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本日の聖書箇所、13節に、「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた」とあります。
この「来られた」は、単にどこそこへ来た、という言葉ではありません。
3章1節に、「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて」とありましたが「現れて」と原語では同じ言葉です。イエス・キリストの道備えをする洗礼者ヨハネが先ず現れ、次いでいよいよ救い主であるイエス様が現れた、ということをマタイは語っているのです。このように現れた救い主であるイエス様は真っ先に何をなさったのか・・・。先ずなさったのは、ヨハネから洗礼を受けることでした。 ヨハネは、ユダヤの荒れ野のヨルダン川の畔で、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語り、人々に、悔い改めの印である洗礼を授けていました。
洗礼を受けるために、人々はヨハネのもとで、自分の罪を告白し、神様の赦しを祈り求めたのです。つまり洗礼は、罪人が、悔い改めて神様の赦しを受けることを現わす象徴的な儀式です。ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとした、ということが14節に語られています。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と彼は言っています。つまり、これでは立場が逆です、ということです。
ヨハネは、11節で、自分の後に、自分より優れている方が来られる、と語っていました。自分はその方のために道を整える者に過ぎないという自覚をヨハネははっきりと持っていたのです。自分の後から来るこの方こそが、本当の意味で洗礼をお授けになる方だということです。その方がいよいよ現れた、ヨハネはイエス様を見たとたんに、この方こそその人だということが分かったのです。ところがイエス様が、ヨハネから洗礼を受けようとされます。
あわててヨハネは、それでは立場が逆ですと言ったのです。
ヨハネがこのように、イエス様の受洗を思いとどまらせようとしたことは、マタイ福音書のみが語っています。「これでは立場が逆です」と言ったヨハネに対してイエス様はこのようにお答えになりました。
15節、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。イエス様はここで、「正しいことをすべて行おう」と言っておられるのです。この「正しいこと」という言葉は、他の所では「義」と訳されている言葉です。5章の10節に「義のために迫害される人々は幸いである」とあるその「義」です。5章20節には「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とあります。この「義」も同じ言葉です。
これらの箇所を通してわかることは、この「義」という言葉が、人間が行うべき正しいこと、という意味で使われているということです。
イエス様はここで、その義を行おう、人間としてなすべきことをしよう、と言っておられるのです。これが、イエス様がヨハネから悔い改めの印である洗礼を受けることの意味なのです。イエス様が洗礼をお受けになったのは、それがイエス様にとって必要だったからではなくて、それが人間として正しい、なすべきことだからなのです。イエス様は、一人の人間として、正しい、なすべきことを全て行われる、それがイエス様の受洗の意味です。
神様のみ前に罪を告白して、悔い改め、赦しを願うことは、人間が、人間として生きる上で最も基本的な、なすべきことなのです。
イエス・キリストは、そのことを、私たちの先頭に立ってされたのです。
ヨハネは言われた通り、イエス様に洗礼を授けました。
ヨルダン川の水に全身をどっぷりと浸し、そして出て来るという洗礼です。
イエス様が水から上がられると、「天がイエスに向かって開いた」と16節にあります。そしてイエス様は、「神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」のです。ここは、マルコによる福音書と同じ書き方になっています。洗礼を受けたイエス様に、神の霊、聖霊が降ったのです。
その時天から聞こえた声が次の17節に語られていますが、ここは、マルコやルカとマタイでは書き方が違っています。マルコとルカにおいては、天からの声は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」でした。
マタイによる福音書ではそれが「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」となっています。両者の違いは、これが誰に対して語られた言葉であるか、という点です。マルコとルカの方では、「あなたは」とイエス様ご自身に対する言葉となっています。つまり、聖霊が降り、父なる神様からイエス様に「あなたはわたしの愛する子である」という宣言が与えられたのです。
それではマタイにおいて「これはわたしの愛する子」と言われていることの意味は何なのでしょうか。こちらの場合には、語られている相手はイエス様ではなくて、聖書を読んでいる人たち、御言葉を聴いている人たちです。
元々、マルコ、ルカの「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」マタイの「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」は詩編2編7節とイザヤ書42章1節とつながりの深い御言葉です。
この二つの御言葉を合体したと言ってもいいと思います。
詩編2編7節には「お前は・・・」つまり「あなたは・・・」です。
詩編2編7節に重きを置きますと「あなたは」となりイザヤ書42編1節には「見よ、わたしの僕・・・」と始まります。「見よ、これがわたしの僕である」イザヤ書に重きを置きますと「これは」になるのです。このイザヤ42章以降に、「主の僕の歌」と呼ばれる部分を4箇所に亘って語っていきます。
その最後、クライマックスに当たるのが、53章です。そこには、主の僕が、人々の罪を背負って、苦しみを受け、罪人の一人に数えられて、殺される、そのことが、多くの人の罪の赦しのためのとりなし、贖いの業となり、その僕の受けた傷、苦しみによって、救いが与えられる、ということが語られていきます。神様の御心に適う者、主の僕はそのように、自らの苦しみと死とによって人々の罪を赦し、救いを与えて下さるのです。それ故にその方は、42章3節にあるように「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことなく」救いを実現させる方なのです。その主の僕こそ、イエス・キリストであり、しかもそのイエス・キリストは同時に、神様の愛する独り子であられる、神様がご自分の独り子を、私たちの罪を背負って死んで下さる僕としてこの世に遣わして下さったのだ、ということが、ここに示されているのです。
イザヤ書が語るこの主の僕とのつながりを見つめる時に、イエス様がここでヨハネから悔い改めの洗礼を受けられたことの意味がさらに明らかになります。イエス様は、人間として正しい、なすべきことである悔い改めを私たちの先頭に立ってして下さった、それがこの受洗の意味だと学びました。
それはさらに、イエス様が、私たちの罪を、ご自分の身に引き受け、それを代わって担って下さるということでもあるのです。
神さまのみ前に罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けるという、私たちがしなければならない一番大切なことを真っ先に行う方としてこの世に現れて下さったイエス様が、その生涯の最後には、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。そこに、神様の赦しの恵みが与えられました。
罪を告白して悔い改めの洗礼を受けるのは、神様の赦しを願い求める為です。
人間の悔い改めが人を救うのではありません。
そこに神様の赦しが与えられることが救いになるのです。
その赦しを、神様の愛する子、御心に適う者であられるイエス様が、十字架の死と復活とによって、私たちのために確立して下さったのです。
そしてその赦しを私たちに与えて下さるために、イエス様は洗礼の恵みを定めて下さったのです。ヨハネから悔い改めの洗礼を受け、私たちの悔い改めの先頭に立って下さったイエス様は、十字架の死と復活とを通して、いよいよ、私たちに洗礼を授ける方としての権威を与えられたのです。
そのことは、この福音書の最後、28章18節以下に語られています。
「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」。 今や私たちには、このイエス・キリストのもとでの、父と子と聖霊の名による洗礼が与えられています。その洗礼は、ヨハネが授けていた悔い改めの印である洗礼を受け継ぎつつ、悔い改めの印であるのみでなく、イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しと、復活による新しい命の洗礼です。そして教会は、その洗礼を受けた者たちの共同体なのです。
神さまが与えようとしてくださっている「永遠の命」は「不老不死」ではありません。なぜなら、イエスさまは多くの人の病を癒し、死んだ人、死んで数日たった人まで蘇らされました。つまり人類は、今から約2000年前、イエスさまを通して人が「不老不死」の姿になっているのを見ているのです。神さまが私たちに与えようとしてくださっているのは「不老不死」ではないのです。
神さまが私たちに与えようとされている「永遠の命」とは何か。それは、今日の聖書箇所にはっきりと書かれています。
ヨハネによる福音書17章2,3節をご覧ください。
こう書かれています。
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あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ17:3)
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聖書は、「永遠の命」とはイエス・キリストを知ることだと言います。間違えないで欲しいのは、「永遠の命」とは、イエスさまを知ること(信じるこ)とによって与えられる、死後も生き続ける命のことではありません。死んだ後の霊魂の行先についてのことではありません。神さまは、私たちが「信じるか・信じないか」を見て「信じたら永遠の命をあげましょう」、「信じなければ永遠の命をあげません」ということをおっしゃっているのではありません。神さまは「私たちに永遠の命を与えよう」とお考えになっておられるのです。だから、イエスさまを世に遣わされたのです。そのイエスさまを知った時に、内に起こる変化(イエスさまと一つとなることによって起こる変化)、聖霊が私たちの内に住むことによって起こる変化。それが「永遠の命」です。
「永遠の命」は未来の話しではなく、
永遠の神・不変の神との関係が回復した状態のこと言います。
ヨハネによる福音書4章を見ますと、イエスさまは、井戸の横で一人の女性と出会われましたよね。その女性は、暑いさなか、井戸の水を汲みに来ていました。生きるために彼女は汲みに来なくてはなりませんでした。その女性にイエスさまは何とおっしゃったのかと言いますと、
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「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13~14)
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そうおっしゃったのです。この女性は、生きるために苦しい日々を過ごしていました(人の視線に苦しみ暑い日中に水を汲んでいました)。ここでイエスさまが「私を信じるものは死んだあとに永遠に生きますよ」という救いを伝えたとしてもこの女性にとっては何の喜びにもなりませんよね。イエスさまは「永遠に命に至る水がわき出る」とおっしゃっておられますよね。イエスさまは、ご自身に霊的なものを見出し、その永遠性を欲し、くださいと願う者には、今その変化が生じる、そしてその状態が永遠に続くとおっしゃっておられるのです。つまり“今から始まる変化”を教えておられます。
ここまでのことをまとめますと、「永遠の命」は「不老不死」のことではありません。「魂の永続性」のことでもありません。それは、神と一つとなるという出来事(状態)です。信じた時に回復するものなのです。
そして、「永遠の命」を神は与えようと思って御子を遣わした神の無償の贈り物であるということです。何より神は“今”「永遠の命」の状態に生きるということを願っておられます。
さえ、最後に、「永遠の命」と「愛」についてお話ししたいと思います。
わたしは幼い時の自分のことを考えて思ったのですが、私たちは「死ぬ存在」だからこそ「永遠の命」に目を向けるのだと思います。誰もが等しく死ぬことが定められているからこそ、誰もが「永遠」について考えるのだと思います。誰もが老いていくので、永遠で不変の神の存在を求めるのだと思います。そして、「死ぬ存在」だからこそ命を尊く感じることがきるのだと思います。そのために神さまは「不老不死」を望まれないのだと思います。
教会では、信徒の方の霊性を高めるために、礼拝に必ず出席しましょう、神に正しくお捧げ(献金)しましょう、日々お祈りをしましょう、愛に生きるように努めましょうと言います。礼拝に必ず出席する人、神に正しくお捧げをする人、日々お祈りする人、愛に生きる人は必ず祝福された人生を歩みます。これは聖書の約束です。詩篇にこうあります。
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いかに幸いなことか神に逆らう者の計らいに従って歩まず罪ある者の道にとどまらず傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
(詩篇1:1~3)
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皆さまご経験あるかと思いますが、礼拝に出席する以上に、献金ってハードル高いですよね。なぜなら、お金には限りがあるからです。ですので、献金は神さまに対する「信頼」がないとできないんです。
イエスさまの前に「永遠の命を得るために(持つために)何をしたら良いでしょうか?」と尋ねてきた裕福な青年がいましたよね。彼は、お金が減ることで心配になるということのない人だったと思います。律法を大切に守ってきた人ですので、10分の1を捧げることは出来たと思います。でも、イエスさまがおっしゃったのは、全財産を貧しい人に施し、私についてきなさいとおっしゃいました。もちろん、彼はできませんでした。尽きぬ富を持っている人の恐怖は、全てを失うことなんです。全てを捧げるには、本当の神への信頼がないとできないことなのです。
これを「命」に当てはめれば、愛について見えてきます。命には限りがあります。だからこそ、人のために、自分の人生を犠牲する生き方は、愛がないとできないのです。では、人が「不老不死」を手に入れたとすればどうでしょうか。その時こそ、不老不死を捨てる(命を犠牲にする)のは、本当の愛がないとできないのがわかるかと思います。
イエスさまはこうおっしゃいました。
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わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネ15:12~3)
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命に限りあるからこそ、その命を犠牲にすること、また、捨てるところに大きな愛があります。まして、永遠の命を捨てるとなれば、そこには本当に大きな愛が働くのです。それが父なる神とイエス・キリストでした。
父なる神さまは、ご自身の愛する御子(永遠の命もつ独り子イエス・キリスト)を世に与えようとご計画されました。「永遠の命」を持つイエスさまにその命を捨てるようご計画されたのです。ここに大きな愛があります。また、イエスさまご自身は父なる神を愛し、そのみ旨に従い、ご自身の永遠の命を私たちのために差し出してくださいました。ここに本当に大きな愛があります。
私たちはイエスさまによって、神の愛を知っただけでなく、その愛が受け取ったのです。それだけではなくて、神の命が私たちの中で命となったのです。神の命が私たちに与えられたのです。
次週はペンテコステで、聖霊が弟子達のところに降ってきた時の話を見ます。その弟子たちから、父と子と聖霊の名による洗礼が広がっていくのですが、その洗礼も、未来における永遠の命の約束ではなくて、聖霊がその人の内に住むということの始まりを言うんです。
私たちが〔老いて土に返るからこそ〕、「永遠の命」とは“どういうもので”、“どこにあるのか”を求めるのです。また、本当の愛とは何かを知ることができるのです。そして、神の命が宿るようになると、今度は愛を実践する人へと変えられて行くのです。
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自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。(ヨハネ12:25)
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イエスキリストを知り、イエスキリストの贖いの愛を受け取り、神と一つとなった人(神の命を受け取った人)は、永遠の命に生きる人と“今”なります。
「永遠の命」とは、永遠の神と、変わらぬ愛の持ち主である神と一つとなっている状態なんです。「永遠の命」は、「不老不死」でも、「死んだ後の世界(魂の永続性)」という時間の話しでもありません。今、神さまと一つとなっていること、それが、「永遠の命」なんです。
私たちは、真の永遠の命を持つ神がお捨てになった命によって生きるものとされているのです。
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