宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
タイによる福音書25章14節~30節


 「戻りたくても戻れない」

説教者  江利口 功 牧師

 

 おはようございます。

皆さま、朝御飯、しっかり食べて来られましたか?朝はパンという人もいれば、お米(御飯)を食べるという方いらっしゃるかと思います。ところで、お米の話ですが、稲からできますよね。この稲というのは、弥生時代からずっと私たち日本人と共存してきました。共存してきた結果、何が起こったのかと言いますと、人間に食べてもらうために、必要以上の実りを持つようになったそうです。そのことをある先生がおっしゃっていました。どういうことかと言いますと。家族に働いておられる方いますよね。大抵、自分が生きるため、家族を養うために働きます。税金で持っていかれますので、さらに多く稼ぐとは思いますが、お隣の人のために稼ぐということはないと思います。

あくまで、自分と家族のためです。稲というのは、家族だけでなく、周りの人のためにも働く人のような感じです。凄いですよね。

稲は、人に食べてもらうために、自分にとって必要以上の実りをもたらす品種だそうです。さらに、沢山の稲穂を付けた稲はどうなるのかと言いますと、頭を垂れるんですね。こんな故事成語があります。“実るほど頭を垂れる稲穂かな”稲穂が成長し、実が付き、実が育つとまるで〔おじぎをしているかのように〕垂れ下がってくるんです。実が多いほど垂れ下がるので、これを人間にあてはめて、学識や徳のある人ほど、謙虚な姿勢になってくる。

立派な人ほど謙虚な姿である。そういった意味で、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と言って、ある意味「真実」で、ある意味「教訓」のように言っている言葉です。〔自分のため〕ではなくて、沢山の人においしく食べてもらうために成長しようと頑張っているのが稲であり、他の生き物のために〔自分に必要以上の沢山の稲穂を付けて〕いても、なおかつ、〔頭を垂れている〕のが稲なんですね。素敵ですね。秋になると、田んぼは、黄金色になります。

都会では味わえない風景です。お百姓さんにとっては、沢山実った時には嬉しい光景になっているかと思います。さて、今日、私たちは、イエス様のひとつの譬えを見ています。「タラントンの譬え」と言われているものです。

内容としましては、先ほど朗読して頂いた通りなのですが、〔イエス様は、この譬えをいつなさったのか〕というのを知るのも大切です。

実は、この譬えをイエス様が弟子達にお話しになったのは、十字架にかけられる二日前だったんです。マタイによる福音書26章の初めを見て頂くと、こう書いてあります。イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」『全て語り終えると・・・』という表現があります。二日後には十字架につけられてしまうわけで、だから、愛する弟子たちに、最後、伝えたいことを伝えようとされたんですね。

もし、皆さんが、大切な人と〔ずっと会えなくなる〕となると、大切なこと伝えようとしますよね。「元気でね」とか「ありがとう」とか、子供に対してであれば、「こんな風な人になりなさいよ」とか伝えると思います。

イエス様もまた、最後に弟子達に伝えたいメッセージがいっぱいありました。ヨハネによる福音書には『イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。』と書かれています。それだけでなく、イエス様は、色々な教えを弟子達に語られました。「十人の乙女の譬え」の話しもそうですし、今日の「タラントンの例え」もそうです。来週も、もう一つの教えを見ますが、共通しているのは、「わたしは再び来る」「世を裁くために来る」ということ、そして「それまで、賢く、忠実に、そして正しく歩んで待っていなさい」ということです。

私たちクリスチャンは「イエス様が再び来られることを待っています」

ところで「待つ」と聞くと〔一点に留まる〕ようなイメージがありますので消極的に聞こえるかと思います。例えば、病気やケガで動けなくなると、〔したいことがあっても動けなくなる〕ので」「治るまで待たなければなりません」。

誰かと待ち合わせをして、その人が来るのが遅くなると「待たなければなりません」。色々な処で、待つという経験をしたかと思いますが、結構、消極的なイメージなんですね。しかし、「待つ」というのは、実は、見方を変えれば(捉え方を変えれば)これほど、積極的な状態はないんですよね。

病気であっても「元気になったらこんなことしよう」と積極的になることできます。実際に元気になったら〔待った分〕感謝の思いになれます。

また、〔誰かを待つ〕となると「その人が喜ぶ顔を見るために何かを準備する」こともできます。相手が来るのが嬉しくて待っていると「想像力」が豊かになるんですね。イエス様は、「再び来る」とおっしゃいました。

イエス様は、クリスチャンである私たちに、新しい生き方をくださっているんですね。それが「待つ」という人生なのです。

その「待つ」ということに、一つ意味を与えてくださっていることが分かるのが今日の聖書箇所なのです。今日のイエス様の譬え話はこう始まります。

ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。(マタイによる福音書25章15節)主人が三人の僕に、5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けて旅に出かけたとあります。しかも、“能力に応じて”5タラントン、2タラントン、1タラントン預けたとあります。1タラントンは6千日の給与と言われていますので、約16年分の給与(週に一日の休みを加味して考えると約19年)に値します。ですので、高額なお金を託されているのが分かります。

さて、その僕たちですが、商売をしたりして、それぞれ、さらに5タラントン、2タラントン儲けたとあります。ただし、1タラントン預かった僕は、それを土に埋めてしまったんですね。これは当時に財産を守る一つの手法だと言われています。さて、かなり日がたって主人は帰ってきます。

すると、5タラントン預けられた人は、5タラントン稼いでいました。

2タラントン預けられた人は、2タラントン増やしていました。

それを見た主人はこう言います。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』この二人は、主人の思い、願いに対して忠実な僕だったんですね。

彼らの後、もう一人の僕が主人の前に進み出てきます。彼はこう言います。

御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』(マタイによる福音書25章24節~25節)

彼がしたのは、「盗まれないために土に埋めたと」いうことでした。

主人の思いは「お金を維持することではない」と思います。

それをどう用いるのかを見ていたのだと思います。しかし、この僕は、預かったお金を用いることも何かを考えることもしなかったのです。

さらに主人のこの言葉を聞く必要があります。

主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。(マタイによる福音書25章26~2節)

そのままのお金を返すのであれば、銀行に預けるのが賢いのは誰にでも分かります。では、なぜ、この僕はそんなことさえしなかったのでしょうか?

私は、彼は、ただ主人を恐れただけではなく、恐ろしい主人だと思っていたので、主人のことが好きではなかったんだと思います。

ここが先の二人との大きな違いだと思います。主人を大切に思う、感謝に思う、そういった思いがなかったのだと思います。「待っている」ことにも消極的だったのでしょう。だから、主人の喜びの顔を見たいとも思っていないので、少しも増やそうという思いがなかったんですね。そんな僕だったんです。

された1タラントンを軽視していたんですね。結果、彼は、帰って来た主人に追い出されてしまいました。さて、この話は、イエス様が十字架にかかる数日前に、弟子達に託された、残された言葉でしたよね。

イエス様は、弟子達に(私たちに)「待つ」という新しい生き方を与えてくださいました。「待つ」というのは、「喜んで待つ」人にとっては、それは消極的な人生ではなく、積極的な生き方の始まりなんです。

実際に、弟子たちにどう生きるようにと(私たちクリスチャンにどう生きるようにと)教えておらえるのかと言いますと、それは、福音を全ての人に宣べ伝えること(喜びを広げていくこと)、そして、能力に応じて託された才能(タレント)を他の人のために用いていくということなんです。

しかも、それをどんな風に用いるのかは私たちに委ねられています。

(この点では僕のようで、実は、自由人なんです。「それぞれが積極的に考えてみなさい」という自由な生き方を神さまはくださっているのです。

もちろん、期待されているのです。この譬えを聞いて、「わたしちゃんと生きないと放り出される」と律法的に読んではいけません。

そのように読むと、一タラント預けられた僕と同じ境地になってしまいます。そうではなくて、神さまが私たちに託された才能(タレント)を〔どう生かそうかと思いめぐらせる〕ところが大事なんです。

私たちが、新しい生き方を頂いたものとして、どう生きるのか(それを積極的に考えるのか)が求められているのです。私たちは、それぞれ、色々な〔人にはない能力・境遇〕を与えられているはずなんです。

能力と言えば委縮してしまうので、能力というよりは素質・性格という風に言ってもいいのかも知れません。それを生かすためには、年齢は関係ありません。社会的な地位・立場も全然関係ないのです。

神さまは、皆さまに、見える能力・見えない能力、色々と与えてくださっているのです。それは、自分のためではなくて、周りの人のためなのです。

この話で、主人は、5タラント、2タラント、1タラントを彼らにあげましょうと言っていません。彼らは「自分のために使っていいよ」と預かったのではなくて、これを用いて何かに貢献しなさいと“別に”託されています。

私たちも実は、自分に神さまから頂いている才能があるということなんです。それは、自分や家族のためではなくて、周りの人のためだと思う方がいいのです。そして、このことは忘れないで欲しいのですが、5タラントン、2タラントン、1タラントンとは、この世の尺度で見ると、額が違うように見えるでしょう。しかし、神の国の尺度で見ると、それらは同じなんだと思います。

ですので、1タラントンの実りであっても、それは、5タラントンよりも多くの人を助けることができるのだと思います。イエス様は、こうおっしゃっています。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネによる福音書12章24節)

イエス様は、一粒の麦が多くの実を結ぶとおっしゃっています。

一つの麦とは「私たち自身」です。そして、自分のためではなくて、周りの人たちのために、与えられた賜物で何かをしようと考えるその人(生きるその人)を父なる神さまは大切にしてくださるという約束がここにあるのです。

今日のイエス様の例えは弟子達に語られていますが、私たちにも語られています。イエス様は、弟子達に、そして私たちに「喜んで待つ」という新しい生き方をくださいました。この「喜んで待つ」というのは創造的な生き方の始まりなんです。未来は無限に広がっています。年齢は関係ありません。

境遇も関係ありません。自分に与えられている能力(賜物)をどう用いていくかをいつも考えることができる楽しい生き方が始まっているのです。

何より、背後に神さまが「ついていてくださる」し「見ていてくださるんです」それは、神さまとわたしの一緒の喜びとなっていくのです。

ところで、私たちは過去のことで後悔することってありますよね。

ある研究によると、人は「したことに対する後悔」よりも「しなかったことに対する後悔」の思いの方が強いそうです。「しなかった(してあげられなかった)」という思いの方が強く残るのが人間なんだそうです。

でも、そう持ったときには遅く、戻りたくても戻れません。

それだけに、毎日が大事なのです。神さまはいつ来られるかわからない。

だから、毎日が大事なのです。わたしにはどんな才能が与えられているのか、人とは違う何を頂いているのか、自分で探すのもいいですし、他の人に聞いてみるのもいいかと思います。どんな小さいことでも、大きな実りとなるのです。

最初に稲の話をしました。稲は〔自分のため〕ではなくて、沢山の人においしく食べてもらうために成長しようと頑張っています。

豊かに実った稲穂は作った方、食べる人の喜びです。

是非、稲穂のように、必要以上の大きな実りをもたらすような生き方を考えて、一緒に歩んで生きましょう。そして、他の生き物のために〔自分に必要以上の沢山の稲穂を付けて〕いても、なおかつ、〔頭を垂れている〕のが稲のように、謙遜に生きましょう。