宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ルコによる福音書12章41節~44節
ルカによる福音書12章13節~21節

 「信頼と感謝」

説教者  江利口 功 牧師

 

おはようございます。今日もイエス様が教えてくださった、お祈り(主の祈り)を共に学んで行きたいと思います。今日、一緒に学びたい“主の祈り”は「私たちの日毎の糧を今日もおあたえ下さい」という個所です。「日毎の糧を今日もお与えください」皆さまはどんな思いでこの祈りを祈っておられるでしょうか。多分、あまり深いことを考えず、ただ、「毎日食べることに困ることなく過ごせています」という思いで「あまり深く考えずに」祈っておられるのではないでしょうか。実際は、「日毎の糧を今日もお与えください」という祈りは、とても深い意味を背後に持っているのです。例えば、「私たちの“今日の糧をお与えください”と祈らず、“日毎の糧を今日もください”」と祈っています。これは言い換えると「天の父よ、あなたは、日毎、日毎に、私たちに必要なものを与えてくださる神さまです。どうか、主よ、今日も私にその糧をお与えください」と祈っているのと同じです。神さまは、母親が子を育てるように、また、羊飼いが羊を養うように、日々、必要なもの知っておられ、それを与え、命を育もうとしてくださいます。悪い母親は、家に数日分の食べ物を置いておいて、子供を置いて遊びに出かけます。また、気に入らないことがあると、食事を抜きにする悪い親もいます。しかし、良い母親は、いつも側にいて、子供達の成長を考え、見守り、必要なものを与えようとします。

それが愛情です。同じく、神さまは、「日々」私たちに必要なものをご存じでそれを与えてくださっています。ですから、「今日の糧を」と言わず、「日毎の糧を今日も与えたまえ」と祈っています。この祈りに必要なのは、信頼と感謝の思いです。さて、日毎に糧を与えてくださる神さまであれば、私たちは、どんな状況にあっても、明日に不安をいだくことはないはずです。

明日に不安を抱くことがなければ、未来に不安を抱くこともありません。

しかし、実際は、私たちには信仰の弱さがあるので、そうはいかないのです。私たちは、「蓄え」が無いと不安です。「何年も先までの蓄え」があっても「生涯の安心できる蓄えが無い限り」私たちの心は平安になることはありません。目に見えるものによって安心が欲しい。これが、私たちですし、私たちの弱さとも言えると思います。聖書は、生活になくてはならない全てのものは、神さまが「必ず」与えてくださると教えています。「食べ物」「飲み物」に限らず、「着る物」「住む家」、そして、「仕事」も「健康」も、また、「家族」も「財産」も、全てのものは、直接的であれ間接的であれ、神さまから来るのです。

ですので、聖書は、明日の事は思い煩ってはいけません。あなたの命は神さまが一番大切に思ってくださっているのですから、その神さまを信頼しなさいと教えているのです。蓄えることは間違っていません。しかし、「世の中お金」「お金があれば安心」という考えは間違っています。そのような考えの人は、「日々、神さまが必要なものを与えてくださる」という信頼を失った人なのです。また、「蓄えを見て、その蓄えにのみ安心を得ている人」もまた、神さまを信頼してない人です。もう一度、言いますが、蓄えることは間違っていません。問題は、神さまではなく、蓄えに安心を得ている状態です。

今日、お読みした聖書箇所は、蓄えに対する向き合い方について、信仰者とそうでない人が描かれている個所なのです。一つは、「愚かな金持ちの話」そしてもう一つは、神殿に現れた、あるやもめの話です。二つの話に共通しているものは何かと言いますと、それは、「明日の為の備え」に対する向き合い方を教えている所です。一人目は、イエス様の譬え話に登場してくる金持ちです。

畑を所有していた人は、ある時、彼の畑が非常に豊作になるんです。

これまであった倉では収まりきらない収穫になりました。その時、その人は「倉を壊して、もっと大きな倉をいくつか建てて、そこにしまおう」と計画するのです。それはそれでいいのですが(蓄えることは問題はない)、その後、彼は、こう心の中で言っています。さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 (ルカによる福音書12章19節)生涯、食べ物に困ることなく生きるだけの蓄えが出来て、彼は、安らぎを感じているんです。さらには、その富を用いて、貧しい人のために施そうとする思いにはなっていませんでした。

この収穫は私のもの。私だけが使うもの。そうとしか考えていなかったのです。これが神さまに対する信頼と感謝のない人の姿です。一方で、今日お読みした福音書に登場するもう一人の女性はどうでしょうか。彼女は実際にイエス様と弟子たちの前に現れた人です。ある時、イエス様とお弟子さんたちが神殿にいました。当時、神殿には、賽銭箱がいくつか設置してあって、神殿に訪れた人はそこにお金を投じていました。あるお金持ちの人は、沢山のお金を捧げていました。恐らく、何不自由ない生活が出来ている人でしょうし、神さまに感謝して捧げていたと思います。しかし、イエス様は、多く捧げたその人のことは何もおっしゃいませんでした。そこに、一人の女性がやってきます。

その人は、夫がいない貧しい女性でした。当時は、男性社会なので、夫がいない「やもめ」は稼ぐことが非常に難しい状況でした。彼女も同じように神殿に詣でた時に賽銭箱にお金を投じたのですが、その額は、レプトン銅貨2枚だというのです。レプトン銅貨2枚の価値は、いくらかと言いますと、当時、一日働いた人がもらえる賃金の64分の1だというので恐らく百円程度かと思われます。イエス様は、その姿を見て、「彼女は“生活費を全部入れた”」と言っておられます。実際は「生活費」という単語が使われているわけではありません。実際は英語でいうところの「ライフ(命、生活)」に当たる単語が使われています。つまり、イエス様は「彼女は命を捧げたに等しい」。そう言っておられるのです。ある先生がこのことの意味がわかる話を書かれています。

それは、ユダヤ教の教えにある一つの話しです。その話は、このようなお話しです。ある貧しい女性が一握りの小麦粉を神殿に捧げにやってきました(当時、小麦も捧げ物の一つでした)。ユダヤ教の祭司は、彼女が持ってきた一握りの小麦粉を見て、「こんな少ない捧げものとは、どういうことか。こんな少ない量でいったい何ができるのだ」と彼女を蔑むのです。しかし、その時、天から神さまの声が鳴り響くのです。「この女性をさげすんではならない。彼女は自分の命を捧げたのだ」その天から響く声が聞こえて来た時に、ユダヤ教の指導者は夢から覚めた・・・というお話です。「一握りの小麦粉」・・・それを捧げることは、貧しい彼女にとって、命を捧げたに等しいことなのです。

このことが良く分かる、同じような話しが、旧約聖書にあります。

旧約聖書でエリヤという預言者が、これも「やもめ」と呼ばれる夫のいない女性のもとに遣わされます(列王記下17章1節~)。当時、国中が飢饉で食べ物がありませんでした。夫のいない「やもめ」は餓死寸前でした。エリヤが彼女の家を訪れ、彼女に水をくれませんかと尋ねます。そして、お腹が空いていたので、「パンも一切れ、持って来てください」とお願いするのです。

すると、その女性はこう答えます。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンなどありません。ただ壺の中に“一握りの小麦粉”と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、私と私の息子の食べ物を作るところです。私たちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」つまり、一握りの小麦粉を使ってパンを焼いてエリヤに差し上げるということは、私たちの命をあなたに捧げるのと同じなのですという意味です。神殿でレプトン銅貨2枚を捧げた彼女ですが、レプトン銅貨2枚の価値は、「一握りの小麦粉」と同じ価値だったと私は思います。

ですので、イエス様は、「彼女は生活費の全て(つまり自分の命)を捧げたのです」とおっしゃったのです。イエス様は彼女の何を褒められたのでしょうか。それは、彼女の神さまに対する信頼です。私たちと神さまとの間に必要なもの、それは、神さまに対する信頼です。富んでいても、貧しくても、日毎の糧をくださる神さまへの信頼が大事なのです。「信頼」というのはまだ見ぬ未来を委ねて託すことです。「信用」とは少し違います。神さまを「信用」するのと、神さまを「信頼」するのとは違います。「信用」とは信じて用いると書きますので、神さまを信用するというのは、「神さま次第で私の思いは変わります」という感じになります。一方で、神さまを信頼するというのは、「どんな時でも、どんなことがあっても、どこまでも信じ続けます」という思いです。

もちろん、神さまは、信頼するに相応しい人ですし、信頼しなさいとおっしゃっています。今日は「日毎の糧を今日もお与えください」という祈りを見てきました。この祈りを祈る時、大切なのは信頼と感謝なのです。

「日々の糧を必ず与えてくださる神よ、今日もその糧を私にください」と祈っています。蓄えがある時、特に未来に不安がない時は、感謝してこの祈りをお祈りください。また、蓄えが底をつきそうになった時には、信頼して祈ってください。貧しい時も、富んでいる時も、大切なのは、神は、日毎の糧を与える愛情深い神さまであることを信じることです。もし皆さまが、いつも神さまに対して信頼と感謝を持つことができると、どんな時にも(つまり、豊かな時も、貧しい時も)「心から」こう言える人となります。「人はパンだけで生きるものではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」(マタイによる福音書4章4節)このみ言葉が「私の思い」でもあるようになった時、人は、本当に強くなると思います。悪魔はこの信仰に打つ勝つことはできません。

だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 (マタイによる福音書6章31節~33節)