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昔の話ですが、アメリカのテネシー州で、一軒の家が火事になりました。
家の持ち主は消防署に連絡し、しばらくして、消防隊員が駆けつけてくれました。さあ、これから火を消してくれる…と思ったら、なんと、消防隊員は、燃えているその人の家は消さず、燃え移った隣の家を消し始めたんです。
「何でかな」と思いますよね。実はですね、この家の主人が〔市の公共サービス〕を受けるための税金を〔ずっと納めていなかった〕んです。
だから消火してもらえなかったんです。家の主人は「当然消してくれる」と思っていたでしょう。でも、消防隊員は上からの指示で消せなかったそうです。この家の主人は「お金をいくらでも払うから消してくれ!」と懇願したそうです。でも駄目でした。その家の主人は、自分の家が焼け崩れていくのを見守るしかなかったそうです。人のために消火するのが仕事なのに、聞いてびっくりしませんか。さすがアメリカって感じですね。
*実は消防隊員は隣の家の人の緊急連絡で駆け付けたそうです。
どうですか、もし、皆さまの家が火事になって、消防隊員が駆けつけてくれたと。でも自分の家の火を消さずに〔一生懸命〕隣の家を消火していたら…。
消防隊員ですから消してくれるのが当然なはずです。
それでも消そうとしなかったらどうしますか?怒りますか?
それとも懇願しますか?ところで、ちょっと考えてみて欲しいのですが、先ほどのテネシー州での話。火を消してもらった家の人にとっては、「さすが消防士さん」って感じだと思います。でも、〔消してもらえなかった家の人〕にとってはどうでしょうか?〔火を消さない消防隊員〕は消防隊員なんでしょうか。このことを神さまと私たちとの関係で考えて見て欲しいのです。
神さまが火を消してくれない…そんな近いことを経験することないでしょうか。沈黙している神さま、祈りに答えてくださらない神さま…
そんな神さまに思えること良くあるかと思います。
しかし・・・私たちが求めているものを与えてくださるから神さまなのではなく、神さまだから私たちが求めているものを与えてくださるのです。
ちょっと、“言葉遊び”のような感じがしますが、ここが重要なのです。
このことを踏まえて今日のお話をしたいと思います。
さて、今日の話ですが、舞台は、シドン、ティルスという町がある地域です(これは地中海沿岸の町で貿易の盛んな港町です)。また、このシドン、ティルスという地域は、イスラエルの人達にとっては、異邦人の土地、つまり、外国人の土地になります。さらには、異教の神(偶像の神)が祭られ拝まれている地域になります。ですので、その地域にはあまりイエス様は行かれなかったんですね。その異国の土地にイエス様は弟子達と一緒に向かわれたんです。
恐らくイエス様のことはあまり有名になっていないと思われます。
しかし、そこに、イエス様のことを聞きつけた一人の女性がやってきたんです。イエス様のところにやって来た女性はこう叫びます。
『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』この女性の娘が重い病気だったんですね。
恐らく、高熱か何かで〔うなされていて〕手の施しようのない末期の状態だったんでしょうね。もしかしたら、半狂乱になったように苦しみ悶えていたのかも知れません。薬も効かなかったでしょうし、宗教的な「まじない」も効果はなかったでしょう。この女性はイエス様の存在を知り、イエス様のところに来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と懇願するんです。しかし、イエス様は反応なさらなかったんです。私は「娘を憐れんでください」と言わず、『わたしを憐れんでください』と叫ぶ女性の言葉に、親として必死の姿(娘が苦しむ姿を見て心が張り裂けそうな状態である母親の姿)が描かれていると思います。
そして、すがる思いで走り寄って来た母親の姿が想像できます。
「何だってします!」って感じだったでしょう。
なのに、イエス様は、彼女を無視するかのように振る舞われたんですね。
あまりにも、憐れなお母さんの姿を見て、弟子達でさえ、『この女を追い払ってください(ユダヤ人ではなかったのでこのような表現になったと思われます)。叫びながらついて来ますので。』と言っています。
もちろん、この弟子達の言葉の意味は、「どうぞ彼女の願いを聞いてやってください。そして、家に帰らせてあげてください」という意味です。
弟子達でさえ、憐れに思う状況なのに、イエス様は、何もなさらないんですね。そして、イエス様は、こうおっしゃいます。
「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」これは、「ユダヤ人以外は癒さない」と言っているかのように聞こえます。
私は、今回、この箇所の説教を祈りながら準備していて示されたのが、「放蕩息子」の話でした。皆さまも、「放蕩息子」というイエス様の譬え話を良くご存じかと思います(ルカによる福音書15章11節~)。
ある時、弟がお父さんの財産をもらい、全部をお金に変えて家を出て行ってしまいます。そして、出て行った先で、そのお金を全部使い果たしてしまいました。最後には豚の世話をする仕事をするようになり、その貧しさは、豚の餌でもいいから食べて腹を満たしたいと思うまでに至ったとあります。
一番、最低の状態になったということです。
この、イエス様の譬え話しに登場する「弟」。この弟はある時「父の家に帰ろう」、そして、「子どもではなく、僕の身分でもいいから、もう一度、家に入れてもらおう…。」そう思って帰るんですね。そして、トボトボと家に向かっていくと、何と、お父さんが息子を見つけて走り寄ってくるんです。
そして、彼を抱擁し、服を着替えさせ、指輪をはめさせ(これは子のしるし)、祝宴を開いたというのです。このイエス様の譬え話…、これは「〔神のもとに帰ってくる人〕を喜んで迎え入れてくださる」という神さまの愛(神さまの大きな懐)、それを描いた美しい話です。なのにどうでしょうか、今日のカナンの女に対してのイエス様の姿…。火を消してくれると思って期待したのに火を消してくれなかった消防士さんと似ていませんか?
譬えを話されたイエス様とは思えない感じがしないのではないでしょうか?
イエス様の噂を聞いて、この人ならば(この人の力なら)娘は治る!そう期待して、すがるような思いでこの女性は走り寄って来たはずです。
なのに、この女性は、イエス様の沈黙(無視)を体験するのです。
遠藤周作さんが書いた小説に「沈黙」というのがあります。
一度は、読まれたことあるかと思いますが、この小説は「一番助けて欲しいと願った時に神さまは何もしてくれない…。」この誰もが経験する出来事に焦点を当てた小説です。「神が何も言ってくださらない」ということを私たちはよく経験します。しかし、「沈黙」には簡単には二つあって、一つは、「無関心」の沈黙です。マザーテレサの言葉だったと思いますが、愛の反対は「憎しみ」ではなく「無関心」であると言ったそうですが、人間にとって一番恐ろしいのは、「無関心」なんですね。神さまが、人間に対して無関心となられる…これは、神が怒られるよりも人間にとっては恐ろしいことなのです。
勿論、神さまは人間に無関心なのではありません。
罪人である人間に対しても、どこまでも関わろうとされるのが神さまです。
愛の神さまはご性質上、無関心でいられないお方なのです。
ここで、私たちが信仰を持つうえで重要になってくるのが先ほどの言葉「私たちが求めているものを与えてくださるから神さまなのではなく、神さまだから私たちが求めているものを与えてくださる」のです。
私は最初にこのことを申しましたが、ここに神さまの愛の沈黙があるのです。神さまは、私たちに一番必要なものを与えてくださる神です。
私たちにとって良い物を与えてくださるのが神さまです。これは事実です。
しかし、神さまは、願い事を聞くことによって神になろうとされているのではなくて、神さまとして必要なものを与えようとされるのです。
神の裁き(怒り・沈黙)というのは、私たちを恵みの「み座」に迎えるための「本来の神さまとは異なる業」なのです。これを別の言い方をすると、「慈悲の沈黙(怒り・裁き)」ということもできます。
神が厳しい罰のようなものを与えるのは、(もしくは、じっと黙っておられるのは)それもまた、神の愛(慈悲)であり、私たちが謙遜に、また、幸せに、また、恵みの中で生きる存在となるためなのです。さて、今日の女性とのやりとり…放蕩息子の譬え話とは180度違うイエス様の姿なのですが、このやりとりもまた、彼女にとって大事なやりとりだったのです。
この点では、消防士の話しとは全然違うのです。実は、この女性は、異邦人の土地(異なる神を拝む地域)で生まれ育ったカナン人だったのです。
(マルコによる福音書ではギリシア人と書かれています)。
ですので服装も顔つきも違っていたと思われます。そして言葉に訛りもあったでしょう。見るからに外国人なのですよ。その彼女にイエス様はこうおっしゃっています。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」そうなんです。神さまは、アブラハムに対してなされた祝福の約束(契約と言いますが)その約束を実現するために、お生まれになったのです。神さまは、まず、イスラエルの人たちに聖書の約束通り「メシア」として現れ、そして、全世界の人に対しての神となろうとされていたんです…これが聖書に記された神のご計画でした。
イスラエルの民から全世界に神の栄光が広がっていく・・・これがご計画でした。でも、そう聞きますと、「神さまなのに差別じゃないのか?」と思われるかも知れませんが、ちょっと考えてみて欲しいのです。
ユダヤ人は今も安息日を守ったり、祭りや儀式を大切に守り実行しています。今の時代でも正統派のユダヤ人は多くの律法を守り続けています。
イエス様の時代では、さらに律法を事細かく解釈して、神さまの教えを真剣に守っていたのです。義しい人になるために必死です。“私たちの目には”肩身の狭いような生き方をずっとしていましたし、ずっと、メシアを待ち続けていたのです。優遇された民族という見方もできますが、多くの試練と共に霊的にずっと神さまと繋がっていた民族なのです。
だから、「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」というイエス様の言葉は当然であり、それは「わたしは花嫁の所に来た花婿なのです」という言葉で言いかえることができます。私たちとユダヤ人は違うのです。しかし、この言葉に一つ神さまの悲しみが言い表されていまして、それが、『失われた羊のところに遣わされた』という言葉に秘められています。
イエス様が来た時、イスラエルの民の指導者は、民を霊的に教育することも霊性を高めることも出来ていませんでした。逆に政治が宗教を利用し、民を搾取していたのです。民を幸せにするべき聖書の教えが生きていなかったんです。
それだけではありません。「失われた羊を求めて来た」のに、その民から「あなたはいらない」と言われて、十字架につけられてしまうのです。
そんな一番あってはいけない出来事さえ起ったのです。
しかし、ここで神さまの大逆転…。聖書の大切なみ言葉が成就します。
家を建てる者の退けた石が隅の親石となった(詩篇118篇22)。
これは、イエス様が捨てられることによって(十字架につけられることによって)、イスラエルではなく、全世界の民に対して、新しい堅固な神の家が実現した。そういう意味です。話を戻しまして、このカナンの女性…。
まず、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」というイエス様のこの言葉を耳にする必要がありました。
彼女はユダヤ人ではありません。なのに、彼女は『主よ、ダビデの子よ…』と近づいてきました。これは、イスラエルの民が神さまに対して使う言葉なので、言うならば、どこかの子供が、わたしのところに来て「お父さん」と呼び掛けて何かをお願いするようなものです。おかしいですよね。彼女は異教の神を拝み、メシアを待つことも、大変な律法を毎日守ることなく生きてきたはず。
だから、良いとこ取りみたいな感じで、お門違いな表現だったのです。
恐らく「ダビデの子よ」と言ってイエス様に近づいていった時に癒されたという話を耳にしたので、何か、お題目のように言っていたのかも知れません。
しかし、彼女は、この言葉が違っていることが判ったのでしょう。
こう言い直しています。『主よ、どうかお助けください』。
すると、今度はイエス様の言葉が彼女に向けて語られます。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」小犬というのは、野良犬ではなく、ペットの犬のことです。イスラエルで犬をペットとして飼っていたのかは不明ですが、この女性が育った地域では、小犬であれば食卓の下にいるくらいの飼われ方をしていたのでしょう。いずれにせよ、イエス様は、家の食卓に一緒に座る「実の子供」をユダヤ人に、「食卓の下にいる小犬」を異邦人として表現なさったのです。ある意味、蔑まれた表現であったかも知れません。
でもここに「当然じゃないんだ」という感覚を持つ必要を教えられたのだと思います。しかし、彼女はそこに幸いを見つけたんですね。
「恵みの食卓」にあずかるものであることには変わりないと思ったのです。
「小犬に喩えられても、あなたの傍にいることは私にとって祝福であり喜びです」という“謙遜な信仰”を言い表したのです。
さて、この女性、イエス様のこの言葉を聞いて、こう答えます。
『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』彼女は百点の回答ができたのです。
彼女は、神さまとの関係が整えられていきました。そして私たちは、この異邦人にもたらされた『神の恵み』のステップを今一度考えてみる必要があります。神の恵みは当然ではありません。私たちは救われて(祝福を受けて)当然なのではありません。なぜなら、神さまに対して沢山の罪を犯してきたからです。今日、お読み頂いたヨナ書では、ヨナは嵐に見舞われた船の中で眠っていたとあります。「嵐」は「神の怒り」を現していました。
ヨナは「起こされなければならなかった」のでした。ユダヤ人は神の怒りを知っていました。しかし、異邦人は罪人に対する神の怒りを知らないのです。
ですので、私たちも、まず、神の恵みを頂く前に、起こされなければなりません。神の恵みは当然ではないということ、そして、罪人に対して「悔い改める」という心の転換をまず求めておられるのです。「恵み」とは、自分の価値や功績によって得られるものではなく、神さまの純粋な愛や憐れみによって与えられる「上から降ってくる」ものです。そして、神からくる恵みこそ、本当の祝福であり、その人の中で泉のように湧き上がる命となるのです。
さらに、〔相応しくない私に〕神がくださる愛と慈しみの現れであると理解するからこそ、当然ではないという感謝と喜びが生じてくるのです。
最初に、火事の話しをしましたが、消防士が火を消さなかったのと、神が沈黙なさるのは全然違います。神は愛の神として沈黙なさるのです。
それは、正しい関係を通して大きな恵みを与えるためなのです。
そして、与えられたものが当然のものではなくてその人の中で本当の恵みとなるためなのです。彼女にとって、限りなく「癒すつもりはない」としか聞こえないイエス様の言葉でしたが、それは、彼女に〔本当の恵み〕を恵みとして与えるイエス様の愛だったのです。そして、放蕩息子の喩えも、「弟」は「子供」と呼ばれるのに相応しいとは考えず、「僕でも良い」と思ったと書かれています。つまり、カナンの女と同じく食卓の下でおこぼれを貰う状態でも恵み(幸せ)だと思ったのです。「誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」このみ言葉の成就を彼女は経験しました。
このみ言葉に「必ず」とつけて読んでみてください。「誰でも、求める者は必ず受け、探す者は必ず見つけ、門を叩く者には必ず開かれる」これは真実です。
神さまの沈黙はあります。しかし、このみ言葉は真実です。そして、恵みを恵みとして理解でき、「私たちが求めているものを与えてくださるから神さまなのではなく、神さまだから私たちが求めているものを与えてくださる。」という信仰が生きて働くようになる時、神さまのご計画がひとつ成就するのです。イエス様は最後に女性にこうおっしゃっています。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気は癒された。私は、素敵なしめくくりだと思います。イエス様の沈黙はこうして終わっていくのです。私たちも、これと同じ体験を神は与えようとしておられることを忘れないでください。
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