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おはようございます。
先日、中学一年生の息子がクラブで足を挫いて帰ってきました。
初めて足を挫く経験をしたからでしょう。結構、痛がっていました。
次の日どうなるかなと思いましたが、学校まで家内が送って行き、帰りには家に連絡するように伝えましたが自力で帰ってきました。
実は、挫いた日にはクラブの先生が、わざわざ家まで車で送ってくださったんですね。そして、次の日、息子は自力で帰って来たのですが(担任の先生は送ってあげるから帰りしなに待っておくように)と言ってくださっていたようです。良い先生に恵まれているなと思いました。学校では、先生と生徒という関係です。その関係性からすると、家に送ってあげるというのは、必ずしもしなければいけないことではありません。でも、先生は優しさから、息子を送ってくださったのです。(担任の先生も送ってくださろうとしたのです)
聖書ではこのような、字義道理の関係性、つまり、“これ以上はする義務はありません“という関係性を越えて何かをしてあげることを現す単語があります。それをヘブル語で「ヘセド」と言います。聖書では「恵み」と訳されたり「慈しみ」「憐れみ」と訳されたり「誠実」と訳されたりします。
つまり、本来ならばする必要のないことであっても、その立場から、そして、その人の優しさから、相手に対して愛情を注ぐことをヘブル語では「ヘセド」と言うんです。学校の先生がそうやって、怪我をしたときに、送ってくれるって嬉しいじゃないですか?そういった先生がずっと担任になってくれたら嬉しいと思います。これが神の姿ととても似ているのです。
皆さまよくご存じの詩編23編6節にこう書いてあります。
命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、
生涯、そこに留まるであろう。ここで「恵みと慈しみがいつもわたしを追う」とありますが、「慈しみ」と訳されている単語が「ヘセド」なのです。
神の「ヘセド」は、命ある限りわたしを追ってくる・・そう実感して、この詩を書いた人は喜んでいるのです。神と人間との関係性を考えたときに、神は聖なる方であるので、罪人とは交わることはない。これは間違った考え方ではありません。汚れた人に対して神が「触れてもいけない、近づいてはいけない。」と言っても誰も「それは間違っている」とは言いません。でも、これを越えて、罪人を愛し、罪人を招き、罪人のために自らの命を捨てた、これが、神の愛(アハバー)であり、憐れみ・慈しみ・恵み(ヘセド)でもあるのです。
普通、そのような憐れみは嬉しいはずですが、その神「ヘセド」の姿が何故か気に食わない人たちがいたのです。それは、自分こそ正しい人間だ、神はこの正しい私を選び、愛し、救ってくださると考える人たちだったのです。
今日の聖書箇所、マタイによる福音書9書10節を見ますと、イエスさまが徴税人や罪人たちと一緒に食事をしているのを見てファリサイ派の人たちが「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言ったと書かれています。妬みからファリサイ派の人たちは、神の御子イエス・キリストを十字架につけて殺してしまいました。しかし、神は、彼らを滅ぼすことなく、彼らのしたことを善に変え、イエス・キリストの尊い血を、全ての人を救う命となさったのでした。最後に「ヘセド」というヘブル語についてもう一度お話しして終わりたいと思います。「ヘセド」という単語は、親と子、主人と僕、また、夫婦や友人同士など「人と人とを結ぶ愛の絆」のことを言います。
人と人とを結ぶ絆。この絆は、みなさまもご経験あるかと思いますが、愛し逢う人の姿は麗しいですよね。でも、一方がそっぽを向いた時、裏切った時にはどうでしょうか。ここで、あの愛し合う関係が終われば、それは「契約」のようなものです。しかし、そこに「ヘセド(愛の絆)」があると、片方は、相手を「はい終わり」と捨てるのではなくて回復しようと願い耐え忍びます。
この「契約」を越えた行動「ヘセド(愛の絆)」のとき、本当の愛、素敵な姿が現れてくるのです。神と人との関係・・・。人は「罪人のような私を神が愛してくれるはずがない」「こんな人生を与える神は“私を愛していない”」そのように誤解してしまうものです。しかし、神は「わたしがあなたから離れようとしているのではない。むしろ、あなたがわたしを諦め、わたしから離れようとしているのです」そうおっしゃっておられるのです。
わたしが喜ぶのは、愛(ヘセド)であって、いけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くしす捧げものではない。(ホセア書6章6節)
イエスさまは、「信仰があなたを救った」とおっしゃいました。
神さまが喜ばれるのは、文字による「契約関係」を越えた、絆による「誠実な関係」です。信仰も形だけではなく、神さまに対する信頼が必要です。
私たちが、誠実に神さまと交わることも大事です。
そういったことによって、私たちは神さまと深い関係に入っていくことが出来るのです。そうなった時に、誰もがわかるのは、聖書がいう「契約」というのは、形式的なことではなく、神と私との誠実に愛し合うことなんだと気づいてくるんですね。最初に息子を送ってくださった先生の話をしました。
皆さまは、色々な先生が担任になられたと思います。なかでも、優しい先生と出会われた経験もおありかと思います。その先生のことはいい思い出になっているのでないでしょうか。私たちの神さまは、普通と違う神さまで、本当に親身になって私たちといつも接してくださる神さまだということを今日、覚えて頂ければと思います。
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