宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ヨハネによる福音書3章1節~21節


 「救いの教会」

説教者  江利口 功 牧師

 

 おはようございます。みなさまは、“自分らしさ”って考えたことありますか?社会生活が長年続くと“自分らしさ”を失っていること多いと思います。そういう状態の時って、子どもが無邪気にキャッキャ言いながら走り回っているのを見ると、羨ましく思うものです。“自分らしく生きる”これは忘れがちですが、とても大事なことだと思います。“自分らしく生きる”というのは、ある意味、“子どもらしさ”と似ていて自分の感情に素直になったり、また、人や社会通年に縛られず、ありのままに生きる生き方(出せる)だと思います。

もちろん「自分のわがままを通す」という意味ではなく、社会に悪い影響を与えない範囲で「わたしはわたし」という考えを大切にする生き方だと思います。ただし、日本人は社会を一枚の絵だとすると、一人一人が「自分はジグゾーパズルの一つのピース」のように考えてしまう傾向があるので、いつも、全体の中で自分の個性を出すことを控えたり、役割を演じたりする癖があると思います。そのため、他人の評価をいつも気にしてしまうので、外国人と異なり、“自分らしさ”を大切にするのが下手なのが日本人だと思います。

皆さまは、自分らしく生きることが出来ていますか?

今週は先週に引き続き、聖霊なる神さまについてお話ししたいと思います。聖霊なる神さまは、私たちのために何をしてくださる神さまなのか?ということを考える時に使徒信条が大事になってきます。私たちは使徒信条で父なる神、子なる神、聖霊なる神(三位一体の神それぞれ)について告白しているのですが、聖霊なる神さまについて、こう告白しています。我は聖霊を信ず、また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、永遠のいのちを信ず聖霊なる神さまの御業というのは何かを言いますと、一言で言えば、「(ご自身と同じ様に神聖に預からせてくださる)私たちをも聖なる聖いものへと変えてくださるお方」です。聖霊は、私たちの目を開き、イエス様のもとへ招き、そして、イエス様が十字架で身代わりとなってくださったことによる罪の赦しを私たちに与え、そして、死と悪魔に対する勝利を私たちのものとしてくださるということです。そのことを通して、本当の私たち(神に創造された人間の姿)に回復してくださるのです。一般的には「聖化」してくださる神です。使徒信条で、「聖なる公同の教会」「聖徒の交わり」という言葉を使いますが、これらは同じようなことを言っていて、「聖なる公同の教会」とは、会堂のことを言っているのではなくて、私たちのこの集まり(群れ・回復された者の集まり)さらには世界中にあるイエス様を羊飼いとしたときに、全ての羊の群れのことを「聖なる公同の教会」という風に言っています。

ですので、建物のことではないんですね。また、「聖徒の交わり」というのは、人間同士の交流の事を言っているのではなく、大きな意味で、キリストの羊の群れのことを「聖なる公同の教会」と抽象的に言っているのだとすれば、「聖徒の交わり」というのは、その羊それぞれが互いに、また神さまとの関係において「愛し」「愛される」関係を持つことを「聖徒の交わり」という風に考えていただければと思います。私たちは、聖霊の働きによって、大きなキリスト教会(イエス様を信じる者たちの群れ)に加えられ、そして、個々の会衆に属しながらそこで「聖徒の交わり」に生きるものとなります。

勿論、世が教える生き方とは違い、神の子として生きる(本当の生き方)を、聖書を通して学び、そして、新しい価値観で生きるように変えられて行きます。言い換えれば、これまでは、「世」という全く違うコミュニティーのジグゾーパズルの一ピースとして生きていたのですが、神の民の集まりに加わってからは、造り主である神さまと交わり、また、神さまの声を聴きながら、聖書の価値観を共有する人たちと共に、新しいジグゾーパズルの一ピースとして生きるものとなるのです。そういう意味では、教会という建物は、羊の囲いのようなものなのかもしれません。しかし、その囲いに例えられる教会の中には何があるのかと言いますと、その中心にイエス・キリストの言葉があり、また、罪の赦しである洗礼が施され、また、聖餐という命の糧を頂くのです。

つまり、世の中において、この建物(囲い)、教会の中に神さまが準備してくださっている救いがあるということになります。勿論、この教会というのは、仮庵であって、将来、イエス・キリストの再臨と共に、私たちは本当の神の国へと招かれ、さらには、からだが復活し、真の神の国で、神と共に永遠に生きることになるのです。それまで、聖霊なる神は、一人一人を神の羊の群れへと導き加え入れながら、それぞれの教会で、一人一人の命を養い続けてくださるわけです。教会とは何ですか?と言われれば、いのち溢れる人たちが(永遠のいのちを持つ人たちが)、いのちを養う場所という風に言えるかと思います。

さて、今日、ヨハネによる福音書をお読みしましたが、ここでは三位一体の神さまの御業が全部描かれているんですね。父なる神さまについては、こう書かれていますよね。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

神さまがどれほど私たちを愛してくださったのか・・・それは、御子をお与えになるほどであった・・・。ヨハネはそう記しているわけです。

イエス様ご自身が、私たちのために犠牲となられる前に、身を引き裂くほどの神の痛み(決断・愛)があった・・・それが愛する御子の命を世に与えるということでした。それほどまでの愛が私たちに向けられているということになります。また、イエス様は、そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。とあるように十字架でご自身のいのちを私たちのためにささげてくださったのですが、「敵を愛しなさい」と教えがありますが、イエス様こそ「彼らは何をしているのか分からないのです」ととりなしをしながら、神に背く者たちのために死んでくださったのです。

イエス様は、人間の罪、神の怒りに対する宥め者となるために、自らの命を犠牲にすることを望まれたのでした。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。とありますが、“神の愛(恵み)はいつも私たちの信仰や行いや義務に先行している”んですね。エデンの園で善悪の知識の木から取って食べてはならないと神はおっしゃいましたが、その前に自然を造り、生き物を造り、そして、人を造りそして彼らを祝福したと書かれてありますが、人のために、最高の環境を作って、「産めよ 増えよ 地に満ちよ・・・」と祝福してくださったのが神でした。それだけではありません。アブラハムに対しても子孫を増やし、祝福することを先に約束されていました。アブラハムはそれを信じるだけで良かったのです。割礼は、条件ではなく、祝福を受ける民である証しのようなものでしかありませんでした。また、出エジプトの出来事(シナイ山での十戒の授与)もそうでした。先に神さまはイスラエルの民をエジプトから導き出し、乳と蜜の溢れる土地(カナン)へ連れて行くと決めておられました。

そのうえで、十戒を守りなさいという命令を与えておられるのです。

聖書でいう神の契約は、神の愛に対する応答のことを言っているんですね。

聖書は「愛」について書かれた書物ですが、それは、先行する神の愛とその愛に対して誠実であることが私たちの神に対する愛だと言うのです。

神の歴史の中で最後に示された神の愛は、愛する独り子を世に与えるという、痛みを伴う愛でした。そして、父なる神の愛のご計画通り、ご自身の命を捧げようとした、イエスキリストの愛を信じること・・・。それが私たちに求められている「愛(誠実)」なのです。今日、初めに、「自分らしさ」「自分らしく生きる」ということをお話ししましたが、「人間らしく生きる」ということを最後にお話ししたいと思います。「人間らしく生きる」とは、神が「我々に似せて人を造ろう」とおっしゃって、造ってくださった「人間の姿」らしく生きることです。言い換えれば、「神の子らしく生きる」ということになるかと思います。先週、ある牧師先生の詩を紹介したかと思います。

天の父さま、どんな不幸を吸っても、吐く息は感謝でありますように、すべては恵みの呼吸ですから私は、数週間、この詩を意識して生活してきました。

不安なこと、心配なこと、辛いことがあると、周りを見渡し「恵みを探そう」と意識していました。すると、不思議ですね、私は、沢山の恵みに囲まれているのが判りました。勿論、もっともっと、あるのだと思います。

わたしは、神さまに、また、周りの人に愛されているなって思いました。

「自分は不幸だ」とか「不服に」思っているだけで、実は、探してみると、周りは恵みでいっぱいなんですね。そう言った、祝福に気づくことも、クリスチャンとなったから(イエス様の羊の群れに属するようになったから)なんですよね。聖霊なる神さまは、いつも、私たちに「恵みでいっぱいであること」、また、「愛に生きるように」誘導してくださっているんですね。

父なる神の愛、御子イエス・キリストの愛について、今日の聖書箇所で描かれていますが、聖霊なる神さまも、三位一体の神ですので、愛の神なのです。

そのことも忘れないでください。

そして、ガラテヤの信徒への手紙5章に、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」とありますが、それを求めて生きることも忘れないで欲しいと思います。聖霊なる神も愛の神です。

その愛の神が、今、私たちの内に(もしくは共に)いてくださいます。

私たちと共にいてくださり、私たちを日々「聖化」してくださっています。

普段、聖霊を意識することないかと思いますが、今も、私たちを聖化しようと一生懸命働きかけてくださっています。時に、「自分らしく生きる」選択が大事なように、時に意識して「神の子らしく生きる」ことを選択して欲しいと思います。なぜなら、私たちが聖なるものへと変えられて行くのが、愛の神の御業(また願い)だからです。ここは、救われた者が集まってくる場所です。

この教会という建物の中にイエス様がいらっしゃり、聖霊がいらっしゃり、私たちをこの世から分けて呼び集め、礼拝と通して古いわたしを新しく変えてくださっているのです。