宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ルカによる福音書14章25節~35節


 「時代は変わっても教えは変わらない」

説教者  江利口 功 牧師

 

お早うございます。

時代が変わると考え方や社会の常識も変わってくるものですね。

何時の時代であっても、大人の人の口から出てくる言葉は「今の若い者は・・・」という言葉ではないでしょうか。ところで、この「今どきの若い者は・・・」という言葉は、古代エジプトのピラミッドの壁文の中にも、同じような言葉が記されているそうです。どうでしょうか。皆様は、若い人の考え方に違いを感じることはないでしょうか。世代間ギャップは、会社内ではよく感じることだと思います。上司でコミュニケーションの取り方が難しいと感じている人も多いそうです。昭和時代の人は、どこか根性論が根強く残っていると思います。「死ぬ気でやれば、何でもできる」と考えるのは、今の時代の人には通用しないのではないでしょうか。励まそうと、叱咤激励をしたつもりで言っても、返って「パワハラだ」と問題にされかねない時代になっています。

時代が変われば価値観も変わってきます。「言えば判る」という考え方は、間違ってはいないかもしれませんが、「私の言っていることを理解して、私と同じ価値観になりなさい」というのは、自分の価値観を相手に強要することになり、よく起こす間違いになります。いつの時代の人の考え方があっているとかは関係なく、お互いの価値観が違うとの相互理解が必要です。

昭和や平成初期の時代ですと、「家と仕事、どっちが大事なんだ」と問われた時代かも知れません。「24時間戦えますか?」といいう栄養ドリンクも販売されていました。でも、今の時代は、個々の生き方が尊重される時代であって、会社のために家を犠牲にしなさいというのは、受け入れるものではありません。このことは、信仰においても同じようなあ気がします。

自分のライフスタイルと、教会生活のバランスというのが、人それぞれとなってきていますし、強要されるものではないという風潮も強くなってきています。そうやって考えると、イエス様の今日の厳しい言葉を、教えとして教えるのは、今の時代、ちょっと難しい感じがします。

イエス様はついてきた群衆に向かってこうおっしゃいました。

「もし、誰かがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない、自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ、わたしの弟子ではありえない。」  (ルカによる福音書14章26節27節)

イエス様の宣教活動は、この頃、ピークを迎えていたと思われます。

ですので、イエス様の歩かれる後を大勢の人がついてきていました。

多くは男性だったと思います。ある意味、時の人になっていたイエス様だったので、なかには、政治的な意味で従おうと思ったり、また、何となくついてきている人もいたと思われます。「もし、誰かがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ、わたしの弟子ではありえない」どうでしょうね。

今の時代、イエス様のことを知りたくて、もしくは、救いを求めて教会に来られた方に、この言葉を伝えるって勇気要りますよね。

もっと、受け入れやすい言葉は何か・・・と考えてしまうかも知れません。

勿論、イエス様は、人々を脅して、自分に従うことを思いとどまらせようと思っておられる訳ではありません。そうではなくて、弟子になるということは、新しい生き方が求められるということを教えておられるのです。

イエス様は、全ての人が神さまを信じ、新しい生き方を始めて欲しいと願っておられます。イエス様は、ある時、神の国についてこのような譬えを話されています。天の国は次のように譬えられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のように譬えられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタイによる福音書13章44節~46節)

このイエス様の譬えは、どちらも、神の国の価値は、人がそれと出逢うと、この世のものとは全然違う、価値を見出すようになると教えています。

そして、偶然に神の国と出逢い、生き方を変える人もいれば、長年探し求めていたものを見つけたと喜んで、神の国を受け入れる人もいる。

それだけの価値があるもの、人間にとって、意味のあるものだとイエス様は教えておられるのです。しかし、その神の国の価値を自分のものとするために必要なのは、「生き方の変化」または「決意、覚悟」なのです。

これまでの生活、自分のライフスタイルの中に、クリスチャンの生活を取り込んでもうまくいきません。そうではなくて、神の国の民として新しい生き方をするときに祝福を得るのです。イエス様は、そこで、二つの譬えを話されています。今日の聖書箇所をご覧ください。「あなた方のうち、塔を立てようとする時、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰を据えて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって「あの人は建て始めたが、完成することが出来なかった」と言うだろう。また、どんな王でも、他の王と戦いに行こうとする時は、二万の兵を率いて進軍してくる敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことが出来るかどうか、まず、腰を据えて考えてみないだろうか。もし、出来ないと判れば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

(ルカによる福音書14章28節~32節)

イエス様の周りに集まって来た人たちの中には、イエス様に付いていけば、何か幸せが舞い込んでくるかのように思っていたのだと思います。

また、イエス様についていけば政治的な革命に加わって、一旗挙げられるかも・・・そのように思っていた人たちもいたでしょう。

そのような人たちに対して、イエス様の弟子になるとは、イエス様に従っていくということは深く考えず、思い付きでするっことではないということを教えられたのです。むしろ、イエス様の弟子になって、ついて行くというのは、家族を捨てること、もしくは、家族と対立が生じることでもあることを覚悟しなければならないと教えようとされたのです。最悪、政治犯として時の権力者に捕らえられて処刑されることも覚悟しなければならない。

その覚悟をもってからわたしに従うようにと警告されたのでした。

勿論、今の時代に生きる私たちは、当時とは時代も状況も考え方も違います。家族と対立することもあまりありませんし、政治犯として吊し上げられることもありません。しかし、私たちは、今日のイエス様のこのみ言葉から、もう一度、今のクリスチャンとしての自分の生き方を見直してみる必要があるのかなあと思います。私は大学院生の時に洗礼を受けましたが、実際に聖書と出逢ったのは中学生の時です。どうして、それだけの期間が開いたのかと言えば、行くきっかけがなかったというのもあります。

真面目に、また、聖く生きていく決心を持てなかったからです。

クリスチャンはとても聖いイメージを持っていました。

しかし、実際に教会に行くようになり、洗礼を受け、教会員になった時、罪人の集まりということを教えられ、戸惑ったことを覚えています。

私は、今日、イエス様の言葉を聴いて、もう一度、初心に帰らなければと思いました。皆さまは、クリスチャンとなった時、何か覚悟や決意をされましたか?何かを決意してイエス様を受け入れましたか?

イエス様は家族のこと、命のこと、財産のことを諦めるようにおっしゃっています。イエス様は、ここで、それらを犠牲にしなさい。持っているものは全て捧げなさい。・・・そのように人生を棄てるようにと言っておられるのではありません。そうではなくて、クリスチャンになる。イエス様に従うというのは、全ての優先順位を、神さまを一番にするということです。

まだ自分の生活があって、その合間に、クリスチャン生活があるのではなくて、クリスチャンとしての生き方が、全てに現れるような生き方をするように薦められています。と、言うのも、中途半端な信仰生活を送ると、必ずと言っていいほど、悪魔の誘惑に負けて、段々とこの世の人へと戻されていくからです。すると、志をもって建て始めたのに、完成しなかった信仰になってしまいます。ですから、イエス様は、塔の話、戦の話をした後、こうおっしゃっています。だから、同じように、自分の持ち物を一切棄てないならば、あなた方の誰一人として、わたしの弟子ではありえない。自分の持ち物を棄てるというのは、この世のものに未練を持ってはいけないということです。

そして、イエス様に全てを委ねて、ついてゆくことを求めておられます。

神の国は、偶然見つける人も、長年、真理を探し求めていた人であっても、共に、素晴らしい、この世とは違う価値観を発見するのです。

神の国は、本当に素晴らしいものです。それは、人生を豊かにする教えです。また、イエス様に従って歩む人生は、色々な試練にあったとしても、そこに助けがあり、その試練に何かを見出していくことが出来るようになります。

そして、神の国の民として生きる人は、豊かな実を結ぶ人生へと整えられて行くのです。そのために、必要なのは、信じると決めたことであれば、後ろを省みず、イエス様に従っていくということです。

時代は本当に変わってきました。キリスト教を信じる若者たちも少なくなってきています。それは、教会の危機ではなくて、信仰の危機です。

今の時代の価値観は、オンデマンド、つまり、必要な時に、必要な恵み、必要な時にだけクリスチャンらしくなるという感じなのです。

これでは、建つものも建たないし、勝てるものも勝てないということが起こってしまいます。そんな根性論の信仰は古いと言われるかも知れませんが、今日のイエス様の言葉は、神の言葉として、信仰者としての生き方を決意するように求められていると思います。今日の聖書箇所の後になりますが、イエス様は続いて、塩の話をしておられます。「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩で味付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聴きなさい」 (ルカによる福音書34節35節)聖書は根性論ではありません。本当の幸せは何処にあるのかを真剣に教えている神の言葉なのです。神の教えは、時代が変わったとしても、変わるものではない不変の言葉なのです。聞く耳のある者は聴きなさい。

この言葉を今日、神さまがおっしゃっている言葉として受け入れて見ましょう。