宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ルカによる福音書 1章 47~55節
詩編    42編  1~7節

 「心の喜び」

説教者  江利口 功 牧師

  喜びの声

 おはようございます。我が家の長男が大学受験をしまして、3日の土曜日にその発表がありました。高校三年間、野球だけの生活でしたので、勉強と言う勉強を全くしていませんでした。無理かなと思っていただけに、合格が分かった時には安心しました。
 近年の合格発表は、私の入試の頃と異なっていて、大抵は、パソコンやスマートフォンで合否を確認するんです。3年前の長女の合格発表の時は、パソコンの画面に受験番号がずらっと並んでいて、そこから娘の受験番号を探しました。全体が見えていて、そこから探していくという方法だったので、見つかるまでドキドキしました。しかし、息子の場合は少し違っていまして、ボタンを押した瞬間に合否が、パッと出て来るんですね。あっけなかったです。
 それでも、息子が、「受かってたわ!」と笑顔になった時、わたしと家内は、「やった~」と拍手して大喜びしました。
 「喜び」っていいですよね。暗い世の中だからこそ、喜びの出来事って、もっともっとあった方がいいと思います。

 さて、クリスマスを前に、私たちはアドベントの期間を過ごしています。アドベントとは、キリスト教会では待降節、つまり、キリストが来てくださる時を待つ期間を意味します。アドベンチャーという英語があるように、この期間はワクワクして待つという感じになるかと思います。ただし、私たちが待ちわびているのは、それは、プレゼントのような『この世的な「もらって嬉しい物」』ではなく、『霊的な意味で「神ご自身、神しかくださることができない平安(シャローム)」』なんです。
 もちろん、今年のクリスマスに何かが起こるわけではありませんので、待ち望んでいるという感覚はないのかも知れませんが、私たちはクリスマスを迎えることで、今一度、イエス・キリストに対する信仰を、喜びとして実感する、そういった、『霊的』な喜びの時(満たされるのを喜ぶ時)がクリスマスであるわけです。

 クリスチャンは、この神の平安(シャローム)をクリスマスに味わうことができる特権を持っているのです。

 今年、クリスマスを迎えるにあたり、みなさまにちょっと意識して欲しいと思うのが、「魂の飢え渇き」です。詩編42編に次のような歌があります。

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 涸れた谷に鹿が水を求めるように神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。               (詩編42編2-3節)
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 これは、かつてエルサレムの神殿で経験していた神さまとのすばらしい交わりを失ってしまった人が、その当時の喜びの時を思い起こし、「生ける神さまとの交わりを求めて」嘆いている姿を歌ったものです。ヘブル語で「魂」を意味する言葉は、「喉」をも意味しますが、それは、魂の渇望が、のどの飢え渇きと同じようなものなので、そのような意味になったのだと思います。

 私たちは、見える体と共に、魂をも持つ存在です。その魂は、いつも神さまとの交わりを必要としています。私達は、神さまとの顔と顔を合わせるような親しい交わりを失っているために、いつも、心にぽっかりと一つの空洞のようなものがあるのです。
 人は、それを満たそうと一生懸命になりますが、この世の物ではそれを満たすことができません。一時の喜びがあるのかも知れませんが、すぐに、また、渇きます。私たちが満たされなければならないのは、魂の飢え渇きであって、それを満たすことができるのは神のみなのです。しかし、そのことに気づいている人は多くありません。

 先ほどの詩編の42編ですが、6節でこう歌われています。

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 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう「御顔こそ、わたしの救い」と。
(詩編42編6節)
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 神との交わりがなく、嘆き、魂の飢え渇きを覚えている人が、どのように自分を励ましているのかと言いますと、「神を待ち望め、神は、必ず、私を救いだしてくださる」そのような信仰を持ち続けるように自分に言い聞かせているわけです。

 そのように考えると、イエスさまがおっしゃった、たとえ話が思い出されます。それは、自分の畑が豊作になった時に、自分に次のように言い聞かせた金持ちです。その愚かな金持はこう言っています。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』。』(ルカ12:18-19)
 自分の魂の本当の飢え渇きがどこから来ているのかが分からず、この世の富だけが、自分の魂の喜びであると思っている人が、いかにみじめな存在であるのかが良く分かるかと思います。

 さて、先ほど、詩編42編から、「神さまとの交わりを失った人が嘆く姿」と「神さまが救い出してくださる時を望むように自分に言い聞かせる姿」とを見ましたが、私達、人類も、同じような状態にありました。
 私たちは、罪が世に入り込み、近しい交わりを失っていました。そして、「いつ、神さまが救い出してくださるのか」、いつ「もとの状態に回復してくださるのか」そのことを待ちわびていたのです。

 その待ちわびていた、救いが実現した時が、イエス・キリストのご降誕でした。私たちはイエス・キリスト通して神を見たのです。神の救いを見たのです。

 マリアの前に、ある日、御使いが現れます。そして、彼女が神の子を身ごもると告げるのでした。もちろん、彼女は、困惑します。なぜなら、未婚の女性で(婚約の状態で)まだ、男性を知らないからです。でも、それだけではありません。マリアが困惑した理由は、なぜ、わたしのような、身分も地位も、富もないような者を、神がお選びになるというのか?その驚きでもありました。

 私達であっても、もし、天皇陛下がある日突然やってきて、あなたの家で暫く滞在したいとおっしゃったらびっくりしますよね。「部屋を片付けていないという」困惑もあるかと思いますが、それよりも、「なんで??もっと相応しい場所があるかと思います」という困惑だと思います。でも、どうでしょうか。もし、高貴な人であれば、天皇陛下が突然やって来ても、さほど驚かず、私を選んでくださって感謝します。という風に思うくらいではないでしょうか。つまり、「相応しくない者を選ばれた」という喜びよりも、「相応しい一人として私を選んでくださった」という喜びが強いかと思います。

 神と言うお方は、そのような高慢な人を好まれません。むしろ、謙遜な人、マリアのような、わたしは主のはしためですと告白するような謙遜な者のところにおいでになるのです。それだけではありません。イエス・キリストご自身も、宮殿のような王に相応しい場所でお生まれになったのではなく、粗末な、住まいとは到底思えないような場所でお生まれになりました。さらには、イエスさまは、貧しい人、目の見えない人、体の不自由な人など、この世で、取るに足りないものと深い交わりを沢山もち、そして、そのような人々を苦しみから解放されたのでした。ここに神がどのようなお方なのかが分かります。

 聖書は、私達に何を教えているのでしょうか?それは、神は、貧しい者の友であり、虐げられた者の友であり、身体の不自由な者にとって友であること。また、そのような弱い人の神となることを恥とも思わず、むしろ、そのような人々、つまり、神を待ち望む人の神となられることを望まれたということです。
 信仰深く謙遜なマリアは、エリザベトという同じく神の力によってヨハネを宿した女性のところで、次のように賛美しています。

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「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。                 (ルカ1:47―53)
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 ここで注目すべきところは、まず、マリアは、「わたしは主をあがめ」と言わずに「わたしの魂は主をあがめ」と魂の喜びとして表現しているところです。ここでは「あがめ」と訳されていますが、これは、「御名があがめられますように」という時に使う「あがめる」という単語ではなく「大喜びしています」そういう感じの意味です。つまり、マリアにとって、イエスさまを宿したことは「わたしの魂の喜び」だと言うのです。そこには、神様が、こんな神の前に貧しいわたしに目を留めてくださったという信じられないような出来事に対する喜びがあったからです。もう少し加えますと、神というお方は、このように、貧しい者と共にいることを拒まず、むしろ、喜びとなさるということを体験したからです。

 謙遜なマリアは今でも「謙遜であったという私の歴史的事実を賛美するのではなく、はしためのようなわたしを選ばれる神さまの御心に目を留めてください」と言うでしょう。とは言っても、私たちは、マリアと同じように、イエスさまによる救いの事実を、「わたしのような、み捨てられても当然のような存在に目を留めてくださって(救いをくださって)ありがとうございます」という謙遜によって、受け止めなければなりません。

 また、私たちは、イエス・キリストのご降誕、そして、十字架と復活を知っています。そのような私たちは、クリスマスを待ち望むと共に、イエス・キリストをの「再臨」を待ち望む民として、今という時を過ごしているのも忘れないでください。

 今日は、詩編の35編もお読みしました。
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 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。                  (詩編35編4~10節)
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 この詩編の言葉が成就したという意味で、マリアの讃歌の中にも同じようなことが歌われています。
 しかし、私達、新約時代に生きる私たちは、今度は、詩編の言葉ではなく、黙示録に記された言葉の成就を待っているのです。
 黙示録21章3~7節にこうあります。

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 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。
(黙示録21章3~7節)
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 もうすぐ、クリスマスです。私たちが待ちわびているのは、プレゼントのような『この世的な「もらって嬉しい物」』ではなく、『霊的な意味で「神ご自身、神しかくださることができない平安(シャローム)」』です。
 クリスマスの日、私達の『魂』は、キリストのご降誕の出来事を耳にして喜びます。私たちの信仰、「『霊』の思い」はイエスさまのお姿に満たされるのです。
 私たちはクリスマスを迎えることで、イエス・キリストに対する信仰を持っていることを喜びとして実感します。そういった、『霊的』な喜びの時(満たされるのを喜ぶ時)がクリスマスです。

 初めにお伝えしたことを繰り返しますが、クリスチャンは、この神の平安(シャローム)をクリスマスに味わうことができる特権を持っているのです。