宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
マタイによる福音書13章1節~9節 18節~23節
イザヤ書55章10節~13節

 「力ある神の御言葉」

説教者  江利口 功 牧師

 

 おはようございます。

先日、我が家の子供が、数学のことで質問をしてきました。

私はそういう時は聞かれた事だけを答えるのでなく、少し深堀りして、全体像を教えるようにしています。すると、聞きたかったことだけでなく、その全体像が少し理解できた時には、「なるほど」という返事が返ってきます。授業で聞いて理解している・・・そういうことであっても、〔自分より大きな世界を知っている人〕に説明してもらうことで、さらに広い世界を知ることができる(時にそこに感動を覚える)ことってあるわけです。

〔知っていた(理解していた)ことであっても、その全体像を知ることで世界はさらに大きく広がるものなのです。または、知っていたつもり、理解していたつもりであっても、大きな背景を知ることで〔その世界の素晴らしさ〕と出会うことができるのです。私は聖書もそういう所が大いにあるかと思います・・・確かに、イエス様を信じて洗礼を受ければ救われますし、イエス様が十字架にかかって私たちの全ての罪を赦してくださったことは簡単で判り易いことだと思います。しかし、私たちがなぜ救われなければならないのか(また、どうして十字架というあのお姿をとらなければならなかったのか)そういうことが分かると十字架と洗礼の意味(聖餐式の意味)も大きく変わり、それが大きな喜びとなるのです。イエス様は、多くの事を「喩え」でお話しなさっています。イエス様は、私たちが知らない「神の国」のことを、この世のものを用いながら〔判り易く〕ご説明なさるのですが、イエス様の心にある思いは「私たちに神の国の素晴らしさ」を知って欲しいという思いなのです。

なぜなら、私たちが負っている「(この世の)くびき」は重すぎて疲れているからです。だからこそ、イエス様は「(神の)くびき」を負いなさい。私に学びなさい。私と一緒に歩もう」とおっしゃるのです。それは、神の国を知る人は平安を得ることができ、命ある生き方(実りある生き方)ができるようになるからです。イエス様だけが、神の国の姿を知っています。また、父なる神さまのことも良くご存じです。イエス様は、神の力、み言葉の力、この世界の本当の姿、私たちの本当の姿をよくご存じなのです。また、この世界がどのように始まって、どのように終わっていくのか、また、どのような新しい世界が待っているのかもイエス様は良くご存じなのです。それだけに、イエス様は人がご自身のところに来る人〔神の国のことを学びに来る人〕を大いに喜ばれるのです。イエス様は、多くの事を「喩え」でお話しなさっています。

それは、〔私たちが知らない事実〕を〔私たちが知っている事実(体験した事実・想像できる事実〕と結び合わせるためです。

このイエス様のお姿については、詩篇でこう預言されています。

私の民よ。私の教えを耳に入れ、私の口のことばに耳を傾けよ。私は、口を開いて、喩え話を語り、昔からのなぞを物語ろう。

(新改訳:詩篇78編1節~2節)

イエス様こそ「私の民よ」と語り掛ける神であり。喩えを用いながら、隠れている真理を解き明かすお方なのです。先ほども言いましたが、それは、〔救いを得る〕ためであり、同時に、本当の世界を知ることにより、私たちが〔人生の重荷を軽くする〕ためです。さて、今日お読みした福音箇所にはこう書いてあります。その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆、岸辺に立っていた。イエスは喩えを用いて彼らに多くのことを語られた。               (マタイによる福音書13章1節~3節)

湖(ガリラヤ湖)のほとりに座っておられるイエス様、そこに集まってくる人々、ごった返し始める状況が思い浮かびます。イエス様は弟子に船を準備させ、癒すためではなく、み言葉を語るために少し岸辺を離れて、そこで、全員に向かって一つの喩えをなさいました。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。(マタイによる福音書13章3節~9節)『耳のある者は聞きなさい』っていいですよね。これは、『この意味がどういう意味なのかを深く考えなさい』ということだと思います。

人間って不思議ですよね。聞きたくない時(聞こうとしない時)は外から何を言っても入らないんですよね。大事なことを言っていても無理なんです。

すると成長しない。重荷を下ろすこともできない。しかし、一度「知りたい」「知って変わりたい」と思うと、一生懸命〔耳を傾け〕吸収し易くなるんですよね。すると、その人は変わり始めるし、重荷も軽くなっていくんです。

聖書を開く時はいつも、イエス様がおっしゃる「耳のある者は聞きなさい」この言葉を思い出していただければと思います。「耳のある者は聞きなさい」これは「この意味がどういう意味なのかを深く考えなさい」ということです。

さて、イエス様の喩え話ですが、ここには、み言葉の種を蒔く神さまの姿が描かれています。もちろん、種を蒔いたことや苗を植えたことのある人でしたら分かるかと思いますが、蒔く時(植える時)は、豊かな実りを期待して蒔くわけです。イエス様は、道端、石だらけの土と云った、私たちであったら蒔かないところに落ちた種のことを言っておられます。でも、これは実際に当時のこの地域では普通のことで、当時この地域では、種をバァッと蒔いて、その後に土を耕すのです。ですので、このイエス様の喩え話を聞いて、人々は不思議には思いませんでした。それよりも、普段、経験している「種をついばむ鳥の姿」「実らずに終わってしまう芽」を想像することができました。

イエス様がおっしゃるのはこうです。神はご自身のみ言葉を多くの人に語る。聖書を開く時、会堂で解き明かしを聞く時、もしくは、聖書を良く知っている先生(ラビ)を通して、神はお語りになっている。

しかし、全ての人がそのみ言葉を受け入れ、実りをもたらすのではない。

ある人は、蒔かれた尻から、他の教えなどが頭にあって神の教えと置き換わらない。もしくは、他の人から受けた人間の教えがすでに頭にあって、真理に対して耳を塞いでしまう。すると、神の言葉が命とならない。また、初めは教えを喜んで受け入れるけれど、人生が自分の思い通りにならなかったりとか、聖書の約束とは違うような出来事が起こると、み言葉にそれ以上に繋がらなくなる。その人も豊かな実りをもたらすまでに行かない。また、〔頑張って〕実る直前まで成長する人もいるが、「神のみ言葉よりもこっちの方が楽しい、こっちの方が幸せに感じる」そんな風に誘惑に負け(我慢しきれず)、世になびいて、せっかくの実りを台無しにしてしまう人がいる。

しかし、今、わたしの言葉を聞いている人は心に留めなさい、これら全てのことを乗り越え、悟り、守りなさい。そうすれば、あなたは必ず豊かな実を結びます。イエス様は、そうおっしゃるんです。種が実るまでにはプロセスが必要なように。実るまでには時間と忍耐が必要なのです。

この喩えは、二つの意味があります。一つは、先ほど言いましたが、私たちの側のことです。しかし、もう一つありまして、それは、神さまの側のこと、「蒔く人の事」また「種」のことなんです。

この喩えは、どんなところにでも蒔く農夫の姿を重ね合わせて(実りを期待して)どんな人にでもみ言葉の種を蒔き続ける神さまの思いが描かれています。私たちって神さまの事を誰かに伝えるときに、相手を選んだり、話せる時を選んだりしますよね。時には、この人との関係を考えて言わないでおこうと思ったり、この人には言っても無駄だろうなって考えることあるかと思います。

私たちは、相手を選んで(つまり土地を選んで)み言葉の種を蒔こうとするんですよね。しかし、神さまは、とにかく種を蒔く方なんです。良い土地であろうがそうでなかろうが(つまり相手が求めていようがいなかろうが)、み言葉の種を蒔きたいと思うお方なんですよね。なぜなら、種はその人の中で豊かな実りをもたらす力を持っているからです。

イエス様が十字架にかかった時、その姿を見て、人は言いました。

「自分を救ってみろ」。イエス様は救いを必要としていません。救いが必要なのは私たちなんですよね。この世で「罪というくびき」を負い、「死の定めというくびき」を負い、その手綱を悪魔が握っている(それが私たち)です。

そこから、解放してくださったのがイエス様で、その解放の力を持っているのが「み言葉」なんです。悪魔はみ言葉の力には勝てません。

今日お読みしました、イザヤ書にはこう書いてありました。

雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。       (イザヤ書55章10節~13節)

神さまは、ご自身のみ言葉の事を、雨と雪にも喩えられています。

雨は大地を潤し、豊かな実を結ばせるじゃないか。この世界のために(またあなたのために)わたしの口から出るみ言葉はわたしの望みを成し遂げる、必ず、わたしの使命を果たす。ここにも、神さまの思いと同時に、み言葉の力が書かれています。神さまは、天と地を「ことば」で創造されました。

また、過去に語られた神さまの「ことば」は、現代に語られる時にもその力を発揮します。神さまの「ことば」は時を超えて働く力を持つのです。

その神さまの口から出る言葉は何をもたらすのか・・・イザヤは続けてこう言っています。あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く。山と丘はあなたたちを迎え、歓声をあげて喜び歌い、野の木々も、手をたたく。茨に代わって糸杉がおどろに代わってミルトスが生える。これは、主に対する記念となり、しるしとなる。それはとこしえに消し去られることがない。(イザヤ書55章12節~13節)

ここに、私たちの側の喜び、そして、背後に神さまの望みが描かれているのがわかります。神さまは、喜びを与えたい、平和を与えたい、みんなに喜びの声を与えたい、これまでとは違うものを人の心に生え出でさせたい・・・そう願っておられるのです。そして、このことの成就(到来)がイエス・キリストがお生まれになり、福音を「喩えを通してお語りになる」時から成就し始めたのです。そして、死と復活を通して全てが実現していくのです。

わたしは、この箇所を準備していて思いました。イエス様は、「種を蒔く人の喩え」そのものを私たちに理解して終わって欲しいのではない。

この「種を蒔く人の喩え」を通して、あなたに語ろうとする神の御心、また、そのみ言葉の力(それは私たちの内に豊かな実を結ばせるものなのですが)そのことを心に留め、イエス様の全ての言葉を〔この種を蒔く農夫の喩えを心に留め〕「深く探って欲しい」そう願っておられるのだと思いました。

だから、「耳のあるものは聞きなさい」とおっしゃったのだと思います。

この喩えは、イエス様がお語りになる全ての教えについて、どう聞けば(生きれば)良いのかを教えているのです。イエス様の喩え(また教え)は聞けば簡単なことに見えますが、それを深く知ることは、さらに大きな恵みとなるのです。そのために、時に神さまは試練に私たちを遭わせることさえなさいます。 時間がありませんので、次週、もう一つのことをここからお話ししたいと思います。神の言葉は、必ず、私たちの内に〔悟りを通して〕喜びを与え、平安を与え、これまでとは違う姿に私たちをしてくださいます。

神さまは、物で私たちを喜ばせるお方ではありません。

み言葉を通して私たちの心を整え、私たちの姿を変えることで喜びとさせてくださるのです。そして、私たちだけではなく、神さまの喜びとなさるのです。