宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ルカによる福音書  2章 22~40節


 「本物と偽物」

説教者  江利口 功 牧師

 

 おはようございます。「本物と偽物」・・・。今日はこのことを中心にしてお話ししたいと思います。
 世の中には高級なもの高価なものが沢山ありますが、同時に、それに似せた偽物も多く出回っています。「偽物を売る」「中古と称して偽物を高額で買い取らせる」…。こういうことが横行しています。
 ところで、皆さまは、プロの方は偽物をどうやって見破るかご存じですか?実は、近年、偽物が本当に本物に近く作られているのでプロでも〔その判別に苦慮する〕と言われています。
 色々な対策をしているそうですが、やはり、プロの勘というのも大事なんだそうです。手にしたときに「何かが違う」と感じるそうです。

 ある質屋(買い取り業者)の方が、見分け難い(偽造品が出回っている)ルイビトンの見分け方をこうおっしゃっていました。「本物特有の匂いがある」・・・。「匂いかぁ」ってわたしは思いました。もちろん、くんくん匂うのではないとは思います。触っていて、匂いを感じるのでしょうね。他にも質感なども違いを感じるそうなんですが、本物には「美しさ」ゆえのオーラがあるようなこともおっしゃっていました。
 他にも、もってくる人を見て「あ、これ危ないかも」って思うこともあるそうです。

 そのプロの方が偽物を見破るために大切にしていることとは何かといいますと、「本物を良く知る」「普段から本物に触れる」ということだそうです。
 単純なことのようで、本物と偽物を区別するためには、本物をしっかりと知る・・・つまり、普段からよく見て、いっぱい触って、そして匂って?本物を知り尽くすというのが大事なんですね。

 話は変わりますが、私はこう見えて「人を信じてしまう」人なんです。「えっ」って思われる方も多いかも知れませんが、本当は、わたしは「人を信じやすいタイプ」なんです。だから、結構、利用されるし騙されるんですね。
 わたしは「騙される」のも「利用されるのも」嫌なんですが、「人を騙す」人、「利用する」人はもっと赦せないんですね。
 そのために、すごく人を警戒するようになりました。その人の目、顔つき、また、声の質そういったので、人を見てしまうんです。

 「人を信じやすいタイプ」な私だけに、本当に信頼できる人、気の置けない人をずっと求めて来たような気がします。その私にとって(お目にかかったわけではありませんが)イエス・キリストという方の存在を知ったことは「探していた方を見つけた」みたいな意味でとても幸せだと感じています。

 わたしは、イエスさまの生き方を知り、お生まれになったこと、かつ、その理由を知り、さらに、イエスさまがもっていた神の力を知った時、この方は、本当にお生まれになられた方であり、また、この方の教えは本当に真理であり、神の教えであり、この方の生涯はすべてわたしを助けるためであったということを「直観」で「大丈夫」と受け入れることができました。
 聖書は、〔決して綺麗ごとを言っているのではなく〕、〔イエスさまのことを綺麗に嘘で着飾っているのでもない〕ということを感覚的に受け止めることができています。
 さらに、牧師として聖書を研究しながらこうしてみなさまにお話しを毎週準備させて頂いておりますが、聖書の内容を調べれば調べるほど(吟味すれはするほど)聖書のオーラ、イエスさまのオーラを感じるんですね。また、シンプルさ(美しさ)を感じるんです。
 私は信じやすい分、疑い深いのですが

神はおられる、イエス・キリストは本当に神の子としてお生まれになった

 このことが、私の中で真実となっています。私の中で、イエスさまのこと、聖書の教え、すべてが人生を通して吟味されて来たように感じます。でも、崩れないんですね。そして、色々は方とお出会いして、その方々を見ていても、その人に注がれている神さまの栄光・恵みを感じるんです。私だけに起こる出来事ではなくて、全ての人に聖書の教えは命となっているということも実感しています。

 今年、私たちは「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」というマタイによる福音書7章8節のみ言葉を一年のみ言葉として歩んできました。
 (神さまに失礼な表現なのですが)、わたしは〔このみ言葉を〕今年一年「まな板に載せて」一年を歩みました。やはり、このみ言葉は生きていました。

このみ言葉は、私たちと神さまとをつなぐ、真理のみ言葉でした。
神さまの直接的な語り掛けでもありました。
 
 私は今年一年「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」というみ言葉を意識してきましたが、本当にこのみ言葉で励まされました。色々なことがありました。でも、このみ言葉を思い起こし、神さまに求めよう、探そう、門を叩こう…そう思って、「まな板の上に置いた神さまのみ言葉」を色々な方向から切ってみた時に、どう切っても本物なんですよね。やはり、神のことばは、表面的(外見的)に終わらず、どう切っても偽りがないのです。

 神さまは、「ことば」です。『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。』(ヨハネ1:1)とあります。神はことばでその存在を被造物に示されています。その「ことば」が詰まっているのが聖書です。聖書は生きています。そして、その「ことば」がなんと「人となって」私たちの間に宿ってくださったというのです。それが、もちろん、イエス・キリストです。
 
イエスさまの中に、命があり真理がありそして復活の力が宿っています

 さて、今日のみ言葉ですが、まず、ガラテヤの信徒への手紙を見たいと思うのですが、こう書いてあります。

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 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。(ガラテヤ4:4~5)
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 律法というのは、本当は、良いものなんです。それは、私たちが「生き生きとした生き方(命ある生き方)」をするための生き方を教えているからです。しかし、素晴らしい律法のはずなのに、罪が入り込んだ私たちに「それを実行できない」という現実を突きつけてしまうのです。
 神さまを喜び、律法を喜べば喜ぶほど、この律法は良いものであると同時に、わたしを「できない者(まもれない者)」として断罪するのです。
 そして、律法が要求することを守れないと裁きを受ける(神の怒りを受ける)ということで、そのことを恐れれば恐れるほど、この神の言葉が、忌まわしく映ってしまうのです。

 ですので、パウロは、ある時は、律法を「とても良い物」として表現しますが、時にこのみ言葉のように「律法の支配下」という表現をするなどして、私たちにとって「忌まわしいもの」として表現もするんですね。

 さて、闇の世界に生きる私たちとって、神さまの光の言葉は、私たちを逆に、捕らえてしまい、死の定めに閉じ込めてしまうのですが、その私たちを救い出すために、イエスさまがお生まれになってくださった・・・これが聖書が示す福音なんです。

 ところで、イエスさまはベツレヘムでお生まれになりました。ベツレヘムというのは、ダビデ(というイスラエル2代目の王様)の生誕地です。そのダビデの祖父の父(曾爺)が「ボアズ」という人なんです。このボアズのことはルツ記に書かれているのですが、ボアズは神の教えに忠実で、農夫たちをも大切に扱う主人(領主のような人)でした。そのボアズがある時、落ち穂を拾っているルツという女性に目を留めるんですね。彼女は、もとはモアブ人、義理の母(ナオミ)がイスラエル人でした。夫をなくし、子を持つこともなかったルツですが、彼女は、義理の母のナオミを支え、ボアズの畑で麦の落ち穂を拾って生計を立てていました(やもめの生活)。

 ルツのことを召使から聞いたボアズは彼女にこう言っています。
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「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。」
                       (ルツ2:11~12)
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 ボアズはルツのことを気に入り、落ち穂を拾うのではなく、普通に農夫と一緒に借り入れするように(自分に必要な量を持っていくように)勧めます。
 そして、自分がルツの家族を養う立場である(贖う立場である)ことを知り、最終的にボアズはルツをと結婚します。実は、ベツレヘムで起こったこの出来事とイエス・キリストの救いの姿が共通しているんですね。

 ルツという女性は、もともと異邦人(つまりユダヤ人では)ありませんでした。そのルツは夫に先立たれ、やもめとなっていました。そして家も貧しい状態。いうなれば、よそ者で、貧しいやもめです。でも、ボアズが自分を贖うために妻として迎えてくれました。彼女にとっては最高の喜びだったと思います。

 ルツの立場になって考えると、ボアズは「貧しい私を受け入れてくれた優しい方」「貧しい私を豊かな家庭に迎え入れてくれた方」に映っているに違いありません。そして、結婚式の日となると、ルツは花嫁に相応しい服で着飾れ、そして、宝石で飾られるわけですよね。「このような(僕の身分であり似つかわしくない)私をこのようにして迎え入れてくださった・・・。」その喜びに包まれたと思います。
 このことが、私たちの救いと共通しているんですね。

 本日、読んでいただいたイザヤ書にこう書いてあります。
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 わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。(イザヤ61:10)
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 これはイエスさまによる救いの預言の言葉なのですが、私たちは、神の前に相応しくない、似つかわしくない、憐れな存在です。罪深く、僕として見ても、相応しい行いをしていない存在です。でも、神は、その私たちを迎え入れてくださり、そのために義の衣を着せてくださり、そして、男性には冠を女性には宝石で飾ってくださった(つまり、装ってくださった)のです。この最低な状態から最高の姿に変えられたというのが救いなんです。

 私たちは、イエスさまの十字架と通して与えられた義の衣を着せられたんですね。
 クリスマスの時期には必ず読まれるマリアの賛歌ですが、マリアはこう言っています。
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 わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。(ルカ1:47~48)
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 これって、ルツの言葉として読んでもおかしくないんですね。共通しているのは、主の前にわたしは惨めな存在です。はしため(僕)のような存在でしかありません。しかし、そのような私をあなたは目を留めてくださるのですね。さらに、その私を贖うために(再び相応しい姿に変えるために)、ご自身の血を流してくださいました…。ここに喜びと感謝が賛美の言葉として表されてくると思います。

 話しは変わりますが、私は昔から国語苦手だったんですね。選択問題とか漢字の問題とかは、覚えてしまえば点になります。その意味では、自身がありました。でも、国語の試験で「何文字で書きなさい・・・」。と言うのは答えを前もって覚えておけないので苦しみました。また、小論文というのも超苦手だったんですね。
 この答えが欲しい性格は、人生を歩むうえでも共通していまして、人生を歩むうえで答えがないというのは、実は私にとっては苦しみでした。
 問題が起こった時にどう解決をしたらいいのか。その答えがあるとどれだけ簡単でしょうか。子育てもそうです。厳しく育てるか、のびのびと育てるのかも答えがなくて困ります。厳しすぎてもだめ、放任すぎてもだめ、また、それぞれの子どもによっても違う。
 幸せとは何か、裕福を目指すほうが幸せなのか、貧しく(慎ましく)生きる方がいいのか、これもまた答えがなくて困ります。

 でも、わたしは聖書と出会って、本当に良かったと思います。答えが直接あるわけではありませんが、聖書は、大きな方向性を本当に示してくれています。そして、時に必要な導きを与えてくれます。
 イエスさまを礼拝しにやってきた博士は星を頼りにイエスさまの所にやってきました。大きな方向性に導かれつつ、でも、イエスさまにたどり着くことが出来ています。
 私は、聖書の不思議な力を感じます。大きな方向性を示しつつ、時に応じてみ言葉を示しながら私たちが義に到達できるように導く本なのです。

 わたしはずっと、そのような答えが欲しかったんですね。今は、細かいところでは悩みはありますが、大きな方向性に関しては、一切、迷うことはありません。聖書には全ての答えが書かれている。私はそのことを知りました。

 そして、聖書がイエス・キリストという人であり神である方を教えてくださった時、私は最高のシンプルな答えに出会えた感じがしました。
 全ての生きる指針は、聖書にそしてイエスさまの中にあるのです。

 今日、ルカによる福音書を読みました。幼子イエスさまがマリアとヨセフに連れられてエルサレムの神殿に詣でた時のことです。
 律法では、母のため、かつ、生まれたばかりの子(長子)を連れて神殿に行かなくてはなりません。マリアとヨセフはそれに従って神殿に詣でるのですが、そこで二人の預言者の言葉を聞くのです。一人は、シメオン、もう一人はアンナでした。そのシメオンがイエスさまをその手に抱き、こう言っています。
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「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」               (ルカ2:29~32)
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 シメオンは「正しい人で信仰があつい」人でした。そして、イスラエルのためにメシアの到来をずっと待っている人でした。そのシメオンは聖霊によって「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」とお告げ受けていたんですね。
 そのシメオンが、イエスさまを見た時に、「わたしはこの目であなたの救いを見ました」と言いました。これは、もう何も望むものはない…。そのような安堵な気持ち(みたされた気持ち)から来ています。

 最初に、本物と偽物の見分け方ということでお話ししました。偽物を見抜く目を養うには、どうすればいいのでしょうか。それは、「本物を良く知る」「普段から本物に触れる」ということです。
 聖書も同じだと思います。何気なく、その内容を眺めているのではなくて、「良く知る」「普段から触れる」ことが大事だと思います。さらに「まな板の上において三枚におろす」ではないですが、本当のその通りかどうかを自分の人生で試してみるというのも非常に大事だと思います。
 
 聖書は、命の書です。また、私たちの人生を大きく左右する生き方を教える書です。この聖書に秘められた命に生きる方法、また、人生を豊かにする方法は二つです。
 一つは、難しいことは考えず、「ただしい」と認めて本当にその通りに生きることです(難しい生き方を含めて)。もう一つは、まな板の上にのせて、切ることです。「張りぼて」の内容だとぼろが必ず出てきます。

 いずれにせよ、聖書は裏切ることはありません。
 聖書のよさ、イエス・キリストの素晴らしさは、とことん、触れることで本物であることがわかりますし、本物のオーラを知ることできます。
 是非、このオーラを感じ取って見てもらえればと思います。わたしも、まだまだ、初歩のものですので、これからも学び続けたいと思います。