが、モーセの律法に記した書簡の中にもメシアの姿を見ていたというのは、彼らは普通の人より深く聖書を読み込んでいた人たちであったということが見えてきます。

実際にフィリポがナタナエルにイエス様を紹介した時に、ナタナエルがこう言っていることからも分かります。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネによる福音書146節)これは、「あんな田舎から」という意味もありますが、聖書をよく学んでいるナタナエルがメシアを本当に期待して聖書を読んでいた人だからこそ、聖書に書かれている通り、ナザレからメシアが出てくるのだろうと思ったのではないかと思います。そして、そのナタナエルにフィリポがこう言っているのも注目してもいいかと思います。

「来て見なさい」(ヨハネによる福音書146節)

私は、牧師をしていますので、悩みの相談を受けることがあります。

教会員の方も「先生にお話聞いてもらえば・・・」という風に言って友達をお誘いされます。恐らく、「お話し聞いてもらえば?」とは言いますが「先生を見てみれば?」とは言いませんね。フィリポはナタナエルに「イエス様に逢ってみれば?逢ってみれば判るよ」とは言わないのですね。

「見なさい」と言うんです。これは姿、もしくは、その方の周りに何が起こっているのかを見て見なさいということだと思います。

ルカによる福音書を見ますと、ある時、洗礼者ヨハネが弟子をイエス様のところに遣わせてこう尋ねるのです。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」その時、イエス様は丁度、病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々を癒し、多くの人々を癒し、大勢の盲人を見えるようにしておられたのです。イエス様はこうおっしゃいました。

「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げられている」

(ルカによる福音書722節)大事なのは、イエス様は周りで起こっている事柄を見なさいということです。そして、聖書はメシア(救い主)に関してどう告げているのかを知り、それがイエス様の周りで起こっていることであることだと知りなさいということなのです。私は、フィリポがナタナエルに「逢ってみなさい」と言わずに「(その目で)見なさい」と言っているのは意味があると思います。彼らは聖書をよく知り、そして、メシアを聖書のお告げから知ろうとしていたからこそ、「見なさい」という表現だったのだと思います。

私たちもそうだと思います。(まず初めに)聖書に記されたイエス様のこと、イエス様がどういう人で、何をなさった人であったかを聖書を通して受け止める必要があります。イエス様を信じて、私の人生はどうなったのか、どうならなかったのかの前に、イエス様がなされられていたことから、イエス様は誰なのかということを、まず、信仰をもって捉える必要があります。

そうでないと、つまり、自分が期待していた人ではないと思うと、躓いてしまうのです。洗礼者ヨハネもそうでした。イエス様を人間的な関りの中で見ようとした時に、躓きそうになったのです。思ったような人ではなかったと思ったからです。「思ったような人ではなかった」というところがポイントです。

イエス様は「わたしの周りで起こっていること、そして、聖書を通して告げられているメシア姿を重ね合わせなさい」ということを、洗礼者ヨハネの弟子たちに伝言するのです。その時、イエス様は、付け加えて「わたしに躓かない人は幸いである」という言葉もヨハネに伝言してもらうのです。

私たちも信仰を持つ時には、聖書に記されたイエス様のお姿に、また、その教えに感銘を受けて信仰に入ります。とても大事なことです。

しかし、慣れてくると、自分の期待通りの方かどうかに視点が変わってくるのです。イエス様と同じ時に生きていたユダヤ人は「期待通りの人ではない」と思い、信仰がなくなった時に、イエス様を十字架に架けてしまいました。

今の時代の人は、「期待通りの人ではない」と思った人は教会を去って行きます。でも、それを乗り越えた人は、熟された成長へと変えられて行き、本当に神さま、イエス様が与えようとされている強さを得ることが出来る人になるのですね。私は、信仰の先輩の方々の姿に、その信仰の強さを沢山見せて頂きました。さて、イエス様は、ナタナエルを見てこうおっしゃいます。

「見なさい、真のイスラエル人だ。この人に偽りがない」(ヨハネによる福音書147節)このイエス様の言葉に、ナタナエルという人(もしくはフィリポもそうなのかも知れません)が、信仰深い人物であったという意味が隠されています。また、真の神の力を求める人であったということも分かります。

さらに、イエス様が「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、イチジクの木の下にいるのを見た。」と言われたことから一つのことが判ります。聖書に精通し、真剣に神に祈り求める人は、よくイチジクの木の下で祈るということをしていたそうです。私たちでいうならば、イエス様が「わたしは、あなたが教会で独り祈っているのを見た」と言われるようなものです。

教会で祈るというのは、真剣に切に祈るということですね。

それを、神さまが「見ていた」と言われれば嬉しくないでしょうか。

勿論、教会の夜にわざわざ来て独りで祈るというのは、よほどのことだと思います。その祈りを、「わたしは聴いていた」と神さまが言われれば、さらに嬉しいですね。フィリポもナタナエルも恐らく、メシアについて真剣に祈り求めていた人であったと思われます。だから、フィリポも喜んで弟子となり、ナタナエルに「私は出逢った、お前も見て見ろ」という風に誘ったと私は思います。

さて、イエス様の言葉に驚いたナタナエルですが、さらに、イエス様は、もっと大いなることを教えられます。「イチジクの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」「はっきり言っておく、天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(ヨハネによる福音書148節)

私はここにも、ナタナエルが聖書をよく読んで学んでいた人であったことを思うのです。このイエス様の言葉は、創世記のヤコブの話のことなのです。

ヤコブという人は、ある時お兄さんから逃げるんですね。そして、親戚の叔父さんの家(といっても遠く旅をするほどの距離)に向かって行くのです。

それは、寂しい旅、また不安な旅でもありました。ある時、彼が石を枕にして眠りについているとき、夢を見るのです。それは、階段が天に達するまで伸びています。そこを、神のみ使いたちが上ったり降ったりしている夢でした。

すると、主が、傍らに立ってこうおっしゃるのです。

「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが、今、横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がって行くであろう。地上の氏族は全て、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(創世記28章13節~15節)イエス様は、このヤコブの出来事とご自分の出来事を重ね合わせられました。つまり、選ばれた者であり、天に属する者であるということです。イエス様ご自身にも神のみ使いがいつも共にいて、守っているということを意味します。イエス様が荒野で誘惑を受けられた時も、ゲッセマネで祈っておられた時も、また、復活の時も、天に昇られる時もいつもみ使いが仕えていました。また、洗礼をお受けになった時も、山で輝かれた時も天から父の声が聞こえてきました。

イエス様は、ナタナエルに、「あなたがメシアに出逢うだけでなく、今起こっていること、これから起こることの証人となる」という使命を弟子としてお与えになったのが、この時の出来事なのです。イエス様は、歴史の中でお生まれになり、人として歩んでくださいました。しかし、いつもみ使いが仕えている人でした。さらに、父なる神の力をいっぱいお受けになっているお方でした。さらには、神がこの地上に御子として現れて下さったお姿でした。

私たちは、そのお方を、歴史から、弟子たちの証から、その証を集めた聖書からイエス様を捉え信じる必要があります。神さまは、私たちの祈りを聞いてくださるだけでなく、どんな風に、どんな思いで、どれだけ熱意をもって祈っているかを見て下さっています。そして、熱き祈りに応えるのが神というお方であると言えます。サムエル記を読んで頂きました。

サムエルは、ハンナという母から生まれましたが、ハンナには子供がなかなか生まれなかったのです。それだけでなく、蔑まれるような扱いも受けていました。そのハンナはいつも熱心に祈っていました。そのハンナの熱い祈りが神のご計画と合わさってくるのです。そして生まれたのがサムエルです。

そのサムエルにも神は「サムエル、サムエル」と呼びかけられています。

神は耳だけでなく、目だけでなく、口を通して、私たちと関わってくださるお方なのです。今の私たちは直接神さまの言葉を聞くことはありませんが、聖書のみ言葉を通して、私たちにいつも語られる神さまの声を聴くことが出来ます。

それは、信仰者である私たちの強み、また、慰めであると思います。

コリントの信徒への手紙を読みましたが、パウロはコリントの信徒に対してこう言っています。知らないのですか。あなた方の身体は、神から戴いた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたは最早、自分自身のものではないのです。あなた方は、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の身体で神の栄光を現しなさい  (コリントの信徒への手紙Ⅰ 6章19節20節)

神さまは、目で見、耳で聞き、そして語るだけでなく、私たちの処に降りてきてくださって、さらに、私たちを清め、聖霊と一つになるように、(神と一つになるように)なさってくださったお方です。私たちは、独りではありません。神さまがナタナエルを見ていたように、私たちを見て下さっています。

そして、時にかなって、私たちに聖書のみ言葉を通してお語りになります。

苦しいとき、「主よ、お語り下さい」そのような思いで聖書を開き、そして、願いを求めて祈って頂きたいと思います。

今年一年、そのような信仰生活を送って頂ければと思います。