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おはようございます。
どんな組織やグループ(コミュニティ)にも困った人、難儀な人って必ずいますよね。〔自己中心的〕であったり、〔自分が得することばかり考える〕人いますよね。また、〔偉そうにする人〕、〔横柄な人〕、〔人を支配下に置きたがる人〕。そのような人は組織やグループには必ずいて、全体の空気を読まず、和を乱します。そういう人がいると、みんなその人のことを我慢しなくてはならなくなってしまいます。自分に直接被害が及ばなければ〔まだ〕いいのですが、被害が及ぶようになる困ったことになります。「はっきりと言う」ことができれば一番かと思いますが現実の世界ではそうはいきません。
「我慢する」ことが多いのですが、私たちクリスチャンは「祈る」ということが出来ます。むしろその方が力となります。さて、今日の聖書箇所のテーマは「赦し」です。ペトロは『兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』と言っていますが、これは先ほどお話ししたように、組織やグループの一員であれば、そんな風に思うことあるかと思います。そこで今日は「赦す」とはどういう事かを聖書の視点で考えて見たいと思います。イエス様の教えは〔時に〕当時の人たちには「突拍子もなく感じる」事がありました。例えば「敵を愛しなさい」というのもそうです。
これまで「隣人を愛すること」を教えられてきた人々に対してイエス様は「敵をも愛しなさい」とおっしゃるのです。当時彼らが考えていた〔隣人〕と言えば〔同胞つまりイスラエルの民のこと〕でした。
ですので、イエス様が「敵をも愛しなさい」とおっしゃるときには、組織や国の境もなく、全ての人を愛するということであり、さらには、自分に対して危害を加える人も愛さなくてはならなくなります。
さらにイエス様は、「右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい」とおっしゃるのですから、初めて聞いた人はびっくりしたと思います。
実行できない、納得できない教えに聞こえたと思います。
私たちもこのイエス様の教えは、「崇高すぎて絶対無理」、「なんでそんなことをしないといけないのか」と感じると思います。でも、それを実践した人を見た時には、イエス様って本当に素晴らしい生き方、こんな人だったんだなぁって感じる生き方に見えるのです。ところで、敵をも愛しなさいというのは、「嫌いな子にも親切にしなさい」という感じの言葉です。
ですので、「敵を愛しなさい」というのは、「仲良くなれ」ということではありません。「あの人は嫌いだ」、「〔私にあんなことをした〕あの人は赦せない」…そういった奥底の気持ちの問題はそのままで良いということです。神の前に共に生かされている存在であることを認め、怒らず、寛容にし、親切にし、呪わず、祝福を祈る。それが愛するということになります。
さて、今日の聖書箇所ですが、「愛する」ことに近い「赦す」ことについて教えています。この教えも「ハードルが高すぎる」って感じる教えです。
しかし難しいのですがステップを踏んでいくと「心が晴れ晴れと解放されたような状態」になることは事実です。さて、聖書の話に戻ります。
誰もが経験する「どれだけ我慢し続けなくてはならないのか」ということですが、イエス様はペトロに『七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』とおっしゃっています。ここでイエス様がおっしゃりたいのは、「赦す」というのは「回数じゃない」ということなんです。回数が頭に思い浮かぶ間は違うんです。〔神さまに似せて造られた私たちの〕心の中にある「憐れみの心」に注目することが必要なのですね。回数にこだわるペトロにイエス様は続けて譬え話をなさいます。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。(マタイによる福音書18章23節~27節)
ここでイエス様がおっしゃっていることで注目したいのは「罪」とは「負債(借金)」に例えられていることです。しかも、私たちは神さまに対してとんでもない負債を抱えている存在であるというのです。
皆さまは神さまに多くの負債を抱えているって実感できますか?
私たちは、罪と言えば、誰かに対して悪いことをした(法に触れるような、社会的に認められない悪いことをした)という風に考えがちです。
また、〔神さまに対しては〕〔遠いお方なので〕さほど何もしていないと考えがちです。しかし、その認識は間違っています。例えば、聖書でカインがアベルを殺した出来事が記されていますが、神さまは直接的には被害を受けていません。でも、カインはアダムとエバではなくて神さまとその罪について対話をしています。また、放蕩息子の話しで、放蕩の限りを尽くした弟がこう言った言葉、覚えていらっしゃいますか?『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』(ルカによる福音書15章21節)ここで、「天に対しても罪を犯した」そう言っています。勿論、これは、父母を敬えという教えに背いたということではあるのですがそれだけではなくて、神が求められている生き方に反した生き方をしました。という意味でもあるのです。つまり、神が求められている生き方をしない時は、それは神さまに対する罪なのです。
近隣の独裁国家のことを想像してください。国民どころか、側近の人もその国のトップの人(大統領・書記長・国家主席)に簡単に粛清されていますよね(殺されていますよね)。トップの人が気に食わないと裁かれます。
簡単に言えば「おれが法律だ」という感じです。そのような国に生まれると大変です。でも、これは日本でも昔お殿様の機嫌を損なえばどうなるか分かりませんでしたし、ヨーロッパでもどこの国でもそうですが、王様の気持ちを損ねたら終わりでした。それが、昔からの支配者と民との関係なのですね。
勿論、神さまはそのようなお方ではありませんが、神さまがこの世界をお造りになり、ご自身に似せて人をお造りになったことによって、神さまは、私たちに隣人を愛するように、正しく生きるように、また、造り主である神との関係を正しく持つように望まれているわけです。(勿論、他にも沢山あります)。
それが出来ていない時、それら全てが神さまの前に罪なのです。
勿論、私たちは、日々、そのような神の子として相応しい生き方が出来ていません。ですので、神さまの目にはそれが罪としてカウントされ続けているのです。聖書では、世の終わりの時に「人は皆それぞれの行いによって裁かれる」と書かれています。私たちは世の終わりの時に(つまり、神が決算をしようとした時に)、私たちは神の前に立たされて、どのように生きて来たかを問われます。生きていた時に相応しくなかった行動が全て負債として告げられ、清算を求められる…これが聖書の教えです。そして、イエス様の譬えを見ると、この時にどれだけの負債になっているのかが人間なのと言いますと、それが、1万タラントンにも及ぶということなんです(ちなみに一万タラントンと言えば、年収六百万円の人で10万年分にあたる賃金です)。絶対に返せません。
返せますか?申し開きできますか?絶対にできませんよね。
神さまは、その大きな負債を赦してくださいました。
愛する御子イエス・キリストを十字架にかけることで、全て「赦します」とおっしゃってくださったのです。これが人を「赦す」時の前提となります。
さて、イエス様の譬えに登場する家来。彼は、長年積み重ねてきた大きな負債に対して返すすべは持っていませんでした。彼は『どうか待ってください。
きっと全部お返しします』と王に懇願します。
すると王は、彼を憐れに思い、その借金を全部赦してやるのでした。
しかし、イエス様の譬えは続きます。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。最低な家来ですよね。ただ、これが私たちの内に潜む罪人としての姿なのは事実です。ちなみに百デナリオンというのは、百日分の賃金です。一日を5千円とすれば、百デナリオンというのは、50万円くらいです。
ちなみに、一万タラントンは同じ計算では三千億円です。
50万円と三千億円は大きな違いがありますよね。勿論、イエス様の譬えから「額の違い」というのが見えてきますが、「額の違いだけではなく」て、「一過性のような負債」と、「長年かけて貯めこんできた負債」の違いというのもあるのです。何度も何度も負債をため込んできた家来は、全ての額を赦されただけではなくて、本当は、つもりつもった負債が赦されたことを知る必要があったのです。私たちも同じなのですね。何度も何度も罪を犯し、負債を増やし続ける私たちを神はゆるしてくださっているのです。
さて百デナリオンを貸した仲間を見つけ、返せない仲間を赦さず、そして、牢に入れてしまったこの家来ですが、この後こう続きます。
仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。赦してもらえなかった家来の姿を見て、「同じ仲間は非常に心を痛めた」…。そう続くのでした。そして、王もそのことに(恐らく心を痛め)怒り、彼を再び返済するように牢獄へと連れていかせるのでした。王の意に添わなかったからです。ここで、王が言っていることが印象的です。
『わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』ここで、「赦す」ということが「相手を憐れんで解放する」ということであることがわかります。相手の人としての存在を尊ぶということです。私たちは、「赦す」というと、自分の気持ちのわだかまりが消え、相手と仲良くなるまでに至ることを「赦す」と考えがちです。
しかし、「敵を愛する」ことが仲良くなるのではなく、神の子として誠実に向き合うのと同じ様に「赦す」というのも基本的には、仲良くなるというよりは、許しを求める相手に対して「相手を憐れに思って負い目から解放したか」どうかがポイントになってきます。でもよく読むと、イエス様の譬えられた家来、最後は、とんでもないことになっています。なぜなら、一度は「赦す」と言った王が、「やはり赦さない」と考え方を変えているからです。
「え、そんなことあり?」と思いませんか。神さまはそのような方ではありませんが、実際の権威者というのはそのようにしても良いのです。
イエス様は、おっしゃいました。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
このイエス様の言葉は、神の言葉として厳粛に受け止めるべきだと思います。神の前に造られた存在として厳粛に受け止める必要があります。
「赦す」というのは、あり方としては「憐れむ」という事なのですが、その前に、「赦さないあなたは赦されない」という神さまの言葉を心にとめておく必要があるかと思います。どんな組織やグループにも困った人、難儀な人って必ずいます。その人がこの譬えにあるように「謝ってくれる」のであれば「赦せるかも知れません」。しかし、多くの場合、そのようなことはなく、一方的に我慢することの方が多いです。また、今はすでに目の前にはいない過去の人によって苦しめられた記憶に苦しめられていることもあるかと思います。
「赦す」とは相手を解放することだとお伝えしました。
もう一つ〔これは聖書に書かれていることではありませんが〕「赦さないと考え、怒りや憎しみにしがみついているとき、実は、自分が囚われの身と同じ状態になっているのです。それは自分のせいではありません。
過去に自分を苦しめた人のせいで「わたしが」囚われているのです。
そこで、大事になってくるのは、その状態から「わたし」が解き放たれなければと願うことです。過去の傷を手放すことを目標とするのです。
自分の心を(魂を)癒す(回復する)ために、相手を解放する(自分が解放される)…このことも大切になってきます。このことに関しては一般書籍をご覧ください。また、これも聖書の教えからお話ししているのではありませんが、現在、その人に苦しめられ、精神的に参ってしまう時には、「許し」を考えるまえに、その人から離れることを考えてください。
今日は「赦し」ということについて聖書を読みましたが、イエス様は、まず私たちは神さまの前に大きな負債を追っていることを知りなさいとおっしゃっています。それを父なる神さまは憐れみ「もういいですよ」って解放してくださっていることを知りなさいとおっしゃっています。
しかも、イエス様ご自身が私たちの罪の赦しを与えるために十字架にかかってくださったのでした。イエス様は人々に鞭打たれ、つばはきかけられ、なぐられ、罵倒され、ののしられ、愛想つかされ、そして、人間の手によって罪人として十字架につけられたんです。私たちだったら、そんなことされたら絶対に赦すことなんかできない行為です。支配者なら死刑にしたいところです。
しかし、イエス様は、神の前に人として「彼らを赦してください、何をしているのかわからないのです」ととりなしをなさいました。
赦してくださいと願わない人に対してです。これが本当の赦しなのです。
真の愛を持つイエス様が、本当の赦しを見せてくださったのです。
私たちは、神さまにこうして赦されていますが、実は、組織、グループの中で問題のある人とはレベルが違いますが「わたしも赦されている(我慢してもらっている)」というのも事実なんですね。ですので、小さいことは「赦せる人」になることに頑張りましょう。そうすると心は晴れてきますよ。
また、神さまに祈りましょう。自分が解放されるように、愛せる人になるように祈りましょう。これが健全な生き方へと繋がっていくことに間違はありません。過去のことで色々と苦しんでいる方いらっしゃるかと思います。
耐えるあなた、赦そうと頑張るあなたを神さまはじっとみてくださっています。天において「よく頑張りました」とお褒めいただけるのは事実です。
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