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おはようございます。
今日の聖書箇所ですが、ここにイエス様がなされた、とても有名な奇跡が記されています。イエス様が、〔5つのパンと2匹の魚〕を用いて、〔何と〕大人の男性だけで五千人(女性や子供も合わせるともっと大きな数)の人を食べて満足させたというのです。これは人には決してできません。神のような存在でないとできない奇跡なのです。それだけに「信じ難い出来事」なのは事実です。しかし、イエス・キリストは実際にいらっしゃった人物で、不思議な奇跡をいっぱい起こされたのも事実なんです。そのお方をどう私たちが心で受け止めるのか。そこが大事になってきます。イエス様は、この時、この奇跡を通して全ての時代の人に対して大切なメッセージを残されています。
そこで、今日は、ここからイエス様のメッセージを3つ受け取って欲しいと思います。一つは、イエス・キリストは旧約時代に荒野でマナを降らせた神ご自身であったということ、そして、二つ目は、イエス・キリストは、私たちにも命の糧を与え続ける神であるということ。そして、三つ目は、弟子達(そして私たち)に隣人を愛してい生きる人となって欲しいと願っておられるということです。すなわち、昔いまし、今いまし、永遠に私たちと共にいます神、それがイエス・キリストです。まず、この出来事の背景をお話しいたします。
この出来事の前にイエス様は弟子達に病を癒す力(死者さえ生き返る力)、悪霊を追い出す力(権能とも言われています)をお与えになりました。
そして弟子達を派遣しておられます。その弟子たちが帰って来た後の出来事なのです。イエス様はその弟子達を休ませようとして船で「人里離れた所」へ行こうとされました。実は、イエス様も「人里離れた所」に行こうとされた理由がありました。それは、洗礼者ヨハネがヘロデ王に殺されてしまったからです。その訃報がイエス様の耳に届いた時でもありました。
イエス様は、弟子達と一緒に舟に乗って「人里離れた所」へ行こうとするのですが、そのイエス様と弟子達が乗った舟を見て、人々は舟を追いかけ〔舟の行く先〕に向かって進んで行くんですね。湖によっては、岸辺から舟の行き先って分かることあります。岸に沿って進んでいくことができれば舟を見失うことありません。ガリラヤ湖もそういった湖だそうです。
ですので、イエス様が「人里離れた所」へ行こうとされたのですが、逆に湖周辺の人々が群がってイエス様のところに集まって来てしまったんですね。
岸についたイエス様は、そこに集まった多くの群衆を見て憐れまれます。「人里離れた所」にわざわざ来られたイエス様ですが、再度、み言葉を語り、また、癒しの奇跡をも沢山行われていました。そして、時間がどんどん過ぎていきます…。弟子たちは、考えました。このままでは、日が暮れる。彼らは食べ物を持っていない(持っていたとしても長い時間にそれを消費している可能性がある)。どうすればいいだろうか。そこで弟子たちは「解散させて、めいめい食事を買いに行かせてください」とイエス様に提案します。
でも、イエス様は、焦ることはありませんでした。
弟子達に『あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい』そうおっしゃいます。弟子たちは「えっ」と思ったでしょうね。目の前に男性だけで五千人もいたわけです。弟子たちが見つけた食べ物は子どもが持っていた〔2匹の魚と5つのパン〕でした。イエス様は、『それをここに持ってきなさい』と言って、そして、群衆には、五十人か百人ずつ位に分かれて座らせたのでした。
そして、ここから奇跡が起こります。イエス様は、天を仰ぎ賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子達に与えて、配らせたのです。すると、パンはなくならず、また、魚もなくならず、何と集まった人みんなが満腹するまでになったというのです。さらに、籠にパンの残りを集めると十二の籠一杯になったと書かれています。今日のこの出来事は、旧約聖書の「出エジプト記」、イスラエルの民が荒野で〔天から与えられたマナ〕を食し続けた出来事を想い出させます。
出エジプト記を見ますと、イスラエルの民は、モーセに導かれて荒野にやってきます。しかし、食べ物に困った人々はモーセに苦情を言うのです。
それを聞いた神は、イスラエルの人たちに、「鳥の肉」と「マナ」というウエハースのようなものを与えられました。彼らはその後ずっと、荒野でこの食べ物を食べて生きて行くのでした。同じように、この出来事は〔人里離れた所〕とありますが、実は荒野での出来事でもあるのです。というのも、ここで〔人里離れた所〕と訳されている単語は〔荒野〕とも訳される単語なのです。
旧約聖書では人々は〔モーセに導かれて」荒野にやってきましたが、今回は、人々は〔イエス様の舟を追いかけて〕荒野にやってきています。
そこで、イエス様は、人々にパンと魚(肉)をお与えになったのです。
後にこの出来事と旧約聖書の出来事を比較して見た人たちは、イエス様のこの奇跡に対して、旧約聖書の時代にマナを与えられた神と、イエス・キリストを重ね合わせることができたと思います。私たちもまた、この奇跡の出来事から一つ受け取って欲しいと思います。それは、イエス様は、旧約聖書で荒野でイスラエルの民と共に歩まれた神ご自身であったということです。
旧約聖書の神が世に現れたのです。さて、この出来事ですが、もう一つの側面から見て欲しいと思います。ヨハネによる福音書を見ますと、この出来事は過ぎ越し祭りの前に起こった奇跡だと記されています。春ごろの出来事です。
さらに聖書を見ていくと、これはイエス様が十字架にかかられる前の年であったことがわかります。つまり、この年にイエス様は五つのパンと二匹の魚を裂き、五千人もの人々に与えらえたのですが、翌年の同じ過ぎ越し祭りには、過ぎ越しの食事を共に食べながら、今度は、弟子達の前でパンを裂き「これはあなたがたに与える私の体である」とおっしゃったのでした。
そして、このことを、ずっと行っていきなさい(広く世に伝えなさい)と命じられたのです。ヨハネによる福音書にはこう書かれています。
わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネによる福音書6章48節~51節)
これ、どういうことかお分かりになるでしょうか?あの時、弟子たちは、男性だけで五千人の人たちを前にして、イエス様から与えられたパンを人々に配ったのです。そして、イエス様は、この出来事を霊的に解釈しなさいとおっしゃっています。今、世界中の教会で何が行われているのかと言いますと、按手を受けた牧師(または司祭)が会衆に命の糧を配っているのです。
今、世界のクリスチャンの人口は23億人位だそうです。
日本で95万人とありました。全ての人が聖餐の恵みを常に受けていることはないとは思いますが、3分の1で見積もっても、日本で約三十万人、世界で七億人以上の人が日曜日に、天からのパン(いのちのパン)を配られて食しているのです。すごくないですか?是非、あの時、イエス様から祝福のパンをもらった五千人の姿と、今、イエス様から命のパンを牧師(または司祭)を通して頂く世界中の人たちの姿を是非、重ね合わせてみて欲しいと思います。
同じ奇跡が(それ以上の霊的な奇跡が)日曜日ごとに恵みとして起こっているのです。聖書の一つ目のメッセージは、イエス・キリストは、単に凄い人ではなくて、旧約聖書で民に語り続けられた神であったということでした。
そして、二つ目のメッセージは、私たちもまた、荒野のような社会の中で、牧人イエス・キリストを通して命のパンを頂き続けている神の民であるということなんです。さて、最後に三つ目のメッセージをお話ししたいと思います。
五千人もの人に少しのパンを用いてお腹を満たした話。この信じ難い話。
私でしたらどのようにパンが増えたのか、どのように弟子たちが配ったのか…。そのような「奇跡の詳細」を知りたいと思うのです。
しかし、四つの福音書は、共に、〔食べ物がないことに気づき始めた弟子たち〕〔あなたがたが彼らにパンを与えなさいというイエス様のお言葉〕
〔パンが少ししかないので無理だと思った弟子達〕に長い説明を費やしているのです。つまり、パンの奇跡が起こる前の弟子達とのやり取りに長い説明をしているのです。これは弟子訓練でもありました。パンの残りを集めると十二籠あったとありましたが、これは、イエス様の力によって、全ての人が満腹しただけでなく、加えて十二籠も一杯になったということで、尽きぬ恵みのことを表現していると言えます。実際に、この先のことになりますが、イエス様は〔自分達のパンがない〕ことを心配した弟子達に〔五千人にパンを配った時、パンの残りは何籠になりましたか?〕と尋ねて、霊的なことに目を向けておくように戒めておられます。これは、〔神のために働くものは〕体のことを心配する必要はないということをおっしゃってもいるのです。
これは、イエス様の弟子でもある私たちにも与えられているメッセージです。弟子達は〔二匹の魚と五つのパン“しかない”〕と思いました
しかし、イエス様は、差し出されたものを用い、五千人もの人にパンを与えられました。つまり、〔私たちが隣人のために提供する時間、労力、富〕それらは喩え少なくとも、神はそれを大きな実りとして用いてくださるということなのです。私たちの愛の業の背後にいつもイエス・キリストがついていてくださって、豊かな実りとしてくださるということを是非覚えてください。
皆さまは、一度は種を植えて何かを育てたことあるかと思います。
作物を育てるのは収穫に至るまで、手間がかかり大変なこと多いのですが、成長してく過程を見ていると、どこか癒されるんですよね(生命の神秘に触れているからかも知れません)。もちろん、最後に実ると〔出来た!〕という喜びがあります。一つの種、もしくは苗から、多くの実りができるって感動ですよね。私は、このことって「私たちの生き方」にも共通していると思います。世の中には、〔してもらうこと〕〔得すること〕ばかり考えて〔与えること〕が出来ない人っています。ニュースになるような事件を引き起こす人って、自己中心的で「得る」ことしか考えない人に多いと思います。
私はそういう人を見ると、〔その人〕も〔その人の周りの人〕も不憫に思えて仕方ありません。それは、その人は〔得した〕〔楽した〕と満足しているのですが、生涯、本当の幸せに“包まれる”ことがないんです。
「得ることばかり考えて与えることができない人」って、結局は人生、孤独になっちゃうんですよね。支えようと思ってくれる人もいなくなります。
また、自分の利益のために〔他人を利用したり〕〔傷つけたりする人〕は、やがて信頼や尊敬を失います。与えることの喜びや価値を理解できない人は、本当の幸せを感じることができません。〔(上から目線ではなく)与える〕〔育てる〕というのは、富や時間を提供するのですから、身を裂く行為です。
聖書にやもめが神殿で少額の献金をした姿を見て、イエス様はこうおっしゃいました。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコによる福音書12章43節) イエス様はいつも「心(or手に残った量)」を見ておられます。さらに言えば、今日の聖書箇所と重ねると、少ないものであってもイエス様は多くの実りをそこからもたらしてくださるという約束をも語っておられるのです。もちろん神のために働く人は食べ物のことで心配する必要はないのです。聖書に次のような言葉があります。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネによる福音書12章24節)』
これは、イエス様のお姿でもありました。神さまとは違い、私たちの命は限りがあり、ひとつしかありません。イエス様は人となり、その命を私たちのために捨ててくださいました。しかし、そのイエス様の命を神さまは多くの実りとしてくださったのです。イザヤはイエス様のことをこう預言していました。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし彼は戦利品としておびただしい人を受ける。(イザヤ書53章10節~12節)イエス様は、ご自身を捧げることで、多くの人の命を蘇らせたのです。一粒の種から沢山の実りができるように、ご自身の命から、多くの命が生じた姿を見たのです。そして、多くの人に囲まれているのです。先ほども言いましたが、日曜日、あの時、青草に座っていた人々と同じ様に、世界中の人が聖壇の前に座り、キリストの言葉に耳を傾けて、そして、イエス様から命の糧を頂いているのです。勿論、その上で・・・なのですが、三つ目のメッセージを忘れないで欲しいと思います。
弟子の訓練を一生懸命イエス様がなさったように、キリストの弟子として、今の私たちにも、隣人を自分のように愛するように主は教えておられるのです。なぜなら、そのような生き方をする人は、最後、多くの実りを見ることができるからです。身を裂く思いで人に与える時、主は、それを豊かに祝福して、私たちに実りとして返してくださるのです。そのことを心に留めてください。
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