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おはようございます。
コロナウィルスのことがあって、ここ数年、電車に乗ることが、殆どありませんでした。以前は、鈴鹿教会を兼牧していましたので、週一回は特急電車に乗っていました。皆さまも新幹線や特急電車に乗る事あるかと思いますが、〔普通より多くお金を払って指定席に座ると〕ちょっと〔贅沢な感じがして〕自分に対して特別感を感じないでしょうか…。車両に乗り込んで〔チケットを見ながら自分の席を探すと〕その席だけ空いているんですよね。
(当たり前と言えば当たり前なんですが)、そこだけ空いていると「こちらがあなたの席です」と言われているようで、特別な空気に新鮮さを感じます。
しかし、時々、自分が購入した指定席に〔違う人が座っている〕事ってあるんですね。困ったなぁって思います。自分のチケットをしっかり確認してから、その人に「すみません、その席・・・」という風に話しかけますと、その人も自分のチケットを確認され、「あ、間違っていました」となり席を空けてくださいます。空いた席にようやく座るのですが(座ると)「うんうん、これはわたしの席」って思いながらシートをリクラインングさせて、お茶なんか飲みながらゆっくりくつろぎ始めるんです。自分が座ろうとしている席に(つまり自分が対価を払って購入した席に)誰かが座っているとちょっと複雑な気分になりませんか?(わたしだけ?)教会でもだいたいみなさまが座る席って決まっていますよね(特等席)。でも、朝、礼拝に来てそこに誰かが座っていたら「わたしの席…」って、一瞬心によぎりませんか??別に嫌な思いをするわけではありませんが、「“わたしの場所”に座っている・・・」って思い生じますよね。今日の聖書箇所のテーマは、「権威・地位・ポジション」です。
意外に私たちがこだわるところです。わたしは、今日の聖書箇所が与えられ(「権威・地位・ポジション」についてお話ししようと思って)神さまに「皆様に何をお話ししたらいいですか?」と祈りました。すると、ある夜、深夜に目が覚めて(これはいつものこと)、しばらくの間、説教の内容について、色々と思いめぐらせておりましたら、目をつぶった時に星空がイメージとして思い浮かんできたんですね。そして「あなたの心をわたしに明け渡しなさい」とおっしゃっているかのように聞こえてきました(そのような言葉が思い浮かんできました)。「あなたの心をわたしに明け渡しなさい」「受け入れる」と「明け渡す」ってイメージ違いますよね。「神さまを信じる」という時、大事なのは「明け渡す」ということなんですね。「受け入れる」というのは〔人生のハンドル〕を持っているのは「自分」です。一方で「明け渡す」というのは「自動運転装置」を信頼して委ねている感じです。勿論、自分は運転席に座っているしハンドルも握っています。私たち信仰者は信仰を持っていると言っても、自分のハンドルが離せない人(離せない時)ってあるんですね。
「委ねている」といっても、「明け渡す」ことが出来ていない時ってよくあります。「明け渡す」とは、先ほどの列車の話しではないですが、誰かが来て「そこはわたしの席です」と言われて、その人を見るとイエス様だという感じです。そして、イエス様に「ここは私の席なのに、どういうことですか?」と尋ねると、「〔あなた〕が〔わたし〕に〔あなたの席〕を明け渡すことに意味があるのです」とおっしゃっている感じです。「神さまに明け渡す」そこに新しい生き方があるのです。さて、今日の聖書箇所ですが、登場してくる〔祭司長や民の長老たち〕は、イエス様に自分の地位や権威を「受け入れる(明け渡す)」ことができなかった人たち。逆に、〔受け入れるどころか〕地位や権威を奪われそうになって、妬みや嫉妬またプライドからイエス様を殺そうと考える人たちなんです。当時、洗礼者ヨハネ、そして、イエス様の宣教は、大きなムーブメントになっていました。多くの人が洗礼者ヨハネ、また、イエス様の教えに耳を傾けるようになっていました。洗礼者ヨハネにおいては、沢山の人々が「悔い改めて」彼から洗礼を受けていました。
みんな、ヨハネを預言者(神から遣わされた人)と思っていました。
そして、そのヨハネはメシアについて民衆に語り「そのメシアがイエス様だ」と言っていました。また、イエス様にも多くの人が付き従っていました。
イエス様は、ヨハネよりすごくて、病気を癒し、悪霊を追い出し、死人まで蘇らせるという(信じられないような奇跡をいっぱい起こす)お方でした。
イエス様のことも人々は「神から遣わされた人」だと思っていました。
さらにイエス様の教えは特別でした。当時、ラビ(教師・先生)は、権威あるラビによって任命されていたそうで、かつ、当時のラビはいつも「あのラビはこのことをこう教えている」と引用する形で自分の教えを人々に語っていました。しかし、イエス様はどうだったのかと言いますと。
まず、イエス様は権威あるラビによって認められているわけではありませんでした。そして、イエス様は、昔のラビの教えを引用するのではなくて、むしろ「あなたがたが聞いて来た教えは間違っている(それは人間の教えだ)」と言い、神の御心はこうであると「聖書から」語っていました。
時には「隣人を愛せという教え」に対して「敵を愛しなさい」という聖書の戒めの本質まで解き明かすお方でした。しかし、当時の宗教指導者たちは受け入れられなかったんですね。自分の立場がなくなる。自分の教えこそ本当だと思っているので異端のような感じさえしていたと思います。
良い気持ちがしなかったんですね。確かに、日曜日こうして礼拝を守っていますが、わたしが礼拝堂に入ってきますと、他の誰かがそこにいて、みなさまが、その教えに耳を傾けて感動しておられたら、わたしは良い気持ちはしないと思います(本当は謙遜にならないといけないのですが)。同じように、というか、それ以上に、宗教指導者たちはイエス様が気に食わなかったのです。
(本当はニコデモのようにイエス様の教えに耳を傾けるべきでした)。
そして、彼らにとって、赦せない出来事が起こりました。
なんとイエス様は、神殿の境内(異邦人の庭)で商売をしている人たちを追い払い「ここは商売する場所ではなく、人々が祈る場所だ!」と怒りを示されたんです(マタイによる福音書21章1節~)。
さすがに、このことは許せない出来事だったのです。
特に、神殿での色々な既得権益の中で生きていた「大祭司」は激怒しました(怒り心頭状態)。なぜなら、神殿で犠牲の動物を高く売らせたり、交換レートの高い両替を承認することで、ものすごい額のお金を懐に入れていたからです。権威だけでなく、権威があるために得た特権にしがみついていたのが当時の宗教指導者たちでした。イエス様の人気、教えの内容、そして、神殿での行為は、宗教的に権威を持った人(特権を利用していた人)たちを怒らせました。
彼らは、何とかして、イエス様を殺そうと企て始めました。
宗教指導者たちの中でも権威のある人たちは「サンヘドリン」という最高議会を形成していたのですが、そのメンバーがイエス様の所にやって来たのでした。彼らはこう言っていますね(23節)。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」イエス様に対してこのような言葉をかけるって、どこまで〔心の目が塞がれているのか〕と思いませんか。
でも、彼らの心は本当に貧しい状態になっています。
「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」これは尋ねているのではありません。イエス様の言葉の上げ足を取って、自分達がどうにでもできるサンヘドリンという最高議会で死刑にまで持っていこうと企んでの言葉なのです。恐らく、イエス様が「天からの権威だ」と言えば、「神を冒涜している」と言って裁こうとしたと思われます。
しかし、イエス様は、違う形で返されました。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。(マタイによる福音書21章24節~25節)
これは当時の手法(哲学者も用いる手法)で、相手の質問に対して〔逆に質問してあげることで相手自身が答えに到達できるようにする〕手法です。
勿論、イエス様は、今回は〔分からない彼らが答えに到達するように〕考えておられたのではありません。〔答えを知っている彼らが困るように〕質問されたのでした。議員たちもイエス様の言葉に返事をすると自分たちが不利になるのは十分わかっていたようです。こう書かれています。
「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」(マタイによる福音書21章25節~26節)
ヨハネを認めれば、イエス様も認めることになる。ヨハネを認めなければ、ヨハネを預言者と信じている人たちから「神を冒涜している」と言って何をされるかわからない。考えたあげく彼らが答えは「分からない…」でした。
情けないですよね。イエス様は十字架で殺されることが分かっていても神さまのことを最後までお語りになりました。一方で、権威を愛し、特権を享受している彼らは〔自分がどこまでも可愛くて〕命を張ってでも自分の信念を通すということはできませんでした。イエス様はお答えになりました。「
それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」人間って怖いなと思います。特に、自分の権威や特権を誰かに奪われそうになるとみさかいが付かなくなります。これは、私たちみんなが持っているものです(罪の姿です)。特に、良い地位や立場を持てば持つほど(愛すれば愛するほど)嫉妬心も強くなってしまうのです。彼らは、イエス様の権威を感じ取っていました。でも、それを認めることはできませんでした。
イエス様を「受け入れる」ことができなかったんです。
恐らく私たちはイエス様を受け入れています。でも、最初に、「受け入れる」と「明け渡す」は違うとお話ししましたが、イエス様に(神さまに)全てを明け渡せているでしょうか。今日、説教題を「勝手なわたしたち」とさせていただきました。「勝手にする」という言葉がありますが、意味としては「自分の都合の良いように」という意味ですよね。では、なぜ、「勝つ」に「手」と書くのでしょうか?調べてみますと、「勝手」というのは弓道の言葉なんだそうです。弓道で弓を引く時に、左手で弓を押し出し固定し、そして右手は弦つるをその指でひっかけます。弓を押し出す左手を「押手」。弦をひっかけている右手のことを「勝手」と言うそうなんですね。矢を射る時に左手は標的に対して調整していきます。そして、最後、微調整し、精神を研ぎ澄まし、「これでいいか」、「今か」、とか考えます。最後に委ねられているのが右手の指です。
右手(勝手)の指を離しますと、シュッと矢が飛んで行って的を射ます。
この右手を離すタイミングが非常に重要だそうで、神経を使うそうです。
固定された左手ではなく、自由な右手で決まる・・・。「勝手で決まる」。
離すタイミングが、自分の意志(勝手)で決まるということから、「あなたの都合で」という意味となり「勝手にする」という風になったそうです。
でもどうでしょうか、皆さんが人生の一番大事なことが〔1本の矢で決まる〕となればどうしますか?これを外せば命を失うとなればどうでしょうか。
緊張どころじゃないですよね。勝手気ままに打てるわけがありません。
手が震えるかもしれません。指を離せないかも知れません。
ある本を読んでいますと、面白いことが書かれていました。
話が長くなるといけませんので要約してお話ししますが、ある弓の先生に弟子が付きました。その先生はお弟子さんに言うんですね。「あなたが矢を射るのではありません」「ある存在が訪ねてきてそれが矢を射るのです。」
難しい表現ですが、弓道の精神とはそういうものだと言うのです。
よく、スポーツなどで、「力むな。力を抜け」と言いますよね。
意識しすぎると駄目だということだと私は思います。素直に、自分の中にある何かを呼び覚ます、そんな感じかなって私は思います。
“その本では”、弓道においては、外からそれがやってくる・・・という風に書かれていました。そして、「そのことが判ると、わたしはもうあなたの先生でいる必要はなくなります」ともお弟子さんにおっしゃっていました。
つまり、あなたが自分の勝手で矢を射るのではなく、委ねてその存在が矢を射ることがわかれば、あなたは卒業です。という感じです。
このことは、「神に明け渡す」ということと同じだと思いました。
実は、聖書で「罪」という言葉が使われますが、これは「的外れな事」という意味なんです。「罪を犯す」とは「神の意に反して的外れなことをする」という意味でもあります。つまり弓道で言うと「何かの声を聴かず、自分勝手に矢を射ている」というのと同じです。人間の罪というのは、いつも、まっすぐ矢を射るようで、実は、的外れ(全然違う所を)を射ているということなのです。自分の判断だけで行動しようとするので私たちはうまくいかないのです。
そうではなくて、神さまの声を聴いて、矢を射る。神さまに委ねて矢を射る。神さまに明け渡して矢を射ってもらう。ここに信仰者の完成の姿があるのです。神さまの声を聞かず、自分で善悪を判断し、神さまに明け渡さずに生きる…それは、「善悪の知識の木からとって食べて生きる人と同じなのです。」
イエス様はおっしゃいました。子供のように神の国を受け入れなければなりません。覚えていますか〔子供の頃〕。お父さんお母さんが全てを知っている人だと思って何でも言う事を聞いていたのではないでしょうか?でも、大人になると、父母を離れ〔自分で善悪を判断し〕実行するようになります。
〔自分は何でも知っている〕〔自分が偉いように思ってしまう〕〔これはわたしの人生なので私の自由にして何が悪い〕。そう思うようになります。
しかし、聖書は、子供のように、神を受け入れなさい。『そこに命があります』。そう教えているのですね。今日のこの聖書箇所ですが、イエス様は、メシアとしてイスラエルのもとに来られました。しかし、宗教指導者たちはイエス様を排除してしまいました。その結果何が起こったか、彼らが一番大事にしていた神殿が敵に攻められて破壊されるのです。「何の権威でこのようなことをしているのか。誰がその権威を与えたのか。」イエス様がお生まれになった時、み使いがそのご降誕を告げ知らせました。また、イエス様が洗礼を受けられた時、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父の声が聞こえて来ました。また、山上でイエス様が輝かれた時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が再び聞こえてきました。
それだけではありません、悪霊もイエス様が来ると恐れたのです。
これだけの権威ある方が、今日、私のそばに来て、わたしと共に歩もうと言ってくださっているのです。私たちは勝手な存在です。
自分の思い描いた生き方をしたくなる存在です。でも、その生き方は的外れです。聖書は、子供のように神の国を受け入れなさいと教えています。
私たちが神さまを受け入れる時、自分を明け渡すとき、自分の人生もその目的も大きく変えられます。実りある生き方へと変えられていくのです。
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