宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ヨハネによる福音書16書28節~33節


 「勇気を出しなさい」

説教者  江利口 功 牧師

 

お早うございます。今日の説教題を“勇気を出しなさい”としました

勇気を出しなさい、この言葉を聴いて、皆さまはどんなに思われるでしょうか。勇気を出しなさい、これは根性論的な意味で「負けるな、勇気を出して戦い勝て」そういう意味ではないのです。「最後まで、神さまの力を信じて生き続ける勇気を持ちなさい」という意味なのです。

この信仰(勇気)は人生に於ける、全ての悪魔の脅し、誘惑、誘いに打ち勝つ力となるからです。更には、この世の不安、未来に対する不安、さらに言えば、死に対する不安もまた、この信仰によって平安へと変えられるのです。

最近、朝とか肌寒いですね。教会の庭は日差しがあると暖かく、庭木や芝生を触っていると心地いいです。この前、庭をぶらついている時に、幼稚園の園庭を見ながら、ふと考えました。「これから、日本の幼稚園はどうなっていくのかなあ」って。今、小学校のクラスも減ってきているし、学校の数も減ってきています。子供の数自体が減ってきていますから、「何十年か先には、のぞみ幼稚園はどうなるのかな」って思いました。

その時、私はどうしようかなって思いました。遠い未来のことではあるのでしょうが、幼稚園の未来のことを考えていると、天からの声でしょうか。

「それは、あなたの次の世代の人が考えることです。次に託された人が一番いいようにしてくれますよ。」そのような言葉が頭に浮かんできました。

私、その時にハッとしたのです。これまで、ずっと十年後、二十年後、三十年後の教会の姿を想像して、「どうするのがいいのかなあ」と、道筋立てて、何が最善かと考えて来ました。51歳になった今、十年後、二十年後、三十年後の世界って、委ねて行かなければならない世界になっている可能性があるのです。分りやすく言えば、私はこの世にいないかも知れないということです。

計画は前もって立てることは出来たとしても、それを享受する、つまり味わうとか、楽しむことは出来ない。もしくは、その状況に応じて、何かを考えることも出来ないのです。託すしかない、そのことは、少し寂しい気持ちにはなりましたが、でも、同時に、もう一つのことが判りました。

それは、神さまがいらっしゃるということは、素晴らしいことだなと。

委ねることの出来る方を知っている強みが判りました。「それは、あなたの次の世代の人が考えることです。次に託された人が一番いいようにしてくれますよ」と言って下さる支配力のある神さまの存在に安心できたのです。

どうでしょうか、私たちは、自分が天に召された後、残された者、残された環境が、どうなるかって不安になることはないでしょうか?もし、神さまを知らないのであれば、それは、良いようにも悪いようにもなる可能性があるのです。闇の力が強いのであれば、私たちの未来は目をつむってサイコロを振るようなものです。しかし、そうではありません。神さまが全てに最善を尽くして下さるのです。  最近、世界が不穏な空気に包まれているように感じませんか。どこか、悪が好きなようにのさばっているような。世界の富を少数の人が搾取し、少人数の人が世の中を支配しようとしています。貧富の差が激しくなり、虐げられる人が増えてきて、弱い人が大勢犠牲になっています。

私はそういう状況の中で、未来に不安を感じたのですが、イエス様の言葉、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」という33節の言葉によって、未来は主に託せば大丈夫だと思えるようになりました。

イエス様はこう言っておられます。「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」どうでしょうか?イエス様は「既に世に勝っている」とおっしゃっていますが、どの時点から勝利されたと思いますか。

イエス様は、神の御子として、世に来られたのですから、やはり、天から降って来られた時から、既に勝利の主として、降って来ておられるということです。しかし、その時からでしょうか?創世記に、イエス様と悪魔との戦いのことが書かれています。お前と女、お前の子孫(サタン)と女の子孫(イエス)の間にわたしは敵意を置く。彼(イエス)はお前の頭を砕き、お前(サタン)は彼のかかとを砕く。」  (創世記3章15節)

この言葉が、父なる神さまの口から語られた時、イエス様の勝利は神のみ言葉によって決定していたのです。人としてお生まれになられたイエス様は、その父なる神さまのみ言葉の上に立っておられたのです。

  さて、イエス様は、こうおっしゃっています。

わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く、(ヨハネによる福音書16章28節)

これは、まさに、十字架に架かろうとされていることを言っておられます。

この十字架での戦いが、世を支配する闇との戦いでした。

ただ、この戦いが、一人の戦いであることを言っておられます。

イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなた方が散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしを独りきりにするときが来る。いや、既に来ている。しかし、わたしは独りではない。父が、共にいてくださるからだ」(ヨハネによる福音書16書31節32節)

イエス様の十字架の受難の時、弟子たちの多くは逃げていき、残った者も、見守ることしか出来ない、どうすることも出来ない状況でした。

イエス様は独りで戦われます。でもイエス様はこうおっしゃっています。

「わたしは独りではない。何故なら、父が共にいて下さる」

これはイエス様が大事にしておられる信仰であり、私たちも後に続く必要がある信仰です。人としてのイエス様がおっしゃるのは、「肉のわたしは弱い」しかし、「父が、共にいて下さる、それがわたしの力なのです」とおっしゃるのです。「弱いときに、神の力が現れる」これは聖書の真理です。

信仰者は、この神の力を信じ、勇気をもって歩むのですが、ただ、ここで言う勝利は、時に世の勝利者の姿ではないことがあります。

今日、子供祝福式で、トランペットとピアノで演奏して戴きました。

演奏していた曲は、「鬼滅の刃」というアニメの「無限列車偏」という映画のテーマソングです。このアニメでは鬼が出て来ます。鬼といっても、もとは人間だったのです。不条理な世界の中で悲しみ、苦しんだ結果、誘われて鬼になるのです。鬼になれば、物凄い力を得ることが出来、死なないのです。

ただ、人間らしさを失ってしまうのです。その鬼に人間が立ち向かっていきます。このアニメでは、勝利とは勿論鬼を倒すことなのですが、もう一つ、「最後まで、自分の生き方を守り抜く。他の人のために生きる」この生き方を貫くことの美しさ、また、自分が死んだとしても(負けたとしても)必ず続く他の人が勝利してくれるという希望が、格好いい生き方として描かれているのです。話をもとに戻しますと、悪魔は一番何を嫌うのかと言いますと、「肉のわたしは弱い。しかし、神さまが共にいて下さるから、わたしは勝利出来る」という信仰。つまり、弱さを誇る信仰。そして、この世的な栄光や勝利に価値を見出さず、神の教える価値ある生き方に意味や価値を見出すことです。

さて、イエス様は、こう言っておられます。

これらのことを話したのは、あなた方がわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出さ意なさい。わたしは既に世に勝っている」 (ヨハネによる福音書16章33節)

ここで「平和」と訳されている単語は、皆さまもよくご存じの「シャローム」という言葉。正確にはギリシア語でエイレーネーです。

イエス様は、はっきりとこの世で信仰者の苦難があるとおっしゃっています。イエス様はこの喜びを与えたいと願っておられるのです。そのために、信仰を守り抜くようにおっしゃいます。初めに、子供が減ってきているという話をしましたが、実際には、世のキリスト教会におきましても、信徒の数は減少傾向にあります。それは、闇の力が強く、また、信仰者として生きる生き方に価値を見出せない空気になって来ているからです。しかし、この世が与える平安と、神さまが与えて下さる平安は違うのです。本当の平安、つまり、シャロームは、心の中だけのことに終わらず、現実的にも満たされた思いに至るのです。イエス様は、十字架によって、罪と死の力を無力にし、悪魔に勝利されました。イエス様が復活された朝は勝利の朝となりました。

今から約二千年前、世界は、新しい世界(時代)へと変わったのです。

今日という日も、世界が闇に包まれているようであっても、実は闇は力を失っているのです。ことわざに「負けるが勝ち」という言葉があります。

聖書的に言えば「神に委ねるが勝ち」なのです。私たちの周りは、不条理の世界ですし、自分のことだけ考え、好きなように生きることを選んだような“鬼”のような人はいないでしょうか。そのような中で信仰者は勝利しているのです。未来を全て神さまの力、支配力に委ねる勇気をもってください。