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お早うございます。
1990年代、バブル最盛期の頃に一世を風靡したCMをご存知ですか。
“ふじっこ”という漬物製造会社のCMなのですが・・・バリバリ働くキャリア女性が、部下に仕事を託するように去って行き、独りエレベーターに乗った後、疲れた表情を見せ、(溜息をつくように)一言、「はあー、柴漬け食べたい」って言うんですね。「柴漬け食べたい」これは山口美江さんが出演したCMですが、これが、“働けば働くだけお金になるというバブルの時代”にマッチしたのでしょう。とても有名になりました。他にも“24時間、戦えますか?”という栄養ドリンクのCMもありましたが、みんな働き過ぎて疲れていた時代なんですね。勿論、今も働く人は疲れています。バブルの時代と違い、働いても働いても暮らしは楽にはなりません。また、ワンオペという言葉が有名になりましたが、少ない人数で多くの仕事を回さなければならない時代でもあります。また、職場の人間関係、モンスター○○という怪物も登場して、働く人は神経さえも擦り減らし身体だけではなく心も疲れています。
一線を退いた人であっても、何かしら、忙しくしておられる方、何かしら苦しんでおられる方が多いと思います。皆さん、肉体的にも精神的にも疲れています。そのような私たちに、今日の御言葉は大切な御言葉だと思います。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章28節)
神さまと言うお方は、休むように命じられるお方”休ませようとするお方”です。日曜日は一般的に休みですが、その休みの起源となっているのも聖書なのですよね。六日働いて、何であれあなたは仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてなならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。(出エジプト記20章8節~9節)神さまが休むように命じられているのが特徴的ですよね。ちなみに、安息日にあたるヘブライ語の“サバス”、これは、「仕事をしない」というよりは、「人間の業を止める」そんな意味の方が強い単語なのです。では、その日をどう過ごしなさいと言われるのかと言いますと、ルカによる福音書10章38節~42節に紹介される、マルタとマリアの話にあるように、手を止めて神の前に座る(休ませてくださる神さまと交わる)ということなのです。安息日は神と交わるという点では霊的な日でもありますが、同時に、この世の旅路で疲れた私たちが”心と体”を休めることが出来る日でもあるのです。さて、安息日を定め、人に休むように強制される神さまですが、もう一つ、大きな流れ、人生という旅路、色々な境遇の中で疲れた私たちに「新しい生き方を与える」のも神さまです。
昔、イスラエルの人たちは、エジプトで奴隷状態でした。
彼らは苦役に課せられ自由を失っていました。休めませんでした。
この奴隷状態から神さまはモーセを通してご自分の民を助け出したのです。
それが出エジプト記に書かれています。奴隷状態で疲れ、重荷を負って生きている民を神さまは彼らの約束の地へと導かれました。その旅の途中で与えられたのが、十戒です。そこで神さまは安息日を厳守するように命じられました。
安息日は主人であっても、部下や僕を働かせることが出来ない日なのです。
つまり、一般の人達からすれば、安息日は「主人や社長よりも上におられる神さまが、私を“この日”重荷から解放してくださっている特別な日なのです。ですから、「自由人である」ことを満喫できる日なのですね。
皆さんは「歩行者天国」をご存知ですか?車道を一時的に閉鎖して、その日もしくは一定時間、歩行者が独占出来るんのですね。その目的は色々とあるかと思いますが、その時、そこで時間を過ごす人は、ちょっとした解放された気持ちに(自由な気分)を味わうことが出来ます。安息日を、同じように言っては語弊があるかもしれませんが、自分がこの世に支配されていないことを証する「自由人であることを満喫できる日」なのです。さて、エジプトで奴隷のように扱われ、苦役を課せられ、疲れていたイスラエルの人たちを解き放ってくださったのが神さまでした。同じように、いえ、「人間にとっての本当に重荷から解放しようとした」のが、神の御子イエス・キリストでした。
イエス様はおっしゃいました。「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」
(マタイによる福音書11章28節~30節)
イエス様の言葉の中に「軛 くびき」という言葉があります。
軛と言うのは牛や馬に荷車を曳かせたり、田畑を耕す農具を使うために牛や馬の首につける器具のことを言います。多くの場合、牛二頭を一対の軛を架け、そして、荷車や農具につなぎます。見た目には労働を”強いられているように見える”ことから「軛」という言葉は、「不自由な身分」「奴隷の身分」を比喩的に現わす言葉として使われるようになりました。イエス様も「軛」の話をしておられますが、私たちを「何の軛」から解放してくださるのでしょうか・・・それは「罪の定め」「死の定め」「悪魔の支配」の軛です。
生れ持って背負わされているこの三つの苦しみからイエス様は解き放ってくださいます。わたしたちは、この世の旅路を進みます。
「歩まなければならない」と言ってもいいのかも知れません。
疲れた時には、食べる意味、生きる意味を考えることもあります。
そのような「生きる苦しみは何処から来るのかと言いますと、それは、「愛の無い、罪に満ちた世界で生きるから」こそ生じるのです。
そして、どれだけ楽な人生を歩もうとも、私たちは「死」という軛を負って生きなければなりません。信仰は、この苦しみから解放される生き方をもたらすのです。昔、イスラエルの民は、エジプトからモーセによって導かれ、肉体的ではありますが、救いを得て、荒野での生活が始まりました。
しかし、「罪」「死」「悪魔」からの解放はまだ実現していませんでした。
人は律法によっては、霊的な開放をもたらすことが出来ませんでした。
なかには、自分の罪の深さに苦しむ人もいました。
その人類の本当の救いをイエス様はもたらされました。これが新しい契約に生きる人間に与えられるものです。イエス様は、私たちの罪をすべて背負って十字架で死んでくださいました。神さまは、私たちの罪を赦してくださいました。罪の無い処に「永遠の死の定め」もありません。
また、イエス様は悪魔にも勝利なさいました。ここに私たちの本当の回復があり、それが、信仰によって与えられます。そして、そのイエス様がおっしゃるのが「わたしについて来なさい」というお言葉なのです。
「疲れた者、重荷を背負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」教会の前によく表示されている言葉ですが、全文ではなく、前半だけになっている場合が多いように思います。わたしの軛を負い、わたしに学ぶ後半が大切なのは、皆さんもお気づきだと思います。聖書で、自由になるということは、「好きなように生きてよい」ということではありません。神さまは「重荷を背負った私の人生」から「神の示す道を歩む人生」を歩ませようとなさいます。実際に、イスラエルの民は荒野で解放されたのではなくて、モーセに道びかれ、カナンという「本当に豊かな生きる国」へと進みました。もちろん、その間、憐れみと慈しみ深い神さまはずっと共にいらっしゃいました。同じように、イエス様は「罪」と「死」と「悪魔」から私たちを開放してくださいましたが、私たちに、人生のゴールに向けて「わたしの人生の旅路」から「神が主導権を持った人生を歩む旅路へと歩むようになさるのです。“自由になる”と聞くと、「自分の好きなように歩むことが本当の自由で、それが最高の人生」と感じるかもしれません。ですので、「私が設定する人生を祝福してくださればそれでよい(それがいい)」。と思う信仰になりがちです。しかし、「わたしが行き先を決める人生が本当に祝福された人生になるかどうかは判らない」のです。
イエス様の軛を負うというのは、新しい人生を歩むことを言います。
「私の軛をイエス様の負ってもらう」のではなくて、「イエス様の軛を私も負う」ことで本当の安らげる人生を歩めるのです。キリストが歩もうとされる道、キリストが進まれる道、キリストが示される道、神の旅路を歩むのが人間にとって一番祝福された人生となるのです。イエス様はこうおっしゃっています。天地の主である父よ、あなたを褒めたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心に適うことでした。(マタイによる福音書11章25節26節)私たちは「自分が設定した人生を祝福してくださればそれでいい(それがいい)」と考えがちですが、神さまの御心を第一とし、神さまを礼拝する人生、神さまに祈る人生、キリストに学び実行する人生こそ大事なのです。
しかし、それは、信仰を純粋に持つこと(つまり幼子のように素直に受け入れること)が大切になってきます。イエス様は「私から学びなさい」とおっしゃっています。「学」は「弟子になる」という単語と言葉としては同じ語源なのです。洗礼を受け、神を第一とし、御言葉に生きるとき、その人の人生には色々なことが起こり始めます。それが受け入れられなくて離れて仕舞う方も多いのも確かです。また、思ったように変わらないということで離れて仕舞うこともあります。しかし、イエス様がおっしゃるように、幼子のように最後まで福音の信じ、素直にイエス様の教えに従い、与えられた人生を歩むように生きる必要があります。自分の旅路ではなく、イエス様が示される道を歩もうとするのが本当の安息になるのです。多少の重荷はあるかも知れませんが、それが、休む結果となる。そのことを教えておられるのです。もちろん、イエス様は柔和で謙遜なお方ですから、私たちのペースに合わせ良いようにお導きになります。私は洗礼を受けてからも色々とありました。でも、振り返ってみれば、意味があったと思います。また、牧師になってよかったと思います。
牧師に召されたのは、福音(宣教)のためと思っていましたが、それだけではなく、私の人生のためでもありました。私に必要な本当のものを神さまはご存知でした。確かに色々なことがありました。苦しいこともありました。
でも、恵みだったと今、思えます。公務員の人生もこの世的にはそれなりに良かったのかも知れません。しかし、神さまの示された道は、私のための備えてくださった歩みでもありました。私のことを一番よく知ってくださっている神さまの大きな計らいでした。私たちの人生は大変で、軛を背負っているような人生です。私たちは幸せを求めて、つまり、荷が軽くなるように軽くなるように願います。私の人生の重荷、自分の人生の旅路における重荷をいかに軽くするかということに一生懸命になってしまうことがあります。
しかし、イエス様は、「わたしの軛」を負いなさいとおっしゃいます。
「わたしに学びなさい」とおっしゃいます。そして、「福音を喜びキリスト者として歩む生き方に移り変わりなさい」とおっしゃいます。
私たちは「死」という定めを持ち続けはしますが、それは復活の約束を期待させます。キリストと歩む人生は、決して人生を無意味にすることはありません。私たちの人生が天の国において、意味ある人生でしたというように必ずなるのです。朝、お祈りするときに、「主よ、あなたは今日、私のためにどのような一日を準備されていますか?」そう祈るのもいいでしょうね。
神を第一とし、神の御心を第一として福音を喜び生きる生活を充実してください。そして、日曜日ごとに必ず、神さまの前に、手の業を止めて座る。
この生き方を優先するようにしてください。
すると、神の安息は、必ず、あなたのものとなります。
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