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おはようございます。
昨年、ウクライナで戦争が始まった時、ロシアの大統領はクリスチャンなのにという声を良く聴きました。ウクライナ・ロシアの戦争は〔キリスト教の国〕同士の争いだ…とはあまり感じていませんでしたが、今回のパレスチナでの衝突は、本当に〔聖書の民〕同士の争いなんですよね。
イスラエル側ではあまり神という言葉は聞こえてきませんが、アラブ諸国(つまりイスラム教)の側では「神は最も偉大なり」って叫ぶ人たちの姿が映像で流れるのをよく見ます。イスラム教も旧約聖書(一部の旧約聖書)を信じている民なんですよね。同じ神さまを信じています。
〔聖書の神さま〕を信じる民同士なのにどうしてこんなことになるのかな?聖書は「隣人を愛すること」を教えるのにどうしてなのかな・・・って思いました。もちろん、今、争っている人たちがユダヤ教、イスラム教の教えを代表しているわけではありません。一部の過激な人たちがこの状況を作っているは事実だと思います。私は、ニュースを見ながら、イエス様は「敵を愛しなさい」とおっしゃっているよな。「右の頬を打たれたら左の頬を向けなさい」と教えておられるよな。「赦す」ということをおっしゃっているよな。そんな風に思ったら気づいたんです。そうか、彼らは、イエス様が神さまの御子であることを知らないんだ。信じていないんだ。そのことに気づきました。
そう思ったら逆に、イエス様の教えって、まさに、今、彼らが耳を傾けるべき言葉、解決をもたらす教えだと思いました。また、イエス様が“これらの考えが大事だよ”って言っておられた理由が良く分かりました。
恐らく、世界のキリスト教国よりも、神さまを第一とすることを命がけで守る人たちだと思います。それだけに、一度、アラブ諸国やユダヤ人が「イエス様は神の御子」であるとことを信じることができれば、欧米の国よりも平和を実現できる国になるのではないか…わたしはそう思いました。
イエス様の言葉に次のような言葉があります。これは、いよいよイエス様が神として受け入れられることなく、十字架につけられてしまう時におっしゃった言葉なのですが、それは「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」(マタイによる福音書23章37節~39節)という言葉でした。イエス様のことを神の御子だと信じて、イエス様の言葉に生きて欲しいと思いました(イエス様は平和の君)。
さて、今日の聖書箇所ですが、これまで見て来たように、イエス様を陥れるため(上げ足を取ってそれを理由に処刑しようとするため)の問いかけです。前回は、〔宗教的権威を持った〕偉い議員の人たちがやって来たのですが、今度はファリサイ派の弟子とヘロデ派の人たちがイエス様のところにやってきます。彼らは、こうイエス様に問います。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」当時、イスラエルの民は、沢山の税金をローマに納めていました。また、ローマに支配されているというのも、長い民族史の観点からも承認できない事実でした。
カナンという土地で、神さまを頂点にした独立したイスラエル国家を建てたいんです。ですので、税金を納めるというのはその国の支配下にあるということなので、受け入れられない事実だったんです。
そこで彼らは〔この事実を利用して〕イエス様を陥れるために、『皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。』と尋ねたんです。もちろん彼らは、イエス様の意見を聞きたいのではありません。殺そうと計画しています。この質問を通して訴える口実を探っているのです。今、起こっているイスラエルとハマスとの戦争ですが、色々な国のトップの人が声明を出しています。しかし、自分の思っていることを言うのではなくて、すごく言葉を選んでしゃべっているのが分かります。
〔どちら側の肩をもつのか〕〔双方の言い分をどう評価するのか〕…言葉を間違えると自分の国も戦争に巻き込まれていってしまうので慎重に(時にはどっちにもとれるように)答えています。イエス様に対する質問も、そういった言葉の選び方を間違えたら終わりなんです。イエス様が、ローマへの税金を容認すれば、「あのラビ(先生)はローマの肩をもつやつだ」と触れ回る事で民衆を扇動することができます。また、ローマへの税金を否定すれば、ローマに反逆する危ない人物だと誇張して言って、ローマの力を借りてイエス様を処刑できるからです。今回の場合は、どちらを答えても、イエス様には不利になるのは分かっていました。しかし、イエス様は見事にかわされるんですね。
イエス様はこうおっしゃいました。『税金に納めるお金を見せなさい』『これは、誰の肖像と銘か』(マタイによる福音書22章19節)
イエス様は彼らに〔税金に納めるお金〕を持って来なさいとおっしゃいました。私たちが持っている貨幣(その中でも硬貨)は若木(1円)であったり、稲穂(5円)であったり、平等院鳳凰堂(10円)のような建物がデザインされています。では、当時のローマの支配地域で使われていた硬貨はと言いますと、(全ての硬貨ではないと思いますが)皇帝の顔がデザインされていました。「なんだ、顔がデザインされていたんだ」と思ってはいけません。
イスラエルの人にとっては困ったことになるのです。
なぜなら、聖書には「神以外のものを神としてはならない」「刻んだ像を作ってはならない」という戒めがあるからです。さらに、当時の硬貨には、〔皇帝の名〕が印字されていたのです。これは、戒めを大事にしている厳格なファリサイ派の人たちにとっては苦痛だったのです。例えば、天皇陛下に関しても〔昔の戦争のこともあり〕日本のクリスチャンの間でも「天皇陛下をどう受け止めればよいのか」という点では賛否両論があります。
でもどうでしょうか?私たちの貨幣に天皇陛下の顔と名がデザインされていて、「私たちの現人神」って書かれていたら、さすがに、私たちも、気になるというか、嫌悪感ってあると思います。彼らにとっては、私たちとは感覚は全然違います。彼らは皇帝の顔が入っている硬貨を持つと言うのは、〔崇拝させられている〕〔皇帝の顔を刻んだ偶像〕を持っているということで受け入れられないんです。ですから神殿ではローマの硬貨は使えませんでしたし、ファリサイ派の人は持ち歩くこともしていなかったと思います。
今日の聖書箇所を見ますと、イエス様がローマに納める税のための硬貨を見せなさいと言った時に、『彼らはデナリオン銀貨を持ってきた』と書かれています。「デナリオン銀貨を出した」と言わず「持ってきた」と書いてあるのは、〔彼らの財布にはローマの貨幣がなかった〕ということの証しなのです。
厳格なファリサイ派の人たちはそれだけ硬貨を嫌っていたと言うことがわかります。さて、イエス様の処にデナリオン銀貨を持ってきた人たちにイエス様は「これは、誰の肖像と銘か」と尋ね、「皇帝のものです」と答えた彼らに対し、イエス様は、こうおっしゃいます。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(21節)先ほども言いましたが、今、私たちが使っている通貨に天皇陛下の顔が印刷されていて、「現人神」ってあったら受け入れ難いですよね。また、年に何度か皇居のある方に向かってお辞儀するように定められていたらさらに貨幣を見るたびに嫌な思いになるじゃないですか。
恐らくユダヤ人(特に厳格に律法を守ろうとしているユダヤ人)はもっと嫌で、持つことも嫌なはずなのです。硬貨を持って生活することは、皇帝に支配されていることの証しですし、また、皇帝を崇める対象としていることの証しだからです。イエス様は、そこを突かれたのでした。
そのような貨幣を手放すことをイエス様が良しとされても、誰が、「神の教えに反している」と言えるでしょうか?ですからイエス様は、「皇帝のものは皇帝に納めなさい(ディドーミ)」と言わず、皇帝のものは皇帝に返しなさい(アポディドーミ)」とあえて言葉をかえておっしゃったのです。
「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(21節)
実は、ここでもう一つ、イエス様は彼らに大事な考え方を教えておられます。それは、「あなたはローマに支配されてしまった(支配されたどうしようもない悲しい状態)なのではなくて、あなたを今も神の支配の中で生きている状態なのですよ。」ということです。つまり、二重の支配の中で生きているということです。そして、このことは、私たちもそうなのです。
私たちは、今この現実の世界で生きつつもクリスチャンとして生きています。ただ、私たちは、クリスチャンとしてのアイデンティティを持ってこの世界で生きているのではなく、この世の人による支配を受けてはいますが、「神のもの」であるという、二つの統治のもので生きる者なのです。
私たちは二つの世界に属しています。一つは〔この見える世界〕もう一つは〔見えない霊的な世界〕です。私たちはこの二つの世界に属しています。
私たちは、霊的な王として、イエス・キリストがいつも私たちを支配してくださっています。そのうえで、私たちは、この世の支配者(実は見えないサタンが最高の権威者)のもとで生きているのです。
ですので「わたしクリスチャンなんです」というのを「わたし女(男)なのです」という感じではないんですね。「わたしクリスチャンなのです」というのは「わたしはイエス様の支配に属しているものなのです」という感じで言って欲しいのです。わたしはイエス様のものという感覚を是非持って戴きたいと思います。そのうえで私たちは、この世の義務を見る必要があります。
パウロはローマの信徒への手紙でこう言っています。
すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。(ローマ人への手紙13章7節)
また、こうも言っています。そこで、まず、第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のために捧げなさい。王たちやすべての高官のためにも捧げなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。(1テモテ人への手紙2章1節~4節)
旧約聖書では、ヨセフという人物が登場します。ヨセフは、ヤコブの子どもでしたが、ヤコブのもとから離れ、エジプトに売られてしまいます。
ヨセフは僕になっても、牢に入れられても、正しくいきました。
また、牢でも、また、最後にはエジプトのファラオにも気に入られ、彼に仕えるのですが、いつも、誠実に使えました。また、ダニエルという人も登場しますが、彼も、バビロンに連れられて行っていても、神への祈り(礼拝)を欠かさず、でも、最後まで、忠実に生きていました。神さまは彼らはと共にずっといておられ神さまは彼らを祝福されていました。彼らは異国で支配され生活していましたが、彼らはいつも神が共にいるということを忘れませんでした。
異国の支配者には、異国の民のように忠実に仕えていたのです。
でも、自分が誰に属しているのかは忘れませんでしたし、譲ることもありませんでした。私たちはこの世で〔二つの支配〕の中で生きています。
一つは、肉の統治者(さらに見えない形でサタンが支配している)そして、もう一つは霊的な統治です。もちろん究極的にはそのどちらも神さまを支配しておられます。私たちは、神の国民であり、寄留者のようにこの世で生きる存在です。私たちはこの世界に従って生きていますが、完全に支配されているのではありません。私たちはこの世界で生きる中で、本当の世界の価値観(聖書の価値観)を世に示すのです。私たちが神に忠実であり、神の命令によってこの世でも忠実である時にこの世界は神さまのことを知ることになります。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイによる福音書5章16節)とあるようにです。
もちろん、立派ではない(自分は立派ではない)ということは私たちが実感できることです。ただ、何が正しいと思って生きているか(頑張っているか)このことを世に示すことになるのは間違えないと思います。
私は、今回のイスラエルとイスラムの対立をニュースで見ていて、「聖書に何と書いてあるかをもう一度考えてくれたらすぐに解決するのに…」と思います。みなさまは、もしかしたら対岸の火事のように思うかも知れません。
でも、私たちも気を許してはいけないのですね。こんな話があります。
食卓で子供が、どうして戦争をするの?って聞いたら、お父さんが簡単にそのことを説明しました。それを聞いていたお母さんが「違うよ」って言って、違う説明をしたら、夫婦で言い争いになったというんですね。
すると子供が、「どうして戦争が起こるのか良く分かったよ」って言ったという笑い話です。私たちも、規模は小さくても、同じような争いの中に生きているんですね。その時にどう対応するのかが問題となってきます。
この世的に解決したくなる時、沢山あると思います。
でも、やはり、イエス様の言葉を実践して解決していくことも忘れないで欲しいと思います。この世の支配者は、私たちのために命は捨ててくれません。
しかし、霊的な王であるイエス様は私たちのために命を捨ててくださいました。神の国の国民は、国民のために命を捨ててくれる王様の民なのです。
そのような国に今属しているのです。イエス様の言葉を実践して生きる。
これこそ、神の国の国民の姿なのです。
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