宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ルカによる福音書10章 38節~42節


 「私たちの安息イエス」

説教者  江利口 功 牧師

 

 おはようございます。

今、私たちは十戒を礼拝の説教の中で取り上げています。

今日は、『安息日を覚えてこれを聖とせよ』という戒めを見たいと思います。 

そして、今日、私が是非、皆さまに心に留めておいて欲しいと思っていることは、イエス様はあなたに安息を与えたいと願っておられるということです。

さて、安息日というのは何かと言いますと、神さまがお命じになった「わたしたちが休まなければならない日」です。先ほどお読みして戴いた、旧約聖書、出エジプト記にこう書かれてありました。安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(出エジプト記20章8節~10節)旧約聖書の時代のユダヤ人は、この戒め通り、金曜日の夕方(日没)から、翌日の土曜日の夕方(日没)までを安息日として、一切の仕事をしませんでした。仕事だけでなく、仕事に準ずるような、例えば、「火をつけたり」、「字を書いたり」、「種を蒔いたり」することもしませんでした。

何が禁じられているかを具体的に神さまがおっしゃっていないので、徐々に、宗教学者達の間で、「何をしてはならないか」ということが議論され、沢山の禁止事項が出来てしまいました。ちなみに、今でも、イスラエルの人たちは、程度の差はあっても、この安息日は守っています。

お店は全て閉まりますし、公共交通機関もお休みになります。

さらには、電気をつけることやエレベーターのボタンを押すこともご法度になっています。自動車を運転することも傘をさすこともしない人たちもいらっしゃるようです。これだけしてはならないことがある日ではありますが、良い事もありまして、金曜日の夕方(安息日が始まる時)は、家族や友人らと一緒に食事をするのが習慣となっているようです。(食事の準備は事前にしておくのだと思います)。もちろん、敬虔なユダヤ人の人たちは、シナゴーグで礼拝したり、家でも神さまのことを覚える日としています。

ところで、この『安息日』という言葉。読んで字のごとく、「息、安らぐ」という意味ですので、「ほっとする時」、「ゆっくりする時」そんなイメージありますよね。もちろん、神さまは、「休む日」として命じておらえるのですが、実際は、もう少し深い意味のある言葉なのです。

『安息日』『安息』という言葉は、聖書の特別用語(業界用語)のようなイメージありますが、実際はそうではなくて、香料が関係しています。

二千年以上前、今のイラン周辺を「パルティア国」が支配していました。

その国のことを「安息国」って古代中国の人は表記したんです。

でも、どうして「安息」と字を当てたのかと言いますと、それが先ほど言いました、「香料」が理由になっています。その国から香料を輸入していたようでその香りが良い香りだったんでしょうね、心安らぐような香りだったのでしょうか。それで、その香料が採れる国だったので「安息」の言葉を当てたようです。「安息日」というのは、私たちが「休む日」「憩う日」なのですが、旧約聖書のもとの言葉も「休む」という意味かなぁって思うとそうではないんです。日本語で「安息日」と訳されている、もともとの言葉は「シャバット 」という言葉なのですが、その意味は「休む」と言うよりは、「止める・やめる」という意味の方が強いのです。つまり、安息日は「休まなければならない日」ではなく、「この世の業(肉の業)を止めなくてはならない日」なのです。ここが「安息日」を「祝福を受ける日・命の日」に変えるポイントがあるんです。

そのことは、今日の福音書を見ても分かります。

今日の福音書の個所を簡単に説明しますと・・・ある時、イエスさまとその一行が、エルサレムの近くベタニアという村を訪れます。

そして、マルタ、マリアという姉妹が住んでいる家を訪れられます。

お姉さんのマルタは、イエスさまのためにと、一生懸命“もてなしの準備”をするんです。一方で、マリアはと言うと、マリアは何もせず、イエスさまの傍らに座り、イエスさまのお話しに聞き入っていたんです。

しばらくして、マルタは腹を立て、イエスさまにこう言います。

「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何とも思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」

                (ルカによる福音書尾1040節) 

どんな面もちで言ったのか想像できるかと思います。

そんなマルタにイエス様はこうおっしゃいます。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

(ルカによる福音書10章41節42節)

この話ですが、「安息日とは何か」をキーワードにして見ると、良く分かります。マルタは、イエスさまが来たということは認識していますが、この世的活動を止めていないのです。一方で、マリアは、イエスさまを前にして、この世の業を“一切ストップ”しているのがわかるかと思います。

これが「主の前に憩うために必要な姿なのです」。勿論、“マルタは料理を作った後”、ゆっくりイエスさまと交わろうと思っていたでしょうし、この日は安息日ではありません。ですので、マルタのしていることは一見、間違ったようには見えません。でも、ここでマルタが、イエスさまにこう言ったらどうでしょうか?「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。

だって、後でゆっくりお話ししたらいいでしょうし、今日は、安息日ではないのですから」そして、イエスさまが、こうおっしゃったらどうでしょうか。「マルタ、マルタ、安息日は、神と交わり・憩うために、一切の全ての業をとめなければならない日ではなかったか?わたしがいるとそこは、安息の場所なんです。マリアはわたしが誰かを知っていて、安息に入るために(交わり・憩うために)、全ての業を止めたのです。」皆さまは、このイエスさまの言葉をご存じでしょうか? 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

(マタイによる福音書11章28節~29節)

イエスさまはご自身が、休ませることができる人だとおっしゃっておられますよね。それだけではありません。ある時、イエスさまは、ファリサイ派の人達にこうおっしゃいました。「人の子は安息日の主である」(ルカによる福音書6章5節)「人の子」というのは、「神が人となられたイエスさま」のことです。「安息日の主」とは、「あなたがたが安息日に交わりを持とうとしている主。つまり、あなたを休ませ、憩わせることができる主である」という意味です。マリアはどうして、肉の活動を止めていたのでしょうか?安息日だったからでしょうか?そうではなくて、目の前にイエスさまがいらっしゃったからです。マリアにとって、イエスさまが、“主”だからです。

全ての肉の業をとめて、完全に気持ちを切り替えて接したい、接しなければならない、ラビ以上の方、主、だったからです。

今日、私は、説教題を「私たちの安息イエス」とさせて頂きました。

もちろん、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」これを理解するためです。

私たちにとっての安息日は、この日曜日です 。そして、この日曜日の主役はどなたかと言いますと、安息日の主、イエスさまです。

神さまはどこにでもいらっしゃいます。この世界を覆い、支配されています。そのような意味では、神さまは霊的で見えない方です。

しかし、神さまは、そのみ言葉による約束に従って、神さまが知られる処、つまり、教会の礼拝の中に特別にいらっしゃるのです。

信仰は、そのことを捉えることができるのです。

信仰者がいて、そこで、み言葉が語られる時、また、洗礼が執り行われ、聖餐式が執り行われる時、そこに、イエスさまの言葉の約束にあるように、主が臨在してくださっているのです。もちろん、見えません。

でも、信仰がそれを捉えることができるのです。ちょっと、道それますが、聖餐式のパンがありますよね。イエスさまは、「これはわたしの体です」とおっしゃいました。すると「ありえない」という人いらっしゃるのです。

(昔の私もそうでした)。確かに、見えないものが存在しているとは普通考えられません。また、こうも言う人います。「ああ、信仰を持っている人は、パンの中にキリストの存在を見て、ありがたいと思っているのね 」って。

そうじゃないんです。神さまは、天と地を(つまり、被造物の世界)をお造りになりました。でも神は霊です。その神が、被造物にご自身の存在を“み言葉によって”保証されているんです。イエスさまについてもそうです。

理性は「イエスさまは、人でしかありえない」と考えます。

信仰は「一つの中に二つあることがわかるんです」つまり「イエスさまの中に神の姿と人の姿の両性を見ることができるのです(そう思おうとしているのではなくて、そのことがわかる目を持ったということ)」。

イエスさまは、安息を与える主です。私達の安息です。私達がしなければならないことは、この世の業を一切とめて、イエスさまを集中する日にすることです。安息日は「休む日」ではなくて「肉的動きを止める日」です。

そして、教会に(礼拝に)来る日よりは「イエスさまのもとで憩う日(特別な日)です。」さらには、私たちのためにイエスさまが働いてくださる日です。イエスさまは、こうおっしゃいました。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」 (ヨハネによる福音書5章39節~40節)

イエスさまは、安息日ごとに会堂に行き、神としてみ言葉を語り、また、安息日の主として、非難されながらも、あえて病の人を癒し続けておられたわけです。ご自身が安息日の主、命の源であることを教えられていたのです。

旧約聖書では、安息日を守らない者は死刑に値すると言われていました。

(出エジプト31章14節)。それだけ、安息日を順守することが私達人間にとって大事だったということです。イエスさまは、「安息日は人のためにある。安息日のために人があるのではない」とおっしゃっています。

安息日(私達にとっては、霊的な安息日)はこの日曜日の礼拝です。

礼拝は、日毎に古い人となってしまう私たちを、神の言葉によって、霊的に新しくしてもらうのです。安息日を「休む日」と捉えると、ゆっくりしたらいいやって思ってしまいます。しかし、「肉の業をとめる日」と考えると、何をする日なのかが見えてきます。それは、霊的な日、私たちの命であるイエス様の声を聴く日なのです。「安息日を覚えてこれを聖とせよ」これは、今のクリスチャンにとっては、「霊的安息日を大事にして、安息の主であるイエス様と交わりなさい」という意味です。そして、そうする私達には命が新しくされ、祝福を得ることができるのです。安息日のこの戒めは大事なので、次回と言っても11月の第4週目になるのですが、その時に、旧約聖書の祭りと合わせて、もう少し、深く、イエス様が、私たちにとっての安息の主であることをお話ししたいと思います。