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おはようございます。
マルチン・ルターが亡くなった時、彼の死を悲しみ集まった人たちが、彼のポケットから一枚の紙きれを見つけました。その紙に次のような言葉が書かれていました。“わたしたちは乞食である。これは真理である。”
色々な聖書の真理を解き明かしたルターですが、この言葉は、〔ルターの死の直前における思想〕として有名な言葉です。
「わたしたちは乞食である」。「わたしは」とは言わず「わたしたちは」と言っているので、これは「人は誰でも神の前に乞食である」ということだと思います。人は神の前に〔小さく〕そして〔無力〕である。また、〔神の恵みなしに存在しえない〕ということを死を前に、〔あらためて〕〔はっきりと〕実感されたのではないかと思います。福音書を見ますとイエス様の前に一人の物乞いが登場します.(マルコによる福音書10章46節~参照)彼は盲人でした。
彼は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」そう言って叫び、近づいて来たのでした。イエス様は彼に言います。「何をして欲しいのか?」。すると彼は、「先生、目が見えるようになりたいのです。」そう懇願するんです。その彼の願いを聞いてイエス様は彼の目を癒されるのでした。
「神さま憐れんでください…」自分の力でどうしようもないと感じるとき、わたしはこの言葉で祈ります。そしてしばらく沈黙します。「〇〇してください」「〇〇になりますように」という祈りも普段致しますが、気持ちが沈み、気力さえ消えていきそうなとき、わたしは「神さま憐れんでください」と言う祈りを致します。そして、自分の思い願いをその後に続けて祈ります。
そのようにして祈るとき、神さまの前に何か覆いが取り除かれているような気がします。今日の聖書箇所でイエス様はこうおっしゃっています。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(マタイによる福音書7章7~8節)「求めなさい」、「探しなさい」、「門を叩きなさい」とありますが、ギリシア語(原文)で見ますと「求め続けなさい」「探し続けなさい」「門を叩き続けなさい」という命令であることがわかります。しかし、間違ってはならないのは、神さまの腰が重くて、私たちが一生懸命祈ったら神さまは重い腰をあげてくれるでしょう…という私たちの努力の必要性を言っているのではないんです。
神さまに「あなたしかない」と執拗に願うその必死さを神さまは求めてられるということです。先ほどの、イエス様の前に現れた盲人も同じように、「憐れんでください」と叫び続けていたと書かれています。人々が制するとさらに彼は叫び始めたと書かれています。それだけ彼は必死だったのです。
勿論、イエス様はその盲人の願いは何かをご存じだったはずです。
しかし、イエス様はあえて「何をして欲しいのか?」と彼に尋ねるんです。
何故なんでしょう。恐らく、「あなたにとってわたしはどのような存在なのか」ということを告白させようとされたのではないかと私は思います。
お金が欲しいのであれば他の人に願うでしょう。しかし、彼の目を見えるようにすることは人にはできません(人に願っても仕方がないのです)。
だから彼の「目が見えるようになりたい」という言葉は、“あなたは私の目を開くことができる唯一のお方です”という切なる信仰告白でもあったわけです。実際にイエス様は彼に対して何と言われたのかと言いますと、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と“信仰が救った”とおっしゃったんです。すると、彼の目がすぐに見えるようになったと書かれています。
誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる。
「求める」「探す」「門を叩く(戸を叩く)」というのは当時、宗教的によく使われている単語でした(聖書でイエス様のたとえにも登場してくる単語であることからも判ります)。ですので、「求めなさい」、「探しなさい」、「門を叩きなさい」というイエス様の言葉には、「そうすれば、天の国は開かれます(つまり、神の義、神の真理、神の知恵を得ることができます)」という霊的なメッセージでもあるのです。神さまに対して熱心に求める時、私たちは大きな恵みを受け取ることができるのです。わたしは、イエス様の約束を聞いて、まず、神さまと私たちとの関係を正しくする必要があると思いました。先ほどの盲人は、人々の前には憐れみを必要としている人でしたが、霊的には、どこまでもへりくだり、神さまに願う人の姿としては私たちにとって素晴らしい模範を示した人なのです。私たちこそ、この盲人に学ぶべきことがあるのです。
神さまは御用聞きではありません。むしろ、私たちの方が僕 しもべ
のような存在であり、御用聞きであり、何かをしてもらえなくても当然のような存在です。そのような大きな存在の違いがあるのですが、イエス様は、その父なる神さまが「あなたを愛し、あなたの必要を必ず満たしてくださるのです」と教えてくださっているのです。礼拝堂の前に十字架が掲げてあります。この十字架を見て、まず、私たちのために十字架に架かってくださったイエス様を思い起こして欲しいと思います。しかし、もう一つ、「あなたは私の目に高価で尊い、わたしは愛する御子の命を十字架で捧げました、私の愛を受け取りなさい」という父なる神さまの愛のメッセージも受け取って欲しいのです。
皆さま、ノアの方舟の話しをご存じかと思います。大地に再び降り立ったノアと家族に対して、神さまは虹をお見せになったんです。
そして、二度と肉なる者を滅ぼすことはしない。私は、雲の上に虹を置く。この虹は、私が二度と罪によって人を裁くことのない契約のしるしとなる。
(創世記9章11~13節)そのようにおっしゃったのでした。
ですので、人は虹を見た時に、怒りの神ではなく、祝福の神であることを思い起こし安心したのだと思います。ですので、この十字架を見た時に、神さまがおたてになった虹のように、新しい契約のしるし、私たちに平安と喜びを与えるための愛のしるしとして見て欲しいのです。そして、その神さまの私たちに対する声(求めなさい、探しなさい、門を叩きなさいという声)をこの十字架を通して聴いて欲しいのです。パウロはこう言っています。
わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
(ローマ人への手紙8章32節)神さまがどのようなものをくださる方かをこのみ言葉から受け取ってください。さて、私たちは、今年度のみ言葉として『誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。』というみ言葉を掲げています(覚えていらっしゃいますか)。
私は〔このみ言葉は偽りのない真実である〕と同時に、〔求めているものは何でも叶うわけではないことも良く知っている〕と私は信じています。
しかし、集う方々の色々な問題に対して日々祈っていますと、実際は、〔このみ言葉は真実なんだろうけど〕〔実際に求めているもの(切に求めているもの)であっても叶えてくださらないではないか〕そう思っていたのです。
そうとしか思えなかったのです。私は神さまにこの意味はどういう意味なのでしょうか?現実とは違うではありませんか?と祈り続けていました。
すると、色々な出来事(試練)を通して神さまは私に答えをくださいました。それは神さまは本当に良い物を与えようとする神であるということでした。
私たちは自分の力ではどうしようもないと思えた時になって初めて、本当に神さまの前に憐れみを乞う、本来の人の姿になれます。私はそんな自分の姿を感じました。「苦しい時の神頼み」という言葉があります。
これは、日頃は神も仏も拝んだことがない信心のない人が、苦しい時や困った時や災難にあったりしたときにだけ、神仏に頼って助けを求めて祈る姿を言います。身勝手さを揶揄する時に使われる言葉でもあります。
しかし、信心のある私たちであっても、苦しい時だけ必死にすがろうとする姿があります。そして、苦しみが去れば、物乞いのような姿から一転して大手を振って、“これが私”と歩く信者に戻ってしまうのです。
私はこれまで、普段が本当の自分で、困った時だけ祈る私は違う私(どちらかと言えば弱い私)というイメージがありました。
しかし、「私を助けることができるのはあなたしかいません」と近づいて行く私の姿こそ、〔純粋な本当の私の姿〕ではないかと思いました。
つまり、元気になった時の私は罪の姿に覆われている私なのです。
自分の力を謳歌している自分は、本当の自分を見失っている自分のように感じるようになりました。神さまに憐れみを求めている時の方が、神さまと私の本来の関係性が現れ、神さまとの距離が近く感じるのです。
試練は嫌ですが、本当の私を維持するために、試練によって神さまに憐れんでくださいと切に祈る私であり続けたいとも思えました。
さて、『誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる。』というみ言葉の本当の意味を求めた時に、「神さまは願ったものとは違うとしても、神さまは、いつも色々なものをくださっている神、もっと良い物をくださる神さまである」ということを知りました。『誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる。』この約束は偽りのない真実です。時に願ったことが叶うこともあります。一方で願ったことが叶わないこともあります。でも、それは未来に叶うこともありました。また、神さまは、もっと良い物を結果として与えてくださるのです。むしろ、そのようなものこそ私たちに本当に必要なものなのです。先週、み言葉を蒔く神さまのことをお話ししました。落ちた地によって実らないもの、実るものがあるということを学びました。み言葉が実るまでには時間がかかるのです。同じように試練も実りとなるまでには時間がかかるのです。そのためには神と共に歩み続ける必要があります。しかし、最後には、100倍、60倍、30倍もの実りある人生へと変わるのです。 最後に今日お読みした旧約聖書からお話しをしたいと思います。
アブラハムは自分の子イサクを捧げるように(生贄とするように)神さまに命じられます。アブラハムは悩んだことでしょう。
しかし、アブラハムは神さまを畏れ(恐れではありません)、神さまの言葉に従い、イサクを生贄として捧げることを決意しました。
そして、イサクに刃物をあてようとしたとき、み使いが現れ、彼の手を止め、神を畏れる信仰を誉められました。すると、アブラハムは近くに雄羊を見つけました。そして、その雄羊を代わりに捧げるのです。
この出来事から、ヘブライ人の間で次の言葉が言い伝えられるようになりました。それは、「主の山に備えがある」という言葉です。短く「アドナイ・イルエ」とも言われています。「備えがある」というのは、別の翻訳では「計らいがある」となっています。神さまは試練に遭わされますが、全てにおいて神さまの計らいがあるという意味です。神さまはずっと見ておられます。
そして、試練の後には祝福がまっているのです。神さまは、実は、日々、私たちの人生を色々な恵みで満たしてくださっています。
神さまは、良い物を与えてくださる神です(良い物しか与えないお方です)。その神さまがくださった最高のもの、私たちが一番必要としているもの、それがイエス・キリストによる十字架の救いです。
ルターの“わたしたちは乞食である。これは真理である。”との言葉は、彼が天に召される前に書き記された言葉だと言われています。
私たちもまた、天に召される時があります。その時、本当に心から「主よ憐れんでください」「わたしを救えるのはあなたしかいません」と霊の体を求めて祈る者となるでしょう。その時、(アブラハムとイサクの時のように)神さまとイエス様とが苦しみの中で準備してくださった、最高の恵みを実感することができるのです、それは、愛のこもった永遠の命です。
これは最も高価な贈り物です。信仰によって私たちがこれを受け取っていたことを知り、そして、天の国は私たちに輝いて開かれていくのです。
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