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おはようございます。最近、物の値段が高くなってきましたね。
ガソリンを入れること良くあるのですが、最近、値段が上がったり下がったりするのが激しくて困ります。少し前は、170円が「高い!」と思っていたら、今は、170円が「安い」って感じます。値段の上がり下がりが激しいので、いつガソリンを入れるのか(今が入れ時かどうかを)考えてしまうんです。
入れた時よりも値段が高くなったのを見れば「安く入れれた♪得した♪」と思って嬉しくなります。と思っていたら、しばらくすると、値段がガクッと下がっていて「もう少し待っていたら良かった」って損した気分になります。
投資家みたいですね。「今日入れようか、もう少し待とうか、少しだけ入れておこうか、満タン入れようか」って、ガソリンごときのことで、“心がそのことばかり考えている自分(思い煩っている自分)”がありました。
聖書にこういう言葉がありますよね。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイによる福音書6章34節)「思い煩う」と大事なことを味わえなくなってしまいます。折角、今日という日を神さまがくださっているのに、神さまの愛を感じず、大したことない事で、“思い煩う”ってもったいないですよね。イエス様は、加えてこうおっしゃっています。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
(マタイによる福音書6章26節)今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。(マタイによる福音書6章30節)イエス様は、「鳥は、種を蒔かず、借り入れもせず、まして、倉に納めなくても生きています。それは“天の神さま”がそれらの鳥をちゃんと養っておられるからです。」なのにあなたがたはどうして「〔無くなってしまう事(そんしたくないということ)〕ばかり想像して不安になっているのですか?「その必要はありませんよ」。そう教えてくださっています。
勿論、「明日どうなるかわからないのが私たちの人生ではないか」そうおっしゃるかも知れません。そのことに関しても、イエス様は、「確かに明日はどうなるかわかりません。」しかし「“明日炉に投げ込まれる”花であっても、天の神さまは、最後まで綺麗に咲くようにしてくださっているじゃないですか?」つまり「最後の日まで神さまの愛はあなたに注がれているのですよ」そうおっしゃっているのです。明日どうなるかは、私たちにはわかりません。
でも、“小さい事”で思い煩うことは、本当にもったいないですよね。
神さまを信頼し、最後まで美しく装ってくださる神さまを意識して「今日をありのままに生きること、それが大切なんです」皆さま、「ふるさと」という童謡、ご存じですよね。「うさぎ追いし、かの山~、小鮒釣りし、かの川~」あの歌って、しんみりしてきますよね。他にも、小学校で歌う童謡もそういった情景を歌う歌があるのですが、情景をそのまま歌っている歌詞って心にしみるんですよね。人間の理屈がほとんど入っていない。だから、いいんです。
心に響くんです。実際に、わたしはしんどくなった時には自然の中に行きます。
そして、ありのままの木々や鳥を見ることが多いです。するとどこか、心が癒されるんですよね。そのままの情景の中にそのままの自分を投影する。
そういう時に心の目が開かれるってことあるんです。
わたしは、イエス様がおっしゃる、「空の鳥を見なさい、野の花をみなさい…。」この言葉は、この世のノイズで頭がいっぱいになっている私たちに、「落ち着いて神のお造りになった自然を眺めて見なさい」という導きでもあると思います。そして「神を信じていたらいいんですよ」それを悟らせるメッセージなんだと思います。「今日という日、深く考えず、神さまがくださった日を大切にし、“ありのままに生きる”このことを忘れないで欲しいと思います。
さて、今日の聖書箇所、イエス様の譬え話はこう始まります。
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。(マタイによる福音書20章1節~7節)
どうしてイエス様がこの譬えをなさったのかと言いますと、これは、弟子たちが『わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。』(マタイによる福音書19章27節)と質問したことから始まっています。イエス様の譬えは、こう続きます。
夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(マタイによる福音書20章8~16節)
イエス様の譬えでは、「夜明けから」働いた人「9時から」「12時から」「3時から」「5時から」雇われ働いた人が登場しますが、終わってみたら、なんと、みんな同じ1デナリオンだったというのです(1デナリオンというのは当時の社会では一般的な一日の賃金)。皆さまどう思われますか?絶対ありえませんよね。勿論、朝から働いていた労働者は主人に不平を言います。
『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
これは、誰だって思う(当然たと思う)ことですよね。確かに、不公平に思える結果が起こっていますが、でも実はここに、公平な神さまの姿が描かれているのです。イエス様がいらっしゃった当時、他国から入ってくる安い労働者によって、雇ってもらえない弱い人(イスラエル人)が沢山増えて来たんです。安い労働力を好み、自国の人を雇わず、能力のある人を雇うようになったために、働くのに問題がある人は糧をえる手段を失い始めていたのです。
葡萄の収穫という忙しい時期であっても、夕方5時になっても、働き口のない人が町にいたのはこのためです。神さまにとっては、皆、同じユダヤ人なんです。平等に扱いたい神さまの姿がここに描かれているのです。
皆さま、「レインマン」という映画ご存じですか?ダスティン・ホフマンとトム・クルーズが共演している映画です。ある時、トム・クルーズが演じるチャーリーが、事業のトラブルが起きて、大きな額のお金に苦慮する事態が起こります。この事業が成功すれば大儲けできる。なのに、ちょっとしたトラブルがあって、窮地に陥ってしまうのです。その時に、若い頃から疎遠になったお父さんが亡くなったことが知らされるのです。お父さんは資産家で、チャーリーは遺産が手に入れば窮地を脱せると思いました。しかし、葬儀に出席したところ「一部しかもらえないこと」を知るのです。財産の殆んどが、誰かわからない人に譲られると遺言書で指示されていたのです。勿論、怒ります。
チャーリーはその人物を探しに行くのですが、その人が住んでいたのは障害者施設だったのです。そして、財産を相続することになっていたのは〔いないと思っていた兄〕だったのです。自分にお兄さんがいたことを初めて知るのでした。そのお兄さんは自閉症(かつ、サヴァン症候群)でお金の観念がない人でした。そんな人が財産をもらうのは納得できないと、彼を拉致して、自分に相続が有利になるように交渉しようとします。そして、答えが引き出せるまで、ずっとその兄と過ごすことになるのですが、兄と過ごしているうちに「なぜ兄が障害者施設に入ることになったのか」を知るのでした。
なんと、それは自分に厳しかった父親の愛情だったのです。
奥さまを亡くし面倒を見れなくなっていた父が「自閉症の兄がチャーリー(当時2歳)に怪我をさせてはいけない」と父親が兄を施設に入れたのでした。
自分のことを大事に思ってくれていた父親のことと、不憫にも豪邸ではなくて、障害者施設で人生を送ることになった兄に心が揺さぶられるのです。
そして、家を飛び出した自分と、自閉症として生まれた兄と比べて、兄に財産の殆どを譲った父の思いに納得するのでした。
話の状況は異なりますが、わたしは、放蕩息子の話(ルカによる福音書15章11節)が思い浮かびました。父親の財産をお金に換え飛び出し無一文になって帰ってきた弟。その弟に対して、「帰って来た、帰って来た」と喜び大宴会をする父。一方で兄に対して宴会などしてくれたことはなかった記憶。
放蕩息子の話では、兄は、弟だけでなく、弟をかわいがる父にも腹を立てるんです。その時、兄に対して父親が言った言葉はこうでした。
『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいるではないか・・・。わたしのものは全部お前のものだ。』『だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。
いなくなっていたのに見つかったのだ。』(ルカによる福音書15章31節)
親の愛というのは、どこまでも平等にしたいんですね。でも、子供からすれば、「なぜ」と不平等に映ることが多いのです。
特に、片方は問題なく過ごすことが出来ていて、片方は辛い生活を強いられてしまっている場合、親は、平等に扱いたくなる…。それが親の愛、そして神の愛です。「お前はずっと私と一緒ではないか」「優遇されていたではないか」「それに比べて、あの子はどれだけ辛い人生を送って来たのか・・・」
なのに、どうして平等に扱ってはいけないのか?これが親の愛だし、神さまの愛なんですよね。全ての人を平等に扱いたいというのが神さまのお姿です。
でも、多く働いた弟子たちがそれだけなの??と思うかも知れません。
しかしイエス様は、弟子たちが質問した時にこうもおっしゃっていました。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。(マタイによる福音書19章28節~29節)
イエス様のこの言葉にも共通しているのは、「多く頑張ったから、多く貰えるはずだ」という損得勘定は神に喜ばれないということです。
そりゃそうですよね。親を一生懸命面倒見ていたんだから、私が財産の多くを相続するのは当然だ。多く相続できると思って世話をしてきたんだって言ったら、天国で親は悲しみますよね。そうではなくて、一生懸命面倒を見て、それが親孝行だし、当然なんですって言う思いが、同じ兄弟からも、天国の親からも、神さまからもお褒めの言葉、豊かな報酬を貰えるということになるのです。イエス様はこうおっしゃっています。『施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。』(マタイによる福音書6章3節)
また『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(ルカによる福音書17章10節)つまり、「当然のことをしようとしただけです」という思いに対して、しかし、あなたは多くのものを犠牲にしましたね。ですので、これだけのものをあなたに与えましょう。
これが神の国なのです。また、聖書に次のような言葉があります。
『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ』(ルカによる福音書16章25節)。
これは金持ちと物乞いのラザロのたとえ話です。ここでも、境遇を憐れみ、平等に扱う神さまの姿が描かれています。わたしは、最後、一人一人の前に(神を第一とした人の前に)箱が置かれているようなものだと思います。
永遠の命プラス一つの箱です。皆さまは、何が入っているかな~って思うでしょうね。わたしも、そう思っています。そこに禁物なのは、わたしは神さまのために「あんなことをした」「こんなこともした」という思いです。
そうではなくて、わたしは、「当然のことをしたまでです」という思い。
ここに「よく耐えました」という報いが与えられるのです。
また、「あなたを早く知る事ができてよかったです」。
「わたしは、あなた共にずっと人生を歩めて他の人より幸せでした。
それで十分です」という思いも大切だと思います。さらに、健康に生まれず、また、自閉症のようなものを持って生まれてくる人、また、病弱に生まれてくる人、さらには、親や社会に苦しめられる人…。それらの人にも、最後には、神さまは平等に扱ってくださり「頑張った」と多くのものをくださるでしょう。
父である神さまの前に、全ての人は平等です。どこまでも平等にしたいお方である神は、その苦しみに応じて報いを与えられます。
神さまはどこまでも平等にしたいと思われるお方である。
このことを今日覚えてください。
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