宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
マタイによる福音書25章31~36節


 「ちょっとした愛」

説教者  江利口 功 牧師



 今日は教会暦で言いますと、聖霊降臨後(緑)の最終主日です。聖霊降臨後と言われるこの期間は、イエスさまの教えに耳を傾け霊的に成長していく期間です(成長=緑)。この聖霊降臨後という期間の最後の何週間かは“再臨(世の終わり)”についてのイエスさまの教えを聞きます。先週にお話ししましたが、これもわたしたちが“待つ人”として生きることによって、霊的に成長していく期間です。

 イエスさまは、弟子達に〔世の裁きのこと〕をお語りになった後、十字架にかかって行かれたのです。弟子達にとっては、イエスさまの教えの最後は、世の終わり(世の裁き)についての話しが中心であり、また、それまで、聖餐式を通して命の糧を受け続けなさいという教えでした。

 私たちもまた、クリスマスを迎えるためのアドベントを前にして、最後に世の終わり(神の裁き)があることを(改めて)学び、そして、その終わりの時まで、「賢く」、「正しく」、「忠実」に“待つ人として”生きる必要があることを学び教会暦の最後をしめくくるわけです。そうして、気持ちを新たにして教会歴の再スタート〔クリスマスに向けてのアドベント(紫)の期間〕に入っていくのです。
 つまり、イエスさまがお生まれになるまでの旧約聖書の約束に耳を傾け、イエスさまを待っていた民の心情を理解していくわけです。そうして、イエスさまが、約束の成就としてお生まれになったように、将来、約束どおり再び来てくださるんだ。私たちも同じ待つ人なんだということを〔ご降誕された〕ことを喜びつつ、そこに私たちの未来も重ねて見ている訳なんですね。

 さて、今日の聖書箇所ですが、皆さま良くご存じの聖書箇所だと思います。〔世の終わりに神さまが人々をより分ける話〕です。今日の話しは、いったい何を基準としてどのように分けるのかを教えています。これを読みますと「羊とはどのような人のことか」「やぎとはどのような人のことか」という事が分かります。しかし、ここで「私はどちらに属するのだろうか」と考えて見て欲しいのです。

 この箇所でイエスさまがおっしゃっていることはシンプルに読めば“人を助ける人とそうでない人”になると思います。
 でもどうでしょうね。誰でも「気づかないところで人を助けた」ことはあるでしょうし、「助けなくてはならないところで何もしていなかった」…ということもあるかと思います。日本で何度も起こった震災。率先して助けにいった人たちも多くいらっしゃいました。また、募金もいっぱいなさったと思います。一方でガザの爆撃で負傷している人たちに何かをしたかと言えば、何もしていない・・・という方も多いかと思います。また、普段の生活の中で困った人を助けたことある人は沢山いらっしゃると思いますし、お見舞いに行かれること…誰だってあります。そう考えると、「私どっちかな?」と考えた時に「どっちも私の姿だな」って思うのが普通だと思います。そもそも、救いはイエスさまが十字架にかかってくださったことによって与えられています。でも、イエスさまは、信仰を持ったかどうかではなくて、行いでお語りになっています。どうして、そんな風におっしゃっているのでしょうか…。

 聖書は、神さまの言葉ですから、牧師はお話しをするときに、念を入れて調べるんですね。念を入れすぎて、出来上がった説教を聞いている人がかえって分からなくなる(;^_^A)のが難点なんですけどね。で、今日の聖書箇所は〔細かく読めば読むほど〕〔深く考えれば考えるほど〕分からなくなってくる箇所でもあるんです。
 そのようなこともあって、今回も祈りつつ準備したのですが、示された2つのことを中心に今日の聖書箇所をお話ししたいと思います。

 まず、イエスさまの話しを順番に見ていきたいのですが、イエスさまは「最後の時(終わりの時)にご自身は栄光の座に着く」とおっしゃっています。その時は、十字架につけられるために来られるのではなく、栄光に輝き、天使たちを従え、栄光の座に着く存在として来られるとおっしゃるのです。そのうえで全ての人が神の前に集められ、そこで永遠の命を受け継ぐ者(与えられる者)とそうでないものをより分けられるというのです。

 イエスさまは、羊飼いが羊と山羊を分けるように人を分けると言っています。ある先生の話しですと、当時、羊飼いは放牧した後、引き連れて戻ってきた後、羊と山羊を分けるそうなんです。というのも、山羊は暖かさを求め、羊は新鮮な空気を求めるからなんだそうです。日中は羊も山羊もごちゃまぜで放牧しているのですが、一日の“終わり”には、より分けるのが通例だということでした。
 つまり、イエスさまは、当時、人々が見られていた風景を連想させ、日中を今の時代、一日の終わりを最後の日と重ねて表現しておられるんですね。

 さて、イエスさまの譬え話はこう続きます。

*******************************************************************
 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 (マタイ25:34~36)
*******************************************************************

 私は、このみ言葉を読んで、小学生か中学生の時に授業で読んだ、『鉢の木』の話しを思い出しました(フィクションです)。

 ある大雪の降る寒い夜、泊まる所に困った旅の僧侶が一軒のあばら家を尋ねます。僧侶を御泊めするするなどできる家ではないと主人は断るのですが、困った僧侶を見て宿を貸します。寒い冬、いろりの薪がきれると、主人は〔裕福な時に手に入れていた盆栽の木〕を「今の私には必要はない」と惜しみなく囲炉裏にくべるんですね。みなさま出来ますか??自分の大切な物を犠牲にできますか?我が家だったら僧侶がもこもこで動けなくなるまで服着せると思います。でも、その人は、僧侶を大切に思って大事な鉢植えの木を火にくべたんです。そして僧侶と語り合い、「一族に土地を奪われ、今はこのように落ちぶれた状態にいるが、将軍さまが必要とされれば、いつでもはせ参じる思いでいっぱいです」そんな風に僧侶に語ります。翌日、僧侶は帰っていきます。

 年が明けた春。鎌倉幕府から動員令がかかります。その貧しい男もそのお触れを耳にし、錆びた〔なぎなた〕を持ち、やせた馬にまたがって鎌倉に向かって行きます。その貧相な姿は、集まった他の武士たちが笑うほどでした。その貧しい主人は北条時頼の御前に呼び出されるのです。みっともない格好を叱責されるのかと思って顔を上げたら、あの大雪の夜に泊めた僧侶の姿がそこにあったんですね。僧侶は北条時頼だったんです。時頼は「あの雪の夜の旅僧は、実はこの自分である」と告げ、彼が言っとおりに馬に乗ってやって来たことを喜び、彼に失った領地を返し、鉢の木にちなむ三箇所の領地を新たに恩賞として与えたというのです。これは、もちろん現実の話しではありませんが、わたしは、この話しは、今日のイエスさまの譬えを理解するのにとても分かりやすいと思うんですね。

 栄光の座に着く人は、人々を呼び集めます。その時、〔ある人々は右に〕〔ある人々は左〕により分けられるのです。それが、羊と山羊で表されています。栄光の座に着く人は『お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた』と言います。
 それを聞いた人はこう言います。

*******************************************************************
『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』              (マタイ25章37~39)
*******************************************************************
 誰だってそう思いますよね。栄光の座に着いている人が、飢えたり、囚われたりしていた姿って想像できませんよね。まして、そんな凄い人を助けたのであれば覚えているはずです。

 しかし、その言葉に対して、栄光の座に着く王はこう言います。

*******************************************************************
『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
*******************************************************************

 枕するところなく宣教し、囚われ、傷つき、そして、肉体的な飢え渇き、さらに十字架での霊的な飢え渇きを経験したのはイエスさまでした。まさに、人に仕えるために人となられた神(ご降誕されたキリスト)は、囚われ、鞭打たれ、みじめな姿になって行かれました。王の姿には見えませんでした。その時に一生懸命イエスさまを支えたのは誰だったでしょうか。それは、弟子達です。もちろん、弟子たちは、弱さを持っていました。それでも、イエスさまのために頑張ったのは弟子達でした。他にも、イエスさまに香油を塗った人、足を涙であらい、足を大切な髪の毛で拭った人、また、弟子たちが来るたびに食事を準備した姉妹、見えないところでイエスさまの宣教を支えた人たちはいっぱいいるんですね。栄光に輝く姿を見ずして(知らずして)それでもイエスさまを支え続けた人たちこそ、まずは、神の国に招かれるに相応しい人たちだとイエスさまはおっしゃっています。恐らく、イエスさまの今日のお話しを聞いて弟子たちはそんな自分達を連想できたのかも知れません。

 そして、イエスさまは、私の兄弟である小さい者という風におっしゃっていますが、イエスさまは、弟子達にこんな風におっしゃっておられました。
*******************************************************************
 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は必ずその報いを受ける。(マルコ9章41節)
*******************************************************************

 わたしは、今回の説教を準備している時に、どのようにお話しをしたらよいのか祈っていたのですが、その中で示されたのが先ほどの「鉢の木」の話しなのですが、もう一つありました。それをイメージしたのが週報に乗せた絵(←)なんです。
 これはどういう絵なのかと言いますと、イエスさまの十字架をじっとみている羊と、イエスさまの十字架の方を向いていない山羊を描いた絵なんです(わかります?)。つまり、人はイエスさまを見ている人とそうでない人に分けられるということです。

 羊とはどのような人のことか・・・それは、イエスさまを直接支えた弟子達のことであり、また、その弟子たちに親切にした人たちです。そして、時代を超えて、イエスさまの十字架による罪の赦しを受け入れ、十字架のイエスさまの痛みを心に刻み、「わたしに何ができるのか」「イエスさまにお応えして歩もう」と心に留めている人のことなんです。

 マザーテレサという修道女の方いらっしゃいました。世界の人たちがその偉大な働きを賞賛した方です。私も、偉大な方(ローマ法王さんよりも霊的に素晴らしい方)だと思います。彼女のあそこまでした活動の原点は、イエスさまの「渇く」という言葉だったそうです。その声を聴いたというのです。そして、そのイエスさまの「渇く」という言葉が何を意味しているのかということを考え、そして、「それは、わたしにしてくれたことなのだ(You did it to me.)」というイエスさまの言葉から、イエスさまの渇きを“愛を受けることが出来ない人たちの渇き”と重ねて捉え、一生懸命愛に飢えた人々に尽くすことでイエスさまに仕えようとされたんです。それがマザーテレサでした。
 直接イエスさまに何かすることはできない。しかし、周りの人の渇望を癒すことがイエスさまの渇望に答えることだと考えたのです。それが、時代を超えた私にできることだとマザーテレサは考えたそうなんです。

 先週、説教で、私は「(晩年になると)したことよりも、しなかったことに対する後悔の方が強く残る」ということをお話ししました。また、気づいた時には、戻りたくても戻れないのが私たちの人生であるということもお話ししました(だから毎日を大切に生きましょうとお話ししました)。

 私の母は、マザーテレサが亡くなった年と同じ年に亡くなったのですが、私は、聖書を知っていながら、全然、母親を大切にしてこなかったことに後悔しています。何もしてきませんでした。で、後悔している今、家族にはそうしないように頑張っているかと言えば、同じことをしているんですね(その自分に気づくんです)。
 聖書に「小さい事に忠実な人は大きなことに忠実である。小さいことに不忠実な人は大きなことに不忠実である」という言葉があります(忠実というのは信仰と同じ言葉です)。昔と同じことをしている自分に気づくと、何でなのかなと悲しくなりますが、これは、不忠実である小さい事に気づいていないからなんですね。ですので、気づいた愛のない姿は、小さい不忠実な姿の延長線上(もしくは積み重ね)から来ているんです。その小さな不忠実な考えを改めないと(それに気づかないと)人間って変わらないんですね。同じ過ちばかり犯してしまうんです。
 でも、わたしは、そんな時、イエスさまのこの言葉を参考にするんです。「母親に対してしている」と母親と重ねて行動するようにします。すると、何か違う自分の行動が見えてくるんです。

 わたしは、今回、この箇所からの説教を考えていた時に、イエスさまの言う羊って、「イエスさまの渇きに答えるには何をしたらいいんだろうか」と思う人のことなんだと思います。もちろん、イエスさまを見ているので(つまり信じているので)すでに、そこに救いはあります。

 しかし、プラスしてイエスさまは、先ほどの「鉢の木」の話しのように、イエスさまを心に迎え入れて、惜しみなく自分を差し出す人を求めておられるのだと思います。でも、そんな風に私はなれないって思う人(わたしを含めて)多いかと思います。それは、大きなことに忠実であることに目が行くからです(鉢の木をくべる人のような姿)。そうではなくて、まず、小さいことに忠実であるということから始めるのです。それでいいのです。
 今日のイエスさまの話しでは、そんなことしましたか?と王に言っています。これは、王に対してしましたか?という疑問でありますが、ここには、気づかないような小さいことも含まれていると言われています。
 つまり、ちょっとした愛でもいいのです。そこに、イエスさまにお応えしたいという思いが乗っかっていればいいんです。そこに、イエスさまの渇きに応えたいという思いが乗っかっていればいいんです。良い人になるために何かをするのではなくて、イエスさまへの感謝、イエスさまの渇きにお応えする思いで、ちょっとした愛を実践して欲しいのです。そうすれば、必然と大きなことにも忠実になっていくのです。

 私は、牧師として、人とお会いする時、この時を神さまが設定されたと感じることが多いです。「その方のために」、そして、「イエスさまの思いにお応えしたい」という思いで、お会いしています。牧師という“仕事をしているから”お会いしているという思いは殆どありません(セールスマンの人と応対することありますのがその時はつっけんどんかも知れませんが(;^_^A)。

 是非ですね、イエスさまを見つめる羊として、「私に何ができるんだろう」そんな風にいつも考える人になって、そのことを基準に歩んでみてください。ほんと、ちょっとした愛でもいいのです。記憶に残らないほどの愛でもいいのです。大事なのは、イエスさまの渇きに応えたい、十字架の愛に応えたいという思いから、行動してみて欲しいのです。すると、不思議な巡り合わせのようなことを体験していかれることと思います。

 小さいことに忠実であれば大きなことに忠実になっていきます。小さいことに忠実であった人に神は大きなことを任されます。