宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
タイによる福音書22章1節~14節


 「目を覚ましていなさい」

説教者  江利口 功 牧師

   

お早うございます。

最近,棚にずっと仕舞い込んでいた物が、気になっています。

昔に購入したもの、また、コレクションとか、他人から戴いたプレゼント品とか、恐らく読むことのない本とか、色々あるんですね。

私の所有物ですので、私に何かあれば、誰かにこれを頼まなければなりません。そう考えると、早めに処理しようかと思うようになってきました。

“断捨離”という言葉があります。お聞きになったこともあるかと思います。実践しておられる方もいらっしゃるかも知れません。

“断捨離”とは、自分の持ち物の中で不要な物を減らし、生活に調和をもたらそうとする生き方(思想)のことを言うそうです。

もともとは、ヨガの精神思想から来ているそうで、“新しい物を手に入れない、(断つという意味)“”今あるものを捨てる“、そういったことを実践することなのですが、最終的には、物欲(物に対する執着心や所有欲)を手放すという処,その境地に至るところにその目的があるようです。

ですので、終活の一つとして“断捨離”するだけでなく、若い方でも、物欲から解放されたいという思いから断捨離を始める人もおられるようです。

しかし、人間の物欲、所有欲というのは強く、なかなか成功しにくいとは言われています。今日は「所有」という観点から本日の聖書箇所をみて行きたいと思うのですが、まず、皆様に考えてみて欲しいのは、このローソクの灯を私たちは所有することが出来るかということです。どう思いますか?

今年の春休み、他の教会の牧師たちと子供たちとでキャンプをしたのですが、その夜、焚火をしたんです。焚火の火をじっと見ていると癒されますよね。

私はその焚火の火を絶やさないように、ずっと火の番をしていました。

新しい焚き木を入れていくんです。焚き木をくべると火はずっと燃え続けています。しかし、焚き木が無くなれば火は消えてしまいます。

実際に最後に火は消えてしまいました。準備した焚き木が無くたったので・・ローソクの灯も同じですね。ローソクを持っていても火を点けなければ、ローソクは残りますが、灯を見ることはできません。ライターで火を点ければローソクは燃え始めますが、燃えている火を持ち続けることはできないのです。

ローソクが無ければ灯は消えてしまうのです。実は、愛も同じように所有することが出来ません。愛はローソクのようなものです。いつも、新鮮にそのことを意識して実践しようとしない限り、その人のうちの愛は存在しないことになります。「信仰」もまた「愛」と同じように、またローソクの灯と同じように、所有することが出来ないのです。「えっ」と思われるかもしれませんが、今日の聖書箇所は、そのことを言っているのです。さて、今日の聖書箇所ですが、イエス様は婚礼に招かれておきながら断っていく人たちのことを例え話として話しておられます。こう書いてあります。「天の国は、ある王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意が出来ています。さあ、婚宴においでください」しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。」

(マタイによる福音書22章1節~6節)

この譬えは、先週の話(ブドウ園と農夫の譬え)と同じように、ユダヤ人の不信仰(罪)とその罰とが比喩的に描かれています。

ここで、「王」とは神さまのことで「王子」とはイエス・キリストのことを言います。そして、婚宴とは天の国のことであり、招待された人とはユダヤ人のことです。現在では、婚宴があれば、日時を伝えて招くものですが、当時は、七日間も祝宴が続くのが習わしであったので、多くの場合、準備が出来てから招きが始まっていたようです。イエス様の例え話では、王が家来を遣わして婚宴の準備が整ったことを伝えたのですが、彼らは、来ようとしませんでした。

失礼な人たちという感じですね。それでも、王は、別の僕を遣わして、今度は、内容を伝え、是非、来てくださいと懇願するように招くというのですから、王(神さま)の寛容さがどのようなものか現わされています。

しかし、この王の招きも彼らは拒否したんですね。しかも、その理由が醜いですね。ある者は畑に出かけ、ある者は商売に出かけたというのです。

更には、普通では考えられませんが、家来を捕まえて殺してしまったというのです。これは、神さまの遣わされた預言者たちを無視し、時に殺し、更には、イエス様の招きも拒否し、十字架に架けて殺した、ユダヤ人の姿(罪)を現わしているのでした。イエス様の例えは次のように展開しています。

「そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大道りに出て、見かけた人は誰でも婚宴に連れてきなさい。」そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人でも悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」

マタイによる福音書22章7節~10節)

そこで王はどうするのかと言いますと、軍隊を送り、町を滅ぼしたと言うのです。このことは、現実にAD70年にローマ軍によってエルサレムが陥落するという出来事のよって現実のものとなりました。この時、神さまがイスラエルを滅ぼしたのではなくて、神さまは、イスラエルの味方になることはなく、イスラエルという国が滅びて行くことを善しとされたということです。

(ただ、イスラエルの民自身は、神の憐れみによって存続し続けます。)

そして、この譬えにあるように、神の祝福の契約は、イスラエルから信仰によってイエス様を信じる私たちに降り注ぐようになりました。

そのことが「町の大通りに出て、見かけた者は誰でも婚宴に連れてきなさい」という王の言葉に表されています。さて、イエス様のこの譬えですが、「婚宴に招かれていながらそれに応じない」人たちの姿が描かれていました。

普通はあり得ないですよね。でも、ここに何が描かれているかということを、今日覚えて欲しいのです。それは、彼らは招待されていたのですが、招待された恵みを意識しなくなった時に、いつの間にか、神さまに対する相応しい信仰をも失ってしまっていたということなのです。そして、「さあ今です」という時に、その声を聴く力、また、従う必要性を理解できなくなってしまっていたんです。イスラエルの民は、神の民として選ばれていました。

アブラハムの子孫である彼らは選ばれた民でした。しかし、その召しを当然のように思い、神の言葉に謙虚に耳を傾けることをせず、自分の私利私欲を優先して生きるようになり、愛に生きることを忘れてしまった時に、神さまの声を聴き分ける信仰を失ってしまっていたのでした。

そして、イエス様の招きの声を聴いたにも関わらず、その声の主を十字架に架けてしまったのです。このイエス様の例え話ですが、ここからまた、大きな展開を見せます。王が客を見ようと入ってくると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。「この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。」(マタイによる福音書22章11節~14節)譬え話では「誰でも連れて来い」と言っていた王なのに、何と、一人の人を追い出してしまうのです。これもまた、何で?と思わされます。

これは、ユダヤ人ではなくて、イエス様に対する信仰を持った、私たちに対する忠告です。つまり、私たちもユダヤ人と同じようになってしまうことの無いようにとのイエス様の忠告なのです。婚宴に招き、普通、招待されていたことを知っていたら、誰でも応じるはずです。ですので、譬えの初めのくだりを聞きますと、誰もが、不思議に感じたはずです。しかし、聖書は、信仰はそういうものなのだと言うのです。つまり「信仰は所有できない」のです。

そのことをいつも意識していなさいと言うのです。言い方を変えますと、あなたの信仰の炎が消えないよう目を覚ましていなさい。準備していなさいと言う神の言葉なのです。(参考 10人の乙女の譬え マタイによる福音書251節~13節)ユダヤ人たちはアブラハムの子孫であるから選ばれていると信じていました。同じことが、新しい契約に生きる私たちにも当てはまります。

イエス様の十字架によって罪赦され、神との関係が回復されているのが私たちです。私たちは洗礼によって救われています。行いは関係ありません。

でも、そこで、「洗礼を受けたから大丈夫」という生き方には気を付けなくてはならないのです。何度も言いますが、信仰を持っていると表現することがありますが、私たちは、何もせずに信仰は所有することが出来ません。

皆さまは「靴屋のマルティン」というお話を一度は聞かれたことがあるかと思います。この話は、トルストイという人の話なのですが、もともとの題名は「愛のあるところに神あり」です。「靴屋のマルティン」という話を要約しますと、ある処にマルティンという一人の老人がいました。

彼には奥さんや子供がいたのですが、みんな死んでしまうんです。

マルティンは、悲しみのあまり、神さまへの信仰を失い、そして、もう死んでしまいたい・・・そんな風に思うようになりました。そこに一人の同郷の信仰深い老人がやってきて、生きる目的を見いだせなくなったマルティンに、神さまのために生きるように勧めるのでした。そして「神さまのために生きだすと(生きる目的を変えると)何一つくよくよすることなく、何もかもが楽に思われてくる」と、そう教えたのです。マルティンが「ではどうしたらいいのか?」と尋ねると、その老人は「聖書の中にイエス様がちゃんと生き方を教えてくださっているよ」と言って帰って行きました。マルティンは新約聖書を買いました。そして、毎日、新約聖書を読むようになりました。

マルティンは、イエス様の言葉を一生懸命読んでいくうちに「神さまのために生きる」ということがどういうことかが判るようになってきました。

そして、徐々に心も軽くなり、神さまに感謝するようにまで変わっていきました。そのマルティンに、ある時、イエス様の声が聞こえてきます。

「明日、いつものように窓から道行く人を見ていなさい。わたしがそこに行くから」そんな語りかけを聞いたのです。マルティンは考えます。

どのように迎えたらいいのだろうか。(ファリサイ派のシモンのようであってはいけない)。朝早く起きだし、お祈りをし、暖炉に火を点け、暖かいお茶と食べ物を準備します。そして、仕事をしながらいつも通り、窓から人の往来を見続けるのです。するとイエス様ではなかったのですが、一人の人を見かけます。彼はお情けで隣の人の家でお世話になっている老人で、その人が雪掻きをしているのでした。マルティンは、彼を家に招き、寒いだろうと言ってお茶をご馳走します。その人は、お茶を飲みながら優しくしてくれるマルティンの話を聞いて元気のなり帰って行きました。すると、次にマルティンは赤ん坊を抱いたお母さんを見つけるのでした。そのお母さんは、冬なのに夏の服を着ていました。実は、お金が無くて、服を質に入れたのでした。

更に、食べ物も食べておらず、赤ん坊にあげるお乳も出なくなっている状態でした。マルティンは、そのお母さんを家に招き、暖かい食べ物を与え、そして、質に入れた服を取り戻すためにお金をあげて返してやるのでした。

彼女は喜んで帰って行きました。また、イエス様ではなかったのか・・・そんな風に思うマルティンですが、また、外を眺めていると、今度はリンゴを籠に入れた老婆を見かけました。彼女はリンゴを殆ど売ったようでしたが、残ったリンゴの一つを少年が盗って逃げようとしました。

しかし、その少年は老婆に捕まり、老婆はお巡りさんに引き渡そうとします。それを見たマルティンが二人の中に入り、老婆を説得し、少年に悪いことをしてはいけないと諭しました。そして、マルティンが聖書の話をしながら老婆を説得していくのですが、最後に少年も悔い改めたのでしょう、二人は仲良くマルティンのもとを去っていくのでした。さて、イエス様が来ると思って、もてなしの準備をし、窓の外を眺めていたのですが、結局は、イエス様は彼の処に来ることはありませんでした。夜になり、再び聖書を開き読もうとした時に、誰かの声が聞こえてきました。声だけでなく、薄暗くですが人がいるような感じがしました。すると、その人はマルティンに「お前は気づかなかったのか?」と尋ねるのです。マルティンが「誰に?」と尋ねると、「あなたが三度逢った人たちは、わたしだったのです。」という声を聴くのでした。

マルティンは嬉しくなって、また、聖書を読み続けようと先ほど開いた場所を見ると(しおりとは違う処が開かれていました。

そこには、「はっきり言っておく、わたしは兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイによる福音書25章40節)と書いてありました。マルティンは、人の声とそれを裏付けるように開いた聖書箇所を見て、本当にイエス様が来てくださったのだ・・・そのことを理解しました。この話は何を言っているのでしょうか。

それは、マルティンは、イエス様が来ると思ってもてなしの準備をしたことによって、そして、窓の外をずっと見ていたことによって、イエス様を見逃さずに済みました。愛に生きること、他の人を助けることが出来ました。

旧約聖書も新約聖書も実は同じことを言っていまして、旧約聖書ではメシアが来るということを伝えていました。そして、新約聖書ではイエス様が来られたことを伝えると共に、再び来るということが書かれているのです。

旧約聖書の民も新約聖書の民も共に、イエス様が来ることを待つ民なのです。そして、イエス様が来ることを待つこと、それまで、ずっと信仰の火を灯しながら生きることが求められているのです。イエス様の例え話では、一人の人が婚宴に相応しい服を着ていないということで、外に追い出されてしまいました。彼は、何を象徴している人なのかと言いますと、この人は、神の前に相応しい生き方を忘れてしまった人、信仰の火が消えてしまっている人のことなのです。「目を覚ましている人、信仰と愛の火をずっと意識していて灯し続けている人でありなさい」と、主は言っておられます。信仰を所有できるものであれば、それは仕舞っておくことが出来るでしょう。しかし、信仰は所有することが出来ません。灯し続けるものです。そこがとても大事なのです。

マルティンの話の中で、老人がマルティンにこう話しました。

「神さまのために生きだすと、何一つくよくよすることが無くなって、何もかもが楽に思われる。」「信仰」とは「愛」をいつも意識して、灯すように大事に生きる時、生き方が変わり、その生き方が私たちの思いを整えていくのです。断捨離をはるかに超えて整うのです。そして、神さまの声を聴き逃さない人、神さまの声を感じ取れる人、また、神さまの近くにいる人となります。

「信仰」と「愛」は所有するものではありません。

「信仰と愛の炎を灯し続ける自分の姿」を意識して、イエス様を待つ民として歩んでください。