おはようございます。主のご降誕を心より感謝し、賛美いたします。昨日は、多くの方と燭火礼拝を守れたことを嬉しく思っております。燭火礼拝では、クリスマスはお祝いの時というよりは、イエス・キリストが「わたしの救い主である」ということを、今一度、思いめぐらす時であるということをお伝えさせていただきました。そして、イエスさまは私たちを救うために2度来てくださる。一度目は、罪の赦しを得させるため、2度目は、この世界を裁き、新しい世界へと私たちを迎え入れるためです。その意味では、私たちは、今、イエスさまの再臨を待ち望む民なのですということもお話しいたしました。
さて、今日の聖書箇所ですが、イエスさまがお生まれになる何か月も前の話しです。マリアが聖霊によって身ごもったということをヨセフは知らされるのですが、彼は、マリアとの関係をどうしようかと悩むんですね。ヨセフとしては、まだ、マリアと結婚していないわけですから、マリアの妊娠が公になると、自分の立場もそうですが、マリアの立場も悪くなるんです。当時の律法によれば、婚約している状態で他の人の子を宿すということは、大きな罪(死罪)ですので、ヨセフとしては、マリアをそっと去らせる方を選択するのでした。そう決意したヨセフの所に、神さまから御使いが遣わされ、ヨセフに重要なことを伝えます(マタイ1:20~21)。
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「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
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御使いのメッセージは、簡単に言いますと・・・一つは、胎の子は、聖霊によって宿った子であるということ。そして、マリアを妻として向かえなさいということ。二つ目は、生まれて来る子は救い主であるということ、そして、その子の名をイエスと名付けなさいということでした。
イエスという名まえは、当時では一般的な名前ではありますが、イエスという言葉の意味は、「救い(もしくは主は救い)」という意味です。まさに、救い主としてお生まれになったイエスさまのことをもっとも適切に表現している名前となっています。
このみ告げを聞いたヨセフは、命じられたとおり、マリアを妻として迎え入れ、生まれてくる子を「イエス」と名付けました。
さて、今日、クリスマスのこの日、皆さまと考えたいことは、御使いの子の言葉です。
その子をイエスと名付けなさい。
この子は自分の民を罪から救うからである。
イエスさまは、救い主としてお生まれになりました。それは分かるのですが、「ご自分の民を『罪から救う』」というのはどういう事を意味するのでしょうか。
洗礼者ヨハネは、イエスさまのことを「世の罪を取り除く神の小羊」という風に言っています。「世の罪を取り除く」という表現は、分かりやすいと思います。しかし、「ご自分の民を『罪から救う』」というのは、じっくり考えると、意味深い言葉であることに気づきます。実際に、「ご自分の民を『罪から救う』」という、メッセージからとても大切な意味を読み取れまして、それは、
「罪という状態から私たちは助け出されなければならない存在であった」
ということなんです
私が小学生6年生の時のことなんですけど、その当時、結構仲良くしていたクラスメートの男の子がいたんです。その子はあまり、良い言葉を使わなかった子だったんですけど、知らず知らずのうちに、わたしがその子の言い方をまねするようになっていたんです。自分としては、楽しくて、同じような言葉を使って楽しんでいたのですが、それをずっと見ていた先生にとっては、気になったんでしょうね。その先生はわたしが話す話し方に対して真剣に注意してくださったんです。しかも、その子には何も言わず、私だけに注意したんです。わたしは、それからはそのような話し方はしなくなったのですが、その時は、「先生に怒られた」というイメージしかありませんでした。しかし、今思えば(言い方が悪いのですが)その子と同じようになってはいけない(あなたには相応しくない)という思いから先生はわたしを注意されたんだなぁって思います。よく、悪い友達ができることを親は嫌いますが、まさに、わたしは同じような状態だったのだと思います。
先生からすれば、私をそのような状態から助け出さなければならないと思ってくださったのだと思います。でも、当の本人(わたし)は、そのような状態になっている自分に気づいていなかったですし、また、そのことが悪い習慣であるということにも気づいていませんでした。
これは、私たちが「罪人である」ということを聖書がいう時と似ていると思います。
聖書は、人はみな「罪人」であると言います。これは人間の基準ではなく、神さまの基準からして、御心に沿わないことをする人であるということです。そういう状態になってしまっているという意味です。
もし、自分の中に、神さまと同じ判断基準があるのだとすると、神さまは私たちをそのような状態から救い出すことはなさらなかったでしょう。なぜなら、自分でそれは良くないと分かるので直すことができるからです。しかし、自分の判断基準がずれているのだとすればどうでしょうか。その人は自分は間違っていないと思っているので(そう思う事しかできないので)、自分で修正することはできません。また、自分がそのような悪い状態にどっぷりつかっていることにも気づかないのです。誰かにそれは違うと教えてもらわなければなりません。
イエスさまは十字架に付けられるとき、こうおっしゃいました。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。
このことは、何を教えているのでしょうか。これは、私達もまた自分が神さまの前に何をしているのかわからない存在なのだということなのです。
もし聖書の言葉の中で「あなたの罪の赦しを与えるためにイエスさまが十字架にかかってくださった。そのためにイエスさまがお生まれになった」と言うそのような意味だけを受け取っていたのだとすると、自分を美化している状態のままです。しかし、そうではなくて聖書が「あなたを罪から救うためにイエスさまがお生まれになってくださった」と言う言葉を受け止め、その意味を吟味するとき、あらためて、『罪に気づいていない(気づくことができない)自分の存在に気づかされる』のです。
例えば、十戒の一つ「あなたは殺してはならない」という戒めを見てもわかります。この戒めを聞いて「私は殺してはいないから大丈夫」そのように安心している人は、自分がサタンとお友達であることに気づいていないのです。「あなたは殺してはならない」とおっしゃる神さまの御心が見えてくれば(すなわち、神さまの御心と一つとなることができれば)「常に自分を犠牲にしてでも人を助けようとする人となってしまうのです」。
「恋は盲目」という言葉があります。以前にテレビで街角で若い女の人にインタビューをしていました。どのような内容のインタビューか忘れましたが、印象的だったのは、「わたしの彼氏を見て親がくだす判断は正しかったと後になって分かる(実際はもう少し違う言葉だったと思います)」という回答でした。恋をしている時は、相手の全てが良く見えるものです。また、相手の悪い所が見えず、他の人がどれだけ違うと言っても気づかないものです。養老孟司先生が以前に「恋は病気です」そんな風に言っておられました。そして、「この病を治す方法は簡単で『数日一緒に住めばすぐに治る』」そんなことを冗談でおっしゃっていました。ちなみに、わたしは、もう一つ、目が覚める薬があると思います。それは「もっといい人と出会う」ことです。
イエスさまは、今から約2000年前(紀元前4年頃)、ベツレヘムでお生まれになってくださいました。それは、私たちを罪の状態から救うためです。その状態から救い出すためです。イエスさまは十字架で私たちの罪を全部背負って死んでくださいました。そのことによって、全ての罪は許されています。イエスさまを信じる人は、罪のために永遠の滅びに至ることはありません。
しかし、イエスさまは再びこの地上に来られます。今度は、邪悪な世を裁き、滅ぼすためにです(罪の状態からではなく、罪の世界から救うためです)。そして、私たちを新しい世界に導いていってくださるのです。その時、私達から離れないサタンを完全に滅ぼされます。さらに、神さまが新しい天と地を創造され、今度は、完全に死がない世界になり、私たちは永遠に生きるようになります。
実は、人類は再び、救い主を待ち望む民となったのです。それまでは、イエスさまのご降誕の出来事をクリスマス礼拝を通して世に告げ知らせているのです(聖餐式はイエスさまの十字架の死を世に告げ知らせています)。
最後になりますが、神の世界についてお話しして終わりたいと思います。
私たちは、見えているこの世界で一生懸命、良い暮らしをしようと頑張っています。しかしそれは、神さまの目からすれば、どのように見えているのでしょうか。
もしかしたら、子宮の中だけしか知らず、それが全ての世界だと思っている胎の中の赤ちゃんが、一生懸命工夫をして良い人生を歩もうと頑張っているのと似ているのかも知れません。生まれてくれば、もっと広くて素晴らしい世界が待っているし、親は服を準備し寝るところを準備しと色々と良い環境を造って待っているのにです。
同じように(それ以上に)私達が入って行く神さまの世界は、比べることができないもっと素晴らしい世界なのです。
私たちは、この見えている世界からしか、もっと優れた世界を表現すること(想像すること)ができません。それは、母親の胎の中にいる時に、この世界を表現できるかと言えば、絶対にできないのと同じです。
そう考えると、誰もが通らなければならない死の後に待っている世界に対しても、実は発想が乏しいのです。私達はこの世界しか知りません。ですので神さまが存在している世界は私たちがイメージするのに限界があるのです。よくできたとしても、光輝き、平和で、心が平安になり、永遠に生きれる世界・・・私たちが想像できる最高の空間というのは、所詮、これほどのたんとでしか表現できないのです。ですので、神さまは「もっともっと素晴らしい世界なのですよ」と伝えたいとおもっておられるのだと思います。
神様の世界は、もっと素晴らしい世界です。だからこそ、この世界から私たちを救い出そうと必死に思っておられるのです。イエスさまはそのような素晴らしい世界から、この地上に降って来てくださったわけですが、それは、私達を本当の世界へと連れて行くためなのです。イエスさまが連れて行ってくださろうとしている世界はどのような世界なのか。私たちが次に迎え入れられる世界はどのような世界なのか。聖書は色々なこの世の言葉を使って表現してはいますが、全く表現しきれない世界が、待っているのです。私たちは、その世界を想像することすらできません。しかし、イエスさまが、命をかけて連れて行こうとされている世界なのですから、そこは、私達の想像をはるかに超えた素晴らしい世界なのです。
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