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〇時は愛を育む媒体となる
おはようございます。今日、皆さまとイエス様の復活をお祝いできる恵みを感謝いたします。復活のお祝いとは「イエス様の復活が私の人生を変える(変えている)」という喜びの礼拝でもあります。私は、今回、この受難週を過ごしていて、一つ気づかされたことがありました。それは、「時間」なんです。「時間は大切だ」ということを言いたいのではなく「時間って愛を育む土台」なんだということなんです。そういう意味では時を創造された神さまは凄い方だなと思います。時間があるから、こうして私たちは今一緒の時間を過ごしています。「時間があるから、人と人との繋がりが生じてくる」し「人と時間を一緒に過ごす時に、その思い出は替えがたい貴重な時になります」また「誰かのために思いを込めて自分の時間を使うと、その時間は愛情という形に姿を変えていく」。時間は麗しい実りに変換されていく・・・。そう思いませんか?
昔、あるタレントさんがおっしゃっていました。自分の親は小さい頃、一緒に歩いていた時に落ちているどんぐりを見つけて拾おうとすると、腰を下ろして一緒にどんぐりを眺めていてくれた。(一緒にその時間を過ごしてくれた)。
それが自分の知的好奇心をどんどん養っていった。一方で、今の親は忙しくて、「汚い」とか「早くしなさい」とか言って、子供にとって大事な時を過ごそうとしない親がいる。そうおっしゃっていました。私、以前に「子供に対して物を買ってあげることを愛情だと誤解していませんか」そんな言葉を聴いたことがあります。現代は、忙しくて、子供に時間を割くことができなくなっています。すると、何かを買って笑顔を見たくなってしまうんですよね。
でも、本当の愛情は、お金ではなく、自分の時間をあげることなんですよね。
時間は相手を思って(相手のために)使うと麗しい実りに変わるのですよね
なぜ、このような話しをしているのかと言いますと、わたし、聖書を読んでいて、なぜ、神さまは十字架という痛みを通して罪を贖うという、回りくどいようなことを神さまはなさるのかな?と思ったことあるんです。
「赦されています」という言葉だけでもいいじゃないかって思ったことがありました。どうして、イエス・キリストがお生まれになるまで何千年もかかったのか。そもそも、なぜ、神は人となり、約30年間私達の間に住んでくださったのか。それが「神の愛」だったのですね。
神が人となる。神が、私たちと一緒に住まわれる(インマヌエル)。
神が私たちのために“人生を捧げられる”。全て時間が関係していて、それらが神さまの深い憐みの心(愛)の表れなんですよね。その深い憐みの心は、ご自身の尊い時間を媒体として、私たちに届けられてきたのです。
(ちょっと難しくなってきてすみません?)
このことと繋がって、実は、もう一つ私の中で、クリアになったことがあるんです。それは何かと言いますと、「イエス様は十字架に架けられてしまったのか」、それとも「ご自身で十字架に架かられたのか」という疑問です。
よく、「十字架に架かってくださった」というけれど、聖書を読むとユダに裏切られて「十字架に架けられた」わけですよね。これ、どういうことかなぁと思っていたのですが、こういうことです。それは、「イエス様は十字架に架けられてしまうという定めの人生を引き受けられた(あえて十字架につけられるようなことをしたのではなく)」ということです。もし、皆さまが、生まれてくる前に神さまと会話が出来たとして、「どんな人生がいいか?」と尋ねられたらどうします?良い人生を選びませんか?誰も、「裏切られて、鞭打たれて、十字架を背負わされ、十字架で処刑され、しかも、誰にも感謝されない」そのような人生を選ばないと思います。しかも、「全人類の全ての罪を背負って、神さまに呪われて終わります」という人生です。でも、イエス様は選ばれたんです。イエス様はご自身の時間をそのように用いることを選ばれたのです。
イザヤ書にこう書いてあります。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ書
53章3節~5節)
神の独り子であるイエス様の人生は、交換する人生だったのです。
私たちのマイナスを受け取り、ご自身のプラスを私たちに与える。
私たちの汚れを引き受け、ご自身は汚れた者となる。そのような人生でした。何よりも、イエス様は私たちの背きのために、代わりに刺し貫かれ、私たちの咎のために、代わりに打ち砕かれていくという苦しみを引き受けられたのです。そして、最後に私たちの罪を全て背負い、私たちを清いものとし、ご自身が神さまの前に汚れた人となり呪われる者となっていかれたのです。
それは、全部、交換なのです。イエス様はご自身の人生をそのように用いることを善しとされたのでした。イエス様は十字架に架けられてしまったのではなく、十字架に架けられるという人生を引き受けてくださったのです。
それは、私たちの罪を背負い、私たちが義となるためでした。
しかし、ここが大事なんです。人のために、自分の時間を(人生を)費やすならそこには必ず愛の実りという麗しい実りが生じてくるのです。
これが、この天地を造られた神さまの“摂理”なのです。
今日、お読み戴いた、聖書箇所、イザヤ書にこう書かれています。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らを投げ打ち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。
(イザヤ書53章10節~12節)
イエス様は、まず、復活されました。それは、そのようにして、自分の人生を犠牲にした神の御子の歩みを天の父なる神は放っておかれることはなかったということです。さらには、そのことによって、イエス様は、世界中の人が神の前に、義の衣を着せられた姿を見ることができたんです。
世界中の人の喜ぶ顔を見ることができたんです。
◯ 聖書の記事から
今日、私たちはイエス様の復活の記事を見ています。
婦人を含めた弟子たちは、イエス様は死んでしまったと思っています。
「人は救えても自分は救えないのか」という心無い人の言葉が、彼らの心の中で「人は救えてもご自身は救えなかったのか・・・」そんな絶望的な思いに切り替わっていたかと思います。どんな思いで婦人たちは香油を塗りに行ったのかはわかりませんが、恐らく、「自分が愛するイエス様のためにできる“最後の行為”」と思っていたでしょう。そのような彼女たちが遭遇したのは、空になった墓、現れた御使い、そして、復活の宣言でした。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
(ルカによる福音書24章4節~7節)
今日、説教の題を「恐れるな」と致しました。イエス様の十字架は、見た目には、“人の力によって”なされたという受け身的(人の勝利)な出来事でした。もし、受け身で終わるのならば、不安な人生しか私たちにはありません。しかし、神の御意思(聖書の言葉)が当然のことながらそれを上回っていました。フィリピの信徒への手紙にこうあります。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。(フィリピの信徒への手紙2章6節~9節)神というお方は、報いてくださる神です。悪い者にはそれに応じた報いを、良い者にはそれに応じた報いを与えるお方なのです。今、ロシアとウクライナで起こっていることを考えると、納得いかないこと多いじゃないですか。しかし、神がいらっしゃるから、悪いことをしている者にはそれに応じた報いが与えらます(どのようにかはわかりません)。だからクリスチャンは希望を持つことができます。
もし、神さまがいらっしゃらなければ、つまり、この世が人の歩みだけで作り上げられていく世界ならば、みんな好きなように生きようと思うし、好きなように生きた人が得をするというとか、納得いかない世の中になってしまうと思います。しかし、神はいらっしゃいます。神は、報いる方です。
悪い事にも、良い事にも報いてくださる。それが、イエス様の復活によっても明らかにされました。だから、この不安な社会においても、私たちは恐れで打ち負かされることなく、未来に希望を持てるのです。
また、私たちの人生に起こる様々な不安な出来事も、人の悪事より神のご意志が勝っているからこそ、恐れで打ち負かされることなく、希望を持って明日を見ることができるのです。聖書にこうあります。
「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。(ルカによる福音書12章4節~5節)イエス様の復活は、悪は打ち勝てないということの証しでもあるのです。そして、神はあなたの見方であるという証しなのです。
だから、この不安な社会においても、私たちは恐れで打ち負かされることなく、希望をもって明日を見ることができるのです。
そして、最後に私たちが一番恐れるのは死です。しかし、それも恐れなくてもいいのです。イエス様の復活は、神学的には「私たちもイエス様と同じように、死んでも復活する」ということを教えています。
イエス様は十字架で死なれ、そして、安息日にお墓に入られましたよね。
そして週の初めの日に復活されました。ちなみに安息日とは働かない日、体の動きを止める日(霊的に主の側にいる日)です。
私たちは死ぬと墓に入ります。これは終わりを意味するのではなく、神学的に言いますと、罪を犯すこの体が停止する日、霊的に神の側にいる日なのです。そして、何を待っているのかと言いますと、イエス様と同じように、永遠に朽ちない蘇りの体を頂くのを待っているのです。新しい天と地が創造されるとき、私たちは永遠に朽ちない蘇りの体を頂くのです。
私たちの一番恐ろしい死を打ち滅ぼし、私たちに希望を与えてくださった。
このことも、復活のメッセージなのです。
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