宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
マタイによる福音書 10章34節~39節
ローマ人への手紙 1章1節~11節

 「新しい命を求めて」

説教者  江利口 功 牧師

 

 おはようございます。

「宗教」と「水」というのは、大変深い関係がありますね。

日本では神社を参拝する際には手や口を清める風習があります。

境内の入口と言ったらいいのでしょうか、そこに、水が溜めてありまして(恐らく自然の水を引っ張ってきているのだと思いますが)、柄杓ひしゃくに水を取って、自分の手と口を清めるというのが一つの儀礼です。

けが れを払うというのが本来の意味だと思うのですが、実際にそのような所作をしますと、ちょっと清くなったような気になります。

 聖書の中でも「信仰」と「水」と言うのは深い関係があります。

「儀礼」という観点から言いますと、私が思い当たる所では、最初に出てくるのは幕屋で儀式を司る祭司に命じられている「洗い」です。

出エジプト記にこう書いてあります。洗い清めるために、青銅の洗盤とその台を作り、臨在の幕屋と祭壇の間に置き、水を入れなさい。アロンとその子らは、その水で手足を洗い清める。すなわち、臨在の幕屋に入る際に、水で洗い清める。死を招くことのないためである。また、主に燃やしてささげる献げ物を煙にする奉仕のために祭壇に近づくときにも、手足を洗い清める。死を招くことのないためである。これは彼らにとっても、子孫にとっても、代々にわたって守るべき不変の定めである。(出エジプト記30章18節~21節)

“アロンとその子ら”というのは儀式を司る祭司たちを意味します。

聖なる儀式を行う時には手足を洗い清めなさいと命じておられます。

ここで分かるのは、神さまは〔聖なる方〕であり、〔罪深い人間は近づくことも触れることも本来許されない〕ということです。ただし、神さまは「わたしに近づくな」とおっしゃるのではなく、〔罪人である私たちと神さまとの関係〕をしっかりと教えておられるのと、加えて「どうすれば近づくことができるのか」を教えておられるのです。そして、これは、「民」についての命令ではなくて、「祭司」についての命令であることを忘れないで欲しいのです。

というのは、聖書では〔民〕に対して「水による洗い清め」というのは、はっきりと命じられていません。ただし、聖書で「汚れ」ということが律法に書かれていますので、いつの時代からか、食事の前に手を洗ったり、外出から帰ってきた時に身体や体の一部を洗ったりするようになりました。

このような風習は、「汚れを忌み嫌う」という観点からは良いのかも知れませんが、注意しなければならないのは「神が命じられた儀礼ではない」ということです。「身を清める」という観点からお話ししましたが、聖書ではもう一つ「癒し」という観点から「水」が用いられることがありました。

有名なところでは「ナアマン」というシリア(アラム)の将軍が癒されるという出来事です。(列王記下5章1節~)彼は重い皮膚病を患っていた異邦人でしたが、妻の召使であるユダヤ人の娘が“預言者エリシャに会えば治してもらえます”と進言するのです。それを聞いたナアマンはその言葉どおりにエリシャに会いに行くと、エリシャは使いの者を通じて、「ヨルダン川で七度、身を洗いなさい(浸しなさい)そうすれば体は元通り清くなります」と言うのです。

初めナアマンは「そんな簡単なことで!もっと良い川があるだろうに!」と憤慨しますが、家来が諫めることで、彼は気持ちを切り替え、素直に、ヨルダン川で七度身を洗うのです。すると、驚いたことに、彼の体は元通り(正確には小さい子どものような体)になるのです。この癒しの水についても、「汚れを清める」という点で似ておりますが、は、焦点は神に選ばれた預言者の言葉に従ったという点、つまり、ヨルダン川に癒す力があるのではなく、また、ナアマンの信仰も大事なんですが、「ヨルダン川に身を浸せ。そうすれば治る」という神に遣わされた預言者の言葉どおりになったという点です。

私は、思うのですが、この出来事を知った人の何人かは、同じように、ヨルダン川に身を浸しに行ったのではないかと思います。

でも、奇跡が起こらない限り、誰も癒さることはなかったと思います。

イエス様の時代、エルサレムの神殿の近くに水が湧き出る池がありました。(ヨハネによる福音書5章:ベトザタの池での話)。

そこには、多くの病人が横たわっていました。なぜなら、特別な時に、そこに入るとどんな病でも癒されるという伝説があったからなんですね。

でも、どうなんでしょうか。奇跡的に治ることもあったかも知れませんが、やはり、水はやはり水なんですよね。でも、そこで何が起こったのかと言いますと、イエス様が、三十八年間病気に苦しんでいた人に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」とおっしゃると、彼は治ったんです。

イエス様のお言葉によって癒されたんです。同じヨハネは、もう一つ、盲人をイエス様が癒す話を書いています。彼は生まれつき目が見えなかったのですが、イエス様が土をこねて目に塗り、そして、シロアムという池(こちらも神殿の近くにある池)で目を洗いなさいと命じられるんです。

彼がそのとおりシロアムという所で目を洗うと、目が見えるようになるんです。病気、特に〔治らない病〕や〔生まれつきのもの〕が癒えないのは、その人が悪いのではなくて、〔罪人であり〕〔神と離れている人間〕にとって避けられない〔定め〕のようなものです。しかし、イエス様は、それを、言葉によって(力ある神の御言葉によって)癒されるんです。さて、ここまで、「清めの水」「癒しの水」についてお話し致しましたが、共通しているのは、「水は水でしかない」ということです。しかし、そこに「神の命令や指示」があり「神の言葉と結びついた水」である時、そこには、神の業が働くのです。

さて、聖書には、もう一つ、「信仰」と「水」についての話があります。それは「生まれ変わりの洗い」です。洗礼者ヨハネという人物をご存じかと思います。イエス様と同時代に生まれた人で神に遣わされた人です。

洗礼者ヨハネは、イスラエルの民に向かって「悔い改めよ」と言って洗礼をイスラエルの民に施していました。神様の前にへりくだり、罪を悔い、日々の行いを反省し、生き方を改める決意を表明させていたんです。

彼は、ユダヤ人に洗礼を施していました。つまり、ユダヤ教に改宗させるためでも、また、自分達の教団に所属するように洗礼を施していたのでもありません。洗礼者ヨハネは自分の洗礼についてこう民に語っていました。

わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。(マルコによる福音書1章8節)洗礼者ヨハネの洗礼は「悔い改めますという決意を表明する」しるしとして洗礼を受けさせていました。

「これまでの自分」と「新しい生き方をする自分」この決意を迫るものでした。ここに「神さまの命令」はありませんし、「神のみ言葉と結びついた水」でもありません。しかし「イエス様のために道を備えさせる洗礼」ではありました。

彼の洗礼は、後に続く方(イエス・キリスト)の洗礼(聖霊による洗礼)に期待させるもの(心の準備をさせるもの)でした。では、イエス様は、ご自身の洗礼について何とおっしゃっているでしょうか。それは「生まれ変わりの洗礼」です。イエス様はニコデモにこうおっしゃっています。

「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネによる福音書3章3節)

「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネによる福音書3章5節)

イエス様は、「神の国」に入るために「再び生まれること」を要求されました。罪人として生まれた私たちは、そのままでは駄目なんです。

「心や気持ちの変化や決意」では無理なんです。

霊(神)によって「変えて頂かなくてはならない」とイエス様はおっしゃったのです。私たちが受けた洗礼は、確かに、古い自分に死に、新しい私たちとして変えて頂きたいという信仰がとても大事です。しかし、勘違いしてはならないのは、その信仰によって、私たちは神の国に入れるのではなくて、実際に、洗礼の水によって変えて頂くことによって、生まれ変わることができるのです。

ルターは小教理問答の中で、洗礼についてこういう風に言っています。

“洗礼とは何ですか。”との問いに、“洗礼とは、単なる水だけではなく、神の命令に含まれ、神のことばと結びついた水です”と、答えています。

ルターは、「洗礼」に何を見ているのかと言いますと「水」を見ているのです。しかも、神の命令と言葉が添えられている水を見ているんです。

先ほどの話を思い出してください。ナアマンはどうして、癒されたのでしょうか?ヨルダン川の水が良かったのでしょうか?そうではなくて、「七度身を浸せ」という命令「そうすれば清くなる」という神の言葉がそうさせました。

幕屋で仕える祭司はどうして死なずに済んだのでしょうか?それは、「手足を洗え」という神の命令、そして、「そうすれば死なずに済む」という神の言葉があったからです。全てにおいて、従う意志、つまり信仰はとても大事なものでした。しかし、その信仰は、あくまで約束を受け取る手であって、実際に変化を及ぼすのは、神の命令と神の言葉があるからです。

洗礼は神の恵み、神の業です。教会への入会儀式ではありません。

(使徒言行録でフィリポが施した、エチオピアの高官の話でも判ります)。

教会で行われる洗礼は、確かに、その教会の信者になることを意味しますが、厳密に言えば、イエス・キリストと一つとなる、聖霊と一つとなるということなのです。イエス様は、十字架で私たちの全ての罪を背負って(神さまに罰せられて)死んでくださいました。イエス様の血は、全ての罪の赦しを与える血です。その恵みはどのようにして私たちの手にやってくるのでしょうか?

それが洗礼です。黙示録にはこうあります。命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。(黙示録22章14節)「命の木」とはエデンの園の中央に生えていた木です。

その木の所に戻るために自分の衣をどう洗えば良いのでしょうか。

同じ黙示録にこう書いてあります。すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。(黙示録7章13節~14節)

小羊の血とはイエス・キリストの血です。その血によって罪赦された者は神の目には白い衣を着た存在となっているのです。それは、洗礼を受けた時からそうなんです。皆さまは、洗礼を受けた時、どのような思いでお受けになったでしょうか。中には、「物心ついた時には、洗礼を受けていました」という人もいらっしゃるかと思います。自分の意志で洗礼をお受けになった人であれば、「新しい命を求めて」洗礼を受けようと思われたことと思います。

幼児洗礼を受けたかたは、そのような「新しい命を求めて」ということはなかったでしょう。しかし、洗礼盤の前に連れてきた親、また、教会の信徒の方、さらには、牧師は、「この子が新しく生まれ変わる。神の命令とみ言葉がこの子の古い人を滅ぼし、新しい人として生まれ変わらせてくださる」

そういった神の御業を期待して洗礼を施し、また、見守っているのです。

今日、読みました、ローマの信徒への手紙で、パウロは何度も〔古い人が葬られ〕ることと〔神が新しい命に生かして(復活)〕くださることを書いています。これは、確かにそのような思いで洗礼を受け取り、日々の行いを大事にしましょう。という意味でもありますが、実際には、み言葉による生まれ変わりを言っているのです。パウロはテトスへの手紙でこう書いています。

しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

(テトスへの手紙3章4節~5節)

皆さまは、色々な思いで洗礼をお受けになったと思います。

しかし、忘れないで欲しいのは、洗礼をお受けになった時、その信仰が皆さまを変えたのではありません。神さまが、新しい命へと生まれ変わらせてくださったのです。皆さまの、新しい命(新しい生き方)を欲する思いを神さまが喜んでくださり、皆さまをキリストと同じ様に古い人を滅ぼし、新しい命へと復活させてくださったのです。