宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ヨハネによる福音書14書1節~3節

 「また遭う日まで」

説教者  江利口 功 牧師

 

本日は遠い処、またお忙しい中をご出席下さりありがとうございます。

キリスト教会では、年に一度、こうして先に天に召された兄弟姉妹のことを偲びつつ、召天者合同記念礼拝を行っています。

この礼拝は、私にとっても、とても大事な礼拝で、やはり親しかった教会員の方のことを思い出しつつ(思い起こしつつ)準備をしています。

そのようにして準備をしていますと、素晴らしい出逢いを神さまは沢山くださったのだなと、しみじみと感じるのです。

私たちはこうして故人を偲びつつ礼拝を行っていますが、「偲ぶ」という言葉を考えますと、それは「遠い思い出を懐かしみ、そこに自分の気持ちを寄せていくこと」を意味します。また、「弔う」という言葉がありますが、この言葉にも命の尊厳に対する敬意を持った特有の思いを私は感じます。

他にも亡くなった方に敬意を払い、祀るという意味で行う宗教儀式のことを「供養」と言います。「供養」という言葉は、もともとは、インドの仏教で使われている言葉から来ているそうですが、人形にも、櫛や針も「供養」しますので、恐らく、日本人が持っている「供養」という概念は、仏教用語に収まらない深い精神性が含まれています。日本に入って来たキリスト教は、どこか日本人の持っている精神性を否定しようとする傾向があると思います。仏壇ダメ、先祖代々の墓ダメ、線香ダメ、・・・他にも色々ありますが、それって、何か違うなあっていつも思っています。ですので、私はご遺族の方の弔いたい気持ち、偲びたい気持ち、供養したい気持ち、全て大切にさせていただいています。また、そのように思われる気持ちを大切に思いながら、この日の準備をしています。今年、また、寂しいことに新谷恭子姉が六月に天に召されました。

心のピュアな方で、お身体がご不自由ながらも一生懸命に活動されていたのが印象的でした。心が繊細なだけに傷つきやすい方でした。

先に天に召されたご主人の正人兄を本当に愛しておられた方でした。

ご主人のことを綴った本も自費出版されるほどでした。正人兄が天に召されてからは、お元気がどんどん無くなって行かれた感じがしました。

何度かお話しする機会を戴きましたが、ご主人を失った喪失感が大きすぎて、神さまのもとで正人兄が憩われておられる。生きていることを何度もお伝えしたのですが、喪失感が強くてなかなか実感していただけませんでした。天に召される前には、教会に夕方ごろ、何度かいらっしゃいました。一時間から二時間くらい、ずっと、讃美歌を綺麗な歌声で賛美されていました。その後、ゆっくりお話をする機会が与えられたのですが、それらの日々は、神さまがくださった貴重な時間だったと思っています。そのような感じで、お一人お一人の方と、牧師として交わりを持たせて頂いています。その方の状況に応じた、み言葉や真理をお伝えするのも神さまから委ねられた役目です。

人生の様々な場面に関わらせていただいているからこそ、天に召された時には、家族でもない、他人でもない、また違う関係性からくる寂しさや喪失感があるのです。牧師として、私はこの教会に遣わされて15年が経ちます。

それだけに、長くお付き合いさせて頂いた方が少しずつ、神さまの方へ移っていくんですね。神さまのもとで今、憩われている、生きておられるということは分かってはいるのですが、日本人だからでしょうか ,やはり、寂しい感じがしますね。イエス様はおっしゃいました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。わたしをも信じなさい。」私は今回、召天者合同記念礼拝の案内に、このみ言葉を載せました。この礼拝を準備しつつ、このみ言葉と出会った時、先に召された方が、本当に神さまと共におられるという思いが得られたからです。

何処か、お医者さんが「大丈夫です」と言われた感じで、イエス様の力強い諭しを感じました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」これは、日常生活において心騒ぐとき、また、信仰的に心が揺れ動くときにも、イエス様がおっしゃる力強い言葉となりますが、これは、神の勝利を宣言している言葉でもあります。特に、死に対してイエス様が勝利してくださったことを教えています。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなた方をわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる場所に、あなた方もいることになる。」

(ヨハネによる福音書141節~3節)

死は私たちを飲み込むことも、捕えておくことも出来ないのです。

イエス様が死に対して勝利されたからです。

私たちは、イエス様を信じた褒美として、永遠の命を戴くのではありません。私たちはイエス様が死に対して勝利されたことを知ったのです。

そして、私の死は、新しい命が始まる時だと知ったのです。

例えて言うならば、死と書かれた石を持ち上げたら、そこに、命を発見するようなものです。理性は死と書かれた石を見れば、それが全て、つまり、死のほかには何もないとしか思えません。つまり、理性は死をもって全てが終わるしか思えないのです。しかし、死という名の石を取り上げると命がそこにあることを知ったのがクリスチャンなだけです。死を通り過ぎないと次に何はあるのか分からないのですが、信仰はそのことを先に捉えることが出来るのです。

クリスチャンは信仰で「死んでも天国に生ける」と信じ込んでいる人ではありません。死という名の石を取るとそこに命がある。

それが新しい始まりであるとことを神さまによって知らされただけなのです。信仰によってしか死の向こうに何があるのかが見えないのです。

神さまの摂理は不思議で、罪を自覚した人が赦しを受け取るのです。

つまり、私は神さまの前に罪人であるということを分かった人が、罪の赦しに導かれていくのです。また、神の力は自分の弱さを認めた人に与えられるのです。旧約聖書であれだけ、人を殺すことを善しとした神は理解しがたいものです。でも、裁く神は、結局、誰を裁いたかと言えば、十字架でイエス・キリストを裁いたのです。旧約聖書は、聖なる神と、相反して罪深い人に対する神の怒りを現されていました。しかし、それはどのようにして最後に実現(解決)するのかと言いますと、ご自身の独り子をあのような形で呪い命を取るという形で終わるのです。しかし、そのことによって、私たちの全ての罪が赦され、新しい命が与えられたのです。イエス様はご自身の死の向こうにご自身の命、そして私たちの新しい命があることを信仰によってみておられました。

ですので、イエス様ご自身、死を経験されましたが、その向こうにある復活が起こったのです。神さまの摂理は、いつも逆の相にあるのです。

難しくてすみません。話を戻しますと、死という名の石は取り上げられるまで、その次にある命に気づかないのです。しかし、私は確信をもってお伝えします。死と書かれた石を取るとその下に「永遠の命」と書かれているのです。イエス様が十字架で罪と死と悪魔に勝利してくださったからです。

イエス様は永遠の命を私たちのために獲得してくださったのです。

前に写真を並べた方々は死んで終わられたのではありません。

新しい命を受け取られました。苦しまれたのかも知れません。

でも、それ以上に素晴らしい世界に入られたのです。

私たちは、再び逢うことが出来るのです。

先日、あるラジオ番組でこんな話をしておられました。

それは、言い換えることによって、新しい視点を貰えるという話でした。

その番組の中で、1980年代にヒットした曲の歌詞を紹介されていたのですね。こういう歌詞です。「さよならは、別れの言葉じゃなくて、再び逢うまでの遠い約束」さよならとかバイバイというのは、小さい頃を思い起こすと、「また、明日ね」という意味でした。先に召された方と葬儀の時、斎場では最後のようにしか思えません。寂しくて、悲しくて、そうとしか思えません。

しかし、こうして礼拝に出ると「さよならは、永遠の別れの言葉じゃなくて、再び逢う迄の、遠いけれども約束なんだ」と思えるし、「さよならは、永遠の別れの言葉じゃなくて、再び逢う迄の、遠い約束なのです」と言われますと、何処か、目の前が明るくならないでしょうか。

最後にマルチンルターの言葉を紹介します。

ルターと言えば、宗教改革者で有名ですが、その一方で、神学者であり、牧者でありました。彼が「病の人」や「大切な人を失った人」に書き送った手紙も数多く残っています。また、病気で死に際している人との会話も残されています。一人の女性の臨終に際してのルターの言葉です。

この言葉もまた、言い換えることによって新しい視点を与えてくれる言葉だと思います。ルターは臨終に際してその方にこう言いました。

「主イエス・キリストは復活であり、命です。あなには何も欠けることはありません。あなたは死ぬのではなく、幼な子がゆりかごの中で眠るように眠るのです。」私たちは、前にいる方々と「さよなら」という思いで、見送ったかと思いますが、それは、再び逢える約束、また逢おうねという意味だったということを忘れないで欲しいと思います。