宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ルカによる福音書13章1節~9節


 「良い人になるために」

説教者  江利口 功 牧師

 

◯ 人の声を聴かないとこうなる

 おはようございます。今、世界中の人が、ウクライナで起こっているロシアとの争いに注目しています。コロナがようやく終息してきたかと思ったら、また、世界を揺るがす出来事が起こってしまいました。

コロナ禍の二年間、私たちはマスクをし、外出を避け、本当に色々と自粛して、コロナで死者がでないようにと一生懸命頑張ってきたと思います。

にも関わらず、たった一人の独裁的な人の指示によって、日本でコロナが原因で亡くなられた方の半数位の数の人が、この半月で亡くなってしまったのですね。改めて、人が起こす戦争というのは、自然のウイルスより厄介ですよね。私たちは小さい頃から「人の意見を聴くように」と教えられています。

しかし、ロシアの大統領を見て思うのは、「人というは、他の人の意見を聞かなくなるとここまで歪んでしまうのですね」

◯ 神の声を聴く

 他人の声を聴く(他人の意見に耳を傾ける)これは大切なことです。

これを大事にしないと周りを不幸にしてしまいます。

しかし、私たちがもっと忘れてはならないことがあります。

それは、「神の声を聴く」ことです。毎週、礼拝を通して神のみ言葉を聴く。また、普段、聖書を読む、また、祈る。そして、語られてくる神の言葉を受け止める。そのような信仰者の歩みが、良い実をもたらす生き方へと変えられていくのですね。神の言葉は、人が語る言葉と違い、聴く人を生かし、教え、導き、心に慰めを与え、そして、永遠の命に至らせる、そのような力を持っています。

◯ 今日の聖書箇所

 さて、今日の聖書箇所ですが、群衆の中の何人かがイエス様の所にやってきて、一つの悲劇的な事件の話しをします。

聖書のルカによる福音書13章の1をご覧ください。ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生贄 いけにえ に混ぜたことをイエスに告げた。ピラトというのは、ローマの皇帝から任命・派遣されたイスラエルを治める総督です。ちょっと独裁的な空気を持っています。

その総督ピラトが、エルサレムに巡礼に来ていた人を捕まえて処刑したようです。恐らく、過ぎ越し祭りか、仮庵の祭りの時だったと思われます。

これらの祭りの時にはユダヤ人男性は生贄の動物を捧げるために必ずエルサレムに巡礼することになっています。どちらかの祭りの時に、理由はわかりませんが、何人かの巡礼者がローマ兵に捕らえられて、処刑されてしまったというのです。重要な祭りの時には儀式のために動物の血が流されるのですが、巡礼者(ガリラヤ人)の血も流されたので、ガリラヤ人の血を彼らの生け贄に混ぜたと表現したのだと思います。

どのような意図で、彼らがこの話をイエス様にしたのかは判りません。

しかし、イエス様は、彼らの話を用いながら、彼らに大事なことを教えていかれるのでした。イエス様はこうおっしゃいました。

「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、他のどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいた他のどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなた方も悔い改めなければ、皆、同じように滅びる。」(ルカによる福音書13章2節~5節)。恐らく、彼らは、神の神殿があるエルサレムという場所で、そのような被害に遭ったので「その人に神の裁きが降ったに違いない」そう捉えたのだと思います。また、イエス様はシロアムでの事故を挙げられていますが、シロアムでの事故もまた、シロアムという神の神殿の近くで起こった出来事なので、「被害にあった人は神の裁きが降ったに違いない」そう噂されていたのだと思います。しかし、イエス様は、彼らが話した出来事から、それを他人の事ではなく、彼ら自身のこととして、彼らの霊的な目を開かれていくのでした。

そこで、イエス様が話されたのが、いちじくの木の喩えでした。

「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地を塞がせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」(ルカによる福音書13章6~9節)

イエス様の彼らに対するメッセージは、神の裁き(神の怒り)です。

「神の前に罪深い者(良い実をもたらさない者)は、誰でも神の裁きを受けるのです。あなた方も自分を省みなさい」というメッセージだったのです。

◯ 聖書との出会い

 私は中学生の頃に聖書と出会ったのですが、聖書を初めて読んだとき「目からうろこが落ちた」感じがしました。私は自分の性格があまり好きではありませんでした。「自分を変えたい」という思いが強くありました。

そのような私にとって、聖書に書いてある律法というか、イエス様やパウロの言葉、また、姿は、素晴らしい基準(道しるべ)だったんです。

「修行したら自分もイエス様やパウロのようになれる」そんな風にも思っていました。恐らく、「非の打ちどころの無いような良い人」に対する憧れ(美意識)があってそれを求めていたのかも知れません。でも、そのような美意識を持つと、そう出来なかった自分の過去が“恥”になっていくのです。

これは辛いことでした。

◯ 神学を知る

 洗礼を受けて、神学校に行き、聖書を学んでいくと、今度は、「罪人である」ということを知るようになりました。しかも、「あなたには神さまの前に1%も1mmも良い部分がありません」ということを学ぶのです。

良い人になりたいし、そのように聖書は教えているはずなのに、神さまの前に良いところが全くないと教わるわけです。

◯ ちゃらんぽらん製造所

 ここ数か月間、桜井教会でも、橿原教会でも、祈祷会でずっと十戒を学んで来ました。この前の木曜日、どちらも十戒の学びが終ったのです。

その学びの最後に、究極の話をしました。「人は誰でも自分にとって善をなそうと思って行動する。でも、人が善と思って行動することは、本当の善ではない。人は神の善を行う力がない」簡単に言うとそういう事をお伝えしました。十戒を通して「してはならないこと」「すべきこと」を学んでいるのに、最後に「人間には出来ません」そう締めくくるのですから、こんがらがりますよね(吉本新喜劇でしたら皆こけてしまう場面です)。

また、それが聖書の結論だったら、誰も十戒を守ろうとも思いませんし、それよりも、みんな「良い人になりたい」と思ってみ言葉に耳を傾けているのに、それを否定すると、教会は、ちゃらんぽらんな人を作ってしまう。

良い人になりたい人でさえ、ちゃらんぽらんな人にしてしまう。

そのような場所になってしまいます。しかし、大事なのは、神の律法は、まず、私たちが罪人であることを教えるのです。神の前に、人は絶望しなくてはならないのです。そして、イエス・キリストと出会わなければならないのです。

パウロはこう言っています。わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。

そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。

それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。(ローマの信徒への手紙7章9節13節)。律法が与えられたのは、私たちが悪魔の存在、悪魔の邪悪さ、自分がその悪魔に支配されていることを知らせるためのものであったと云うのです。

◯ 良い人となるために神が何をしてくださるのか

 イエス様が今日おっしゃっている喩えに耳を傾けると、大事なことが見えてきます。聖書のメッセージは「良い人となるために私はどうすればいいのか」ではなく「良い人となるために神は何をしてくださっているのか」なのです。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。

そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

◯ 週報の絵の解説

 今日、週報に一枚の絵を載せました。そこには、いちじくの木の両側に主人と園丁が描かれています。主人とは、父なる神さまで、スコップ(シャベル)を持った園丁とはイエス・キリストを示しています。

そして、いちじくの木が私または、あなたなのです。

 この絵から分かることは、主人も園丁も、いちじく木を見ながら、良い実りが出てくることを考えています。そして、園丁は一生懸命、いちじくのために肥料をやり、手入れをして、実らせようとしているのがわかります。

何よりも、私(あなた)には実りがないのです。

聖書は、「あなたには実りがないぞ」と教え、神さまは、その私(あなた)を、実りをもたらすように(良い人となるように)、たえず、心を注ぎ、手入れしようとしているのです。父なる神の声こそ律法であり、イエス様の声こそ福音なのです。

◯ 諦めない園丁

 イエスさまはある時、こんな譬えを話されました。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」(ルカによる福音書8章5節~8節)

イエス様は、種とは、神の言葉のことであるとおっしゃっています。

そして、種を蒔く人とはイエス様ご自身なのです。

イエス様は、良い時も悪い時も、私(あなた)が豊かな実りをもたらすようにと、いつも種を蒔き続けてくださる。諦めずに種を蒔き続けているお方なのです。

◯ 聴従

 最初に神の声を聴くことの大切さをお話ししました。

人は、他人の言葉に耳を傾けなくなると周りを不幸に巻き込んでしまいます。

神の言葉を聴かないと、「自分にとっての善」を突き進み、周りに悪影響を与えます。では、周りを幸せにする方法とは何か。

それは、常に、神の言葉に耳を傾けることです。

イエス様の言葉に耳を傾けて、自分を修正してく時、周りが変化してきます。独りよがりの善は、周りを巻き込んでしまうのです。

私は、神学校に行って、やっと自分が実りの無いいちじくの木であることが判りました。聖書は、そのことに気づかせようとしていることが判りました。

そのことが判って、やっと、イエス様の姿が見えてきました。

誰もが「良い人になりたい」そう思って生きています。

そして、自分は「良い人だ」と思っています。(少なくともあの人よりはましだ)。しかし、それが悪魔の業だったのです。

悪魔は私たちを良い人であると思わせます。

なぜなら、私たちが本当の自分の哀れな姿を知ると、イエス様のところに行ってしまうからです。私(あなた)という、実りの無いいちじくの木の両側に(すぐ近くに)神さまがいらっしゃる。私(あなた)が良い人となり、周りに良い影響を与える人となるために、律法を語り、また、福音を語り続けておられる。そのことを今日、感じて戴ければと思います。

私たちは、週の始めに聖餐式を行います。これもまた、園丁として描かれているイエス様がくださる恵みの手段です。これは、十字架での苦しみを通して実現しました。聖餐のパンとぶどう酒を通して、ご自身の神聖に与らせ、また、罪の赦しの恵みを私達のものとしてくださるのです。