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おはようございます。「真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネによる福音書8章32節)。これは、イエスさまの言葉です。「真理」という言葉・・・ギリシア語では、「アレーセイア」という単語なのですが、それは、語源的には「覆われた覆いが取り除かれて顕わにされたもの」という意味を持つそうです。つまり、見えなかったものが見えるようになる。これが聖書の力です。
こんな話を聞きました。それは、奥様がクリスチャンで、旦那さんはクリスチャンではない夫婦の話です。ある日、奥様は教会にでかけておりました。
旦那さんはというと、お酒好きで、昼間からお酒を飲むような人でした。
その旦那さんが、お酒を買いに家を出ました。外は雪が降った後で、雪がまだ地面に残っています。お父さんは、一歩、一歩、歩いていると、後ろから子供の声が聞こえて来ました。振り向いたお父さんは「危ない、気をつけなさい」と子どもに言いました。すると、子供は「お父さんが歩いた後は雪が無くなっているから、お父さんの足跡を追って行けば大丈夫」そう答えたそうです。
子供が安心して歩いてきている道は、昼間からお酒を吞もうとスーパーに向かっている自分の足跡。その道を「お父さんが歩いた後を着いて行けば大丈夫」と言ってついて来る我が子の姿を見て、そのお父さんは悔いたそうです。
結局、スーパーに行ってお酒を買わず、お菓子を買って帰ったそうです。
イエス様はおっしゃいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない
(ヨハネによる福音書14章6節)」私たちは誰に着いていくべきなのでしょうか。誰の言葉を信じ、誰の後をついて行けば、本当の生き方をすることができるのでしょうか?それは、真理であり、道であるイエス様です。
イエス様に従って着いていけば、私たちの人生に間違いがありません。
そして、最後には命に至るのです。
さて、今日の聖書箇所ですが、それは、イエス様が、あるファリサイ派の議員に家に食事に招待された時の話です。当時、安息日の礼拝の後、高貴な人たちは、良く食事会を催していました。名高い人や友人・知人を招き、一緒に食事をするのです。このファリサイ派の議員も同じように、友人・知人を招いたのですが、そこにイエス様が招かれたのです。さて、食事の時間が来て、それぞれの人が食事の席に着き始めます。その時、イエスさまが見た光景は、招かれた人が、上座を求めて座ろうとしている姿でした。その姿を見てイエス様は、一つの話をします。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。その時、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。
そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。その時は、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
イエス様は、「上席」を選ばず「末席」を選びなさいと教えているのではないと思います。イエス様は、“自ら”「上席」を選ぶような高ぶりは捨てなさいとおっしゃっているのが正しいと思います。そして、むしろ、謙遜に、末席こそ私に相応しい場所ですと思う人になりなさいという意味です。
そのような人は“他の人”が「上席」を進めるようになります。
そのことをおっしゃっています。“他の人”が上席に招いてくださる。
ここが大切です。聖書にはこういう言葉があります。
高貴な人の前で下座に落とされるよりも上座に着くようにと言われる方がよい(箴言25章7節)高貴な人の前で下座に落とされることほど恥ずかしいことはありません。一方で、高貴な人の前で上座に着くように薦められる方が、高貴な人もその人を高く評価すると思います。神さまこそ、王であり、もっとも高貴なお方です。神さまは、心よりへりくだる者を喜ばれ、うぬぼれる者を嫌われます。イエス様は、神さまの目に、「自分は取るにたらない者です」という思いでいる事が大事だとおっしゃいます。そのような人こそ、神の国に相応しいからです。一方で、自分にうぬぼれる人は、最終的には、神さまの国に相応しい人となることはできず、追い出されてしまうというのが聖書の教えです。
聖書の一番初めに、アダムとエバの話が書かれています。
彼らは、「善悪の知識の木から取って食べてはならない」という神さまの言葉に背いて、その木から取って食べてしまいます。
その時の彼らの心境はどうだったでしょうか。それは、神さまのように賢くなれる、神さまのように善悪を判断する力を持ちたい。そのような高慢な思いだったのです。もちろん、彼らは、善悪の判断を間違えたわけです。
「善」とは神の言葉に従うこと。それ以外には全くありえなく、神の言葉に従わないことは全て「悪いこと、間違った事」なのです。結果的に、彼らに罪が入り込み、目が閉ざされ、真理が分からなくなり、神の国から追い出されてしまいました。自分は誰からも教えられる必要がない。それが驕り高ぶりです。さらには、神さまの教えを無視して、この世の価値観だけで大丈夫と思っている人の多くは人生に失敗します。
イエス様は、ファリサイ派の人たちにこうおっしゃっています。
誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
これは、原文の意味を再現して言い変えますと、「どんな人でも、“自分で自分を”引き上げようとする人は低くされ、“自分で自分を”低くしようとする人は高められるのです」という意味です。“自分で自分を”引き上げようとする人は低くされる。これは、人生でよく経験しないでしょうか。
自分に自信がある時に行った言葉に対して、後で、その自分が言った言葉に恥ずかしくなる。そのような時ありませんか?また、人の目に成功している人生を勝ち取った、そう思えた時に、途中で、失敗や不幸が訪れ、人に会うのが恥ずかしくなった。そのような経験ありませんか。私はそのような経験をいっぱいしてきました。他にも、自分の若さ、強さ、美しさ、賢さ、健康、そういった世が羨むようなものを持っていると、だんだん、自分で自分を高めてしまうものです。しかし、それは永遠に続くものではありませんし、神さまが見えなくなってしまいます。そして、持っていたものを失った時、普通の人以上に自分に自信がなくなってしまうようになります。
誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
低くされるのは、自らが引き起こすことなのですが、大きな目で見ると、謙遜な人にするために、神さまが低くされたのだと思います。
それは、本当の真理に目が開かれるために、神さまがその歩みを善しとされたのだと思います。私は、自分に自信を失う経験を沢山してきましたが、神さまは、そのような経験を通して、神さまの心と通じるようになさってくださったのだと思います。「驕り高ぶる思い」は神さまを見えなくしてしまいます。
一方で、「自らを低くする心」は神さまが見えるようになり、神さまは、その人を高く上げられるのです。ある時、イエス様の前に目の見えない盲人があらわれました。イエス様は、その人の目を見えるようになさるのですが、人々は、その時、イエス様に「彼が生まれつき盲人なのは、彼の罪の性か、親の罪のせいか?」と尋ねたのでした。自業自得のような冷たい言葉だと思います。
しかし、彼らの言葉に対してイエス様がおっしゃった言葉は「神の業がこの人に現れるためである」でした。そう言って、イエス様彼の目を治されたのです。彼は驕り高ぶりで低くされた人ではなく、生まれつき、悲しい定めを負っていた人でしたが、神さまは、彼に栄光を示されたのです。
イエス様との出会いは、その人の人生を変えるのです。
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
これは、喜べない人生、失敗した人生に思えるようでも、その人生を、神さまが高く上げてくださるんだ
そのことを覚えて欲しいと思います。
低くされて、つぶれるのではなく、高めるために、低くされたという思いを持って、希望を持って欲しいと思います。聖書にこういう言葉があります。
家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。(詩編118編22節)
私はこのみ言葉は真理だと思います。このみ言葉の意味は、読んで頂いた通り、『家を建てる人が、「これはいらないな」と言って、家を建てるのに用いずに捨てた石がなんと、違う建物の親石となりました』というみ言葉です。
つまり、この世の価値観において、見向きもされず、尊ばれもしない人を、神さまは豊かに用い祝福され、その人を通して神さまの栄光を示されるということを示した御言葉なのです。時に、世の中から捨てられるたように感じる時があるかも知れません。しかし、神さまは放ってはおかれません。
このみ言葉を信じ、神さまの力に委ねる人を神様は豊かに栄光を示されます。そして、このみ言葉は、イエス様ご自身の人生を記したものでした。
イエス様は、本当に正しく生きられました。そして、人々に真理を教えられました。その真理のとおり、イエス様は神の身分を捨て、神のように崇められない人生を選ばれ、そして、上席から末席へ、末席から、給仕する人へ、さらには、捨てられる人へとなられました。勿論、私たちに命を与えるためです。しかし、聖書を読みますと、神さまは、このように歩まれたイエス様を高く上げられました。誰よりも高く上げられましたと書かれています。
神さまが見えないようになっていきます。そのような人を神さまは低くされます。しかし、低くされるのは、高くするためです。神さまは、私たち一人一人を愛しておられます。私たち一人一人の人生を、祝福された人生にするために、時に、低くし、時に高くされるのです。低くされた時でも、大丈夫なのです。神さまが、高くしようとされている時なのです。この世の価値観に生きる人は、「人生はこれで終わった」と思うかも知れません。
しかし、真理を知っている私たちは、神さまがその私を高めてくださることを知っているのです。どんな時でも、私たちは神さまの栄光が私の人生に現れるという希望を持っているのです。是非、どんな時でも、道であり、真理であり、命であるイエス様の後を着いていってください。
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