宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
タイによる福音書16章21節~28節
コリント人への手紙Ⅰ1章 18節~25節
創世記 3章 1節~10節

 「神の思いと悪魔の声」

説教者  江利口 功 牧師

  小学生のころ、私は祖父母の家の近くに住んでいたので、一人で祖父母の家に行くことがよくありました。ただ、祖父母の家に行っても、小学生とおばあちゃんですので対した会話もありません。静かな部屋で「カチッカチッカチッ」という振り子時計の音だけが聞こえてくる…そんな空間でした。

後で聞いたら、私の兄や姉も祖父母の家の思い出と言えば、柱時計の「カチッカチッカチッ」という音と、時間ごとになる「ボーンボーンボーン」という柱時計の音だと言っていました。祖父母の家の夜は大抵“時代劇”を見る事になるんです。その頃の私にとっては〔ちょんまげ〕とか〔着物〕は古臭くて、「時代劇」は面白くありませんでした。「退屈やなぁ」って思いながら見ていました。当時の有名な「時代劇」と言えば「暴れん坊将軍」「遠山の金さん」「水戸黄門」だと思います。登場人物は変わっても、中身はそんなに変わらないんです。いわゆる「勧善懲悪」です。設定としてはまず、将軍さんやお奉行さんと云った「権力」を持った人が庶民と一緒に生活しているんです。

そしてどこにでも悪い奴がいますが、その悪事が主役の耳に入ってきます。

そして、悪いことをする人たちを少し痛めつけながら、最後に「権力」を見せつけて観念させる…。これが共通したストーリーでした。

この「勧善懲悪」が見ていて気持ちいいのだと思います。

ところで「水戸黄門」と言えば〔助さん格さん〕かと思います。

格好いいですよね。言葉も態度も大人で頼りになるお供って感じです。

憧れます。私は、お二人が歌う「人生楽ありゃ苦もあるさ~」と始まるオープニングの曲が大好きで、今聞いても「頑張ろ」って思えます。

「涙の後には虹も出る」とか「くじけりゃ誰かが先に行く」とか叱咤激励の言葉は今の時代には〔流行らない〕かも知れませんが、結構、良いこと言っているんですよね。その「水戸黄門」ですが〔頼りになるお供〕とは違って「うっかり八兵衛」という、ちょっと〔おっちょこちょいなお付き人〕がいるんです。〔うっかりした言動〕が多いので、そう呼ばれるそうです。

私はペトロってイエス様の弟子でありながら、ちょっと「うっかり八兵衛」みたいな処があるなぁって思っていました。〔湖の上を歩いた〕と思えば〔沈んで〕「助けて~」って言うし、「あなたの為なら死も覚悟しています」って言ったかと思えば、「あの人のことは知らない」と三度言ってしまう弱さを持っています。他にも足を洗うイエス様に「手も頭も」と言ったり、イエス様とモーセとエリアを見た時に「仮小屋を3つ建てましょう」と〔とんちんかん〕なことを言ってしまうのもペトロです。そんな風にペトロのイメージを持っていたのですが、今日の聖書箇所を準備しながらペトロの人物像を追っていくとペトロの人物像が少し変わりました。ペトロは漁師の網を捨ててイエス様に本当に自分の人生をかけた人でした。そして、いつも弟子らしく振舞おうと頑張っていたのがペトロなんです。それが今日の出来事からもわかります。

さて今日の聖書箇所ですが、今日の聖書箇所は、こう始まります。

このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。(マタイによる福音書16章21節)これは弟子達にとって驚く発言だったと思います。

最初に、三つの「時代劇」のことを言いましたが「暴れん坊将軍」「水戸黄門」「遠山の金さん」それぞれに共通したことは「勧善懲悪」でした。

しかもそれは「権威・権力のある方」による勧善懲悪でした。

「暴れん坊将軍」は将軍様、「水戸黄門」はご老公様、「遠山の金さん」はお奉行様という設定になっています。その権威・権力を持つ人が、見えないところで好き放題している人たち(つまりあくどい人たち)を成敗するから(ぎゃふんと言わせるから)みんなが(番組を)見るわけです。悪に勝てる最後の頼みの綱は権威のある人しかいないんです。なのに、その「時代劇」の筋書きが、いつも悪い奴らにボコボコにされて医者に診てもらって終わるお殿様だったら誰も見ませんよね。最後に悪に勝てるのは、「権威・権力者」しかいないのです。しかし、その「権威・権力者」が悪いことをしている場合はどうでしょうか…。お分かりだと思いますが、神しかこの世を変えることができないのです。だからいつの時代もみんな神さまに期待しているのです。

しかし、イエス様がおっしゃった言葉は何か…。それは、わたしは権力者に殺されなければならない…そういう言葉だったのです。弟子たちは、期待していただけに動揺したのではないか…わたしはそう思います。

そこで、ペトロはイエス様をわきへお連れしていさめました。

「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

この前は、イエス様に褒められたペトロですが、今回は、イエス様に厳しく言われてしまいます。しかも『サタン、引き下がれ』とまで言われてしまうのです。なぜ、ペトロの言葉にイエス様はそこまで反応されたのでしょうか。

このペトロの言葉は少し説明しなくてはなりません。

原文のギリシャ語と比べるとこの聖書の日本語訳は〔ちょっと頑張った“意訳”〕なんです。このペトロの言葉(訳)は、旧約聖書で使われてきた言い回しを加味して訳された言葉なのです(意訳)。ですので、もともとの言葉をそのまま知っておくのも必要かなと思います。もともとの言葉については新改訳聖書の翻訳を見るとわかります。ペトロはこう言っています。

「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」(新改訳聖書第3版)こう聞くと普通に聞こえます。

このペトロの言葉は、その「あなたはメシアです」という告白の延長線上にあるのがわかります。つまり、「あなたはメシアですから、神が見捨てるはずはありません」と肯定的な思いで言っているのがわかります。

しかしここにもう一つの思いが隠されています。だから、そうならないように戦いましょうという思いです。恐らく、ペトロの伝えたかった事はこうだったと思います。主よ。あなたは神の子ではないですか。そのあなたが殺されるようなことがあるはずは絶対にありません。そのようなメシアを、一体、誰が信じると言うのですか?勝利してください(私も一緒に戦いますから)。ペトロにあったのはイエス様に対する期待と憧れだと思います。

もちろん、群衆もそう期待していたことを知っていました。

勝利のメシア、突き進んでいくメシア、多くの人々がイエス様に付き従っていく姿、イスラエルがローマから独立し、大きな国家となっていく姿…。

それこそがペトロが思うメシアの姿であり、みんなが待ち望むメシアの姿だったわけです。そのためには「時代劇のような」強い方が必要なのです。

それだけに、みんなの期待に答えて言って欲しい。期待に答えましょう!そんな熱意があったのではないか…。わたしはそう思うのです。

ただ、その応答に対して、イエス様は厳しくお答えになります。

『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』これを言われたペトロはびっくりしただろうなと思います。恐らくそれを言うペトロの顔つきが「憑りつかれているのではないか?」と思われるほどの顔(真剣さ)だったのだと思います。

でも、そこにサタンが働いて、ペトロの心を支配していたのです。

私たちは「正解」を求めて行動します。しかし「正解」って案外自分が思うところ、願うところが色濃く表れ、神の思いに逆らうことがあるのです。

しかし、間違っているときは、結果としてよくないことを引き出してしまいます。そしてそのことが全体に影響することがあるのです。

皆さまご存じの創世記の話ですが、エデンの園で最初に食べてはならない木から取って食べたのはエバでした。悪魔にそそのかされたエバは、アダムにも渡しました。その時の会話は書かれていませんが大事なポイントは、自分だけでなく神の祝福をアダムから、そして、全ての人々(私たち)からも奪ったということではないでしょうか。エバの一つの“誘い”が全ての人から神の祝福を奪ったのです。〔マルタとマリアの話〕もそうですよね。

マルタはマリアが「手伝うのが当然だ」という思いで一杯になり、マリアからイエス様のそばにいる祝福を取り上げようとしたのです。

しかし、イエス様がいらっしゃったのでそれが守られました。

イエス様の足に香油を塗ったマリアに対して「もったいない。そのお金があればもっと施しができる」と言った弟子達の言葉も良く似ています。

神さまは人を祝福しようとされます。しかし、悪魔は神のその思いを打ち消すために人に巧みに声をかけてくるのです。そして用いるのです。

エデンの園でもそうでしたし、イエス様の十字架による贖いという大きな神の愛に対してもそうしようとしたのです。パウロはコリントの教会に向けて次のような手紙を書いています。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(コリントの信徒への手紙Ⅰ1章18節)ペトロはイエス様の受難を「そんなことがあってはいけません」と言いました。愚かに見えたのです。ありえない。望まれていないそのような思いからでた言葉でした。しかし、パウロはそれこそが神の知恵であり神の力だと言うのです。イエス様も弟子達にこうおっしゃいました。

『誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために命を失う者は、それを見いだすのです』この〔格好良くなく〕〔愚かな生き方〕に命があるとイエス様はおっしゃるのです。

イエス様の言葉には、逆説的な言葉が多いんですよね。それは、私たちが生きる世界の論理は、神さまの思いと正反対であることが多いからです。

ある哲学者の方がこうおっしゃっていました。「いと高き方の声を聴こうと思えば身を低くしなければならない」。高慢な時は人は神の声を聴いているようで聞いていません。聞こえないのです。満たされている時は満たされていることが分からず、満たされなくなった時に満たされていた時のことに気づくものです。つまり、不幸が幸福を気づかせるのです。また、こんな風にもおっしゃっていました。「自分だけが幸せになろうと思う者は幸せになれない。

相手を幸せにしようと生きればあなたも幸せになる…」なるほどなと思いました。悪魔の声は私たちを違う方へ導いていきます。それは、神さまからの祝福を奪い、時には、周りの人からも神さまの祝福を奪うためです。

そのようなことから逃れる方法は、180度違う選択をしてみることです。

ある牧師が次のようにおっしゃっていました。「(霊的に)重要な選択をする時には自分が望まない方を選択する。」この言葉はとても含蓄のある言葉だと思います。自分が全体のために何かを選択する時には、自分の「こうしたい」という思いに潜む、悪魔の声を探してみる必要があるのです。

私は今の世界を見ていて、特に、最近の世界情勢を見ていて、世界がどんどん破滅に向かって進んでいるなって思います。上に立つ賢い人たちは気づかないのかな、いや、気づいている人の言葉が溢れているのにどうして届かないのかな?そんな風に感じます。でもこれが罪人の群れ行動なんですね。

この前読んだ本に面白いことが書かれていました。「群れはなぜ同じ方向を目指すのか」という本だったのですが、魚とか鳥とかバッタとか群れになって行動しますよね。時にはVの字になって飛んでいたり、綺麗な群れの形で泳いだり、また時には、恐ろしいくらい大群になって動きます。

何でそんな風に動くのか…。その本によりますと、どうも、群れになろうと思って行動しているのではないそうです。レイノルズという人があるシミュレーションのプログラムを公開しました(BOID)。それは鳥の群れを模したものです。画面(映像)を見ると、鳥に模した三角形が綺麗に群れをなして飛んでいるように見えるんです。邪魔なものを置いてもそれを回避するようにバラバラになり、また群れをなす…。そんな映像でした。それを見て人は、鳥が群れを成して飛んでいるように見えたので感動したそうです。

そして、どんなプログラムかなと思ったら単純でした。

ある一定の距離を保ちつつ「お互いが衝突するのを避ける。」、「自分の周りの動きに合わせて自分の動く方向を調整する。」「群れの位置を平均してその方向へ向かって行く。」それだけを命じた単純なプログラムだったんです。

でも、それが、鳥が綺麗に群れをなして飛んでいるように見えるのです。

ある一定の“本能”それが群れを造り動かしているとのことです。

つまり、何となく群れて一定の方向へ飛んでいくのです。

しかし、そのように群れで動く時に一つ大きな危険が潜んでいます。

それは、群れが滅びに向えば全体が滅びるということです。

イエス様はおっしゃいました。『狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。』(マタイによる福音書7章13節~14節)この世界は、大きな群れの動きとして滅びに向かっています。今こそ、聖書の逆説的な教え、そして、イエス様の愛を通して目覚めて、その群れから離れてもらう必要があります。

色々な人が、この人間の群れの行きつく先がおかしいと気づき始めています。今こそ、私たちが何を発信するのかが問われる時なのだと思います。

最後にペトロのことをお話しします。ペトロは「うっかり八兵衛」ではありません。ペトロは、誠実に生きようとした素晴らしい信仰者でした。

イエス様のために網をすて、必要なら剣を抜く人でもありました。

そんなペトロは無力であることを学ばされていきます。なぜなら、弱くなって初めて、信仰者は本当の強さ、本当の影響力を持つからです。

私たちはイエス様に付き従っていると言っても、「助さん格さん」のような格好いいお供にはなりません。ありえないのです。なぜなら、いつも強いサタンの声に翻弄されているからです。でもペトロは『イエス様のために命を失っても良い』と思う人でした。そのような意味で私たち信仰者の模範なのです。

是非、皆さまもペトロのように自分を捨ててイエス様について行く者となってください。すると周りの人も神さまの祝福に包まれます。