宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ルカによる福音書 12章 8~13節


 「御業を見定める」

説教者  江利口 功 牧師

 

■葛藤と成長
●クリスチャンになると葛藤が生まれる
 私は社会人になる前に洗礼を受けたのですが、社会人になって自分がクリスチャンであるということは内緒にすることはありませんでした。でも、そのために、苦しんだことがあります。それは、私がクリスチャンであるという事実と、私がクリスチャンらしく生きれているということのギャップです。クリスチャンではないのに、良い人(できた人)と言われる人はいました。一方で、私はと言うと、全然、聖書の教えに生きている人とは思えないような自分でした。仕事をしていると、色々な問題に直面します。特に、職場の人との人間関係においては、クリスチャンらしく振る舞う事の難しさを常に感じていました。

●葛藤はクリスチャンになった証拠
 「洗礼を受けてからの方が人生がしんどくなった」と思った経験は誰にでもあるようです。でも、これは、洗礼を受けたことによるデメリットではありません。これは、私の中で古い生き方と、神さまがくださる新しい生き方が衝突している証しです。古い革袋に新鮮な葡萄酒を入れたような状態です。
 中には、クリスチャンになって、何も葛藤がないという人もいます。でも、その人は、信仰深いというよりは、洗礼を受けても古い自分のままで好きなように生きている人なのかも知れません(笑)。

パウロはローマの信徒への手紙8章(5~9節)で次のように言っています。(284頁)

 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。

 パウロは、洗礼を受けた者は、キリストの霊が、その人の内に宿ると言います。つまり、神のきよい霊がその人の中で生き生きと生き始めるということです(このことは実感を持ってください)。でも、どうしても古い生き方の自分が抵抗するのです。ですので、自分は愛がないな、不信仰だなと感じるのですが、これは、霊の支配下にいる証拠なんだ、イエスさまが、私を変えようとしてくださっているんだと思ってください。

●ワクチンとよく似ている
 今、一生懸命オリンピックに向けて、日本で、高齢者の方へのワクチンの接種が進んでいます。ワクチンを打つことによって、最初は、「痛い」など副反応が出るけれども、それが、いずれ、自分の獲得免疫になって行きます。すると、その獲得した免疫が、コロナから守ってくれるようになります。たとえ感染しても、重い症状になりません。
 私は、クリスチャンの葛藤も同じようなものではないかと思います。それは、私達の心の中に、きよい神の霊が働きかけるようになると(祈り、み言葉に生きる人になると)、葛藤が生じるようになります。でも、ワクチンで言えば、痛みの後には、感染から守られ、感染しても重症にならない体になっているように、クリスチャンとしての心の葛藤は、必ず、生き方に変化が表れ、やがて、悪から守られ、罪を犯す機会があったとしても、大きなことになることなく済むようになるのです。

■委ねる信仰へと変わる
●クリスチャンになって誰もが経験していく良い変化
 クリスチャンらしく生きる、ということが、少ししんどくなることがありますが、クリスチャンになって誰もが経験していく良い変化もあります。それは、気づいているようで、多くの人が気づかない変化です。

それは、未来に対するものの見方、自分の人生に対する受け止めかたの変化です。

 私は、神さまを信じる人と、そうでない人の決定的な違いは、人生に起こる、苦難のとらえ方だと思います。私たちは、よく「委ねる」という言葉を使います。でも、この「委ねる」という言葉の意味をよく吟味しないと、せっかく神さまがくださった恵みが私のものとならないことが多いのです。

●レットイットビーと聖書の委ねる
 ビートルズというロックグループの有名な曲に、レットイットビーという曲があります。「レットイットビー」というタイトルの意味は、「人生をそのままで委ねていきなさい」そういう意味です。これは、“受け身”で捉える人生感と言ってもいいと思います。

 旧約聖書に、アブラハムという人物が登場します。アブラハムは信仰の父と呼ばれています。なぜ、アブラハムが信仰の父と呼ばれるのかと言いますと、アブラハムはいつも神さまの言葉を信じて従おうとした人物だからです。
 まず、アブラハムは、歳をとっていたにも関わらず、神が、自分の住み慣れた土地を離れて、私が示す土地に行きなさいと言われると、その通りに従うのです。アブラハムが住んでいた所は住みやすい土地でしたし、繁栄していた都市(町)でした。しかし、アブラハムは、行き先がどんな所なのかわからないし、どんな人たちが住んでいるのかも分からないのに、旅立つんです。そこには従順と言うにふさわしい彼の姿が描かれていると言えます。
 その後、アブラハムはイサクという子どもを得るのですが、神は、そのイサクを、捧げよ(殺せ)と命じるのです。しかし、その神の言葉にもアブラハムは従いました。これも、従順と言う言葉で片付けたいところですが、聖書には、その時のアブラハムの思いが書かれています。アブラハムは、必ず神がイサクを返してくれる(その方法は分からなかった)と信じていたと書かれています。意味があるという受け身の信仰です。

 さて、神は、そのアブラハムに対して、こうも預言しておられました。創世記15章(13~14節)(19頁)

 主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。」

 このことが実現していくのが、アブラハムの孫にあたる、ヤコブの時です。ヤコブは、エジプトで大臣となったヨセフの招きにより、エジプトに住むことになります。その誘いを聞いてヤコブは、最初、躊躇するんです。なぜなら、ヤコブにとって、エジプトは、異邦人の国ですし、それ以上に、おそらく先ほどのみ言葉、つまり、自分の子孫は、エジプトで奴隷となってしまうと聞いていたからです。誰でも、自分が新しく住みつく土地で、将来、自分の子孫が奴隷になるとわかっていたらその場所で住もうと思いません。でも、ヤコブは、エジプトへとくだっていくのです。これも受け身の信仰です。

 レットイットビー、「人生をそのままで委ねていきなさい」この生き方の背後には、「何とかなるから」とか「何か意味が必ずあるから」という信念が必要となりますが、クリスチャンはこれに加えて、神が「祝福の神」であるという信仰が必要になってきます。

●神さまはいないという人生観
 神さまはいないという人生観では、未来は、全て、何かの積み重ねで生じます。ですので、自分が全て切り開いていかなくてはならないという思いになります。すると、思ったようにならない時、それは、絶望になったり、不満になったり、自暴自棄になったりします。また、成功したときは、自分の功績にするようになります。

●クリスチャンは受け身の信仰者へと変えられていく
 クリスチャンであっても、そういった、自分で未来を切り開かなくてはと思い続ける方いらっしゃいますが、徐々に

「私の人生は神さまが必ず良いようにしてくださる」「私の人生は、辛い出来事が沢山あったけども、豊かな未来に向けて、一歩一歩、前進している」「神さまは、私を祝福するために人生をご計画してくださっている」という受け身でありながら、前向きにとらえることができる人生観に変えられていくんです。

●主がどうしてくださるのかを見よ
 今日、お読みいただいた、哀歌の3章(25~26節)を共に見たいと思います(1290頁)。

 主に望みをおき尋ね求める魂に主は幸いをお与えになる。主の救いを黙して待てば、幸いを得る。

 主の救いを黙して待てば、幸いを得る。これは、レットイットビーの世界観、神に委ねるという受け身の世界観、「神に委ねて、その結果を見定めて見よ」ということです。

 今日、週報の絵を、ヨナ書の最後のシーンの絵を載せました。神の計画を黙して見定めようとしたのがヨナなんです。ヨナは、神に命じられて、ニネベという異邦人の国に「悔い改めよ」と裁きの宣言をしに行きます。ヨナ書を見ますと、ヨナは、そのことを嫌がっていました。その理由は、怖いということよりは、異邦人という毛嫌いする民族を神が滅ぼすことなく救おうとすることが嫌だったわけです。
 逃げても逃げてもヨナは神さまから逃げ切ることができず、結局、ニネベに行き、「悔い改めよ」と裁きを宣言します。ニネベの人たちが、みな悔い改めます。ヨナは、不満に思い、しばらく(神が本来滅ぼすと宣言された日まで)ニネベの町が見えるところで、その後どうなるかじっと見定めるんです。でも、ニネベの町は神さまに裁かれることはありませんでした。ヨナはそのことに不満をいだくのですが、神は、ヨナが、見定めようとじっとしていた時に、ある不思議な出来事を起こし、ヨナに、神の愛がどのようなものなのかを教えるのでした。ヨナは、神の御業を見定めることによって、本当の神の愛を知っていくという、彼にとっても意味のあるご計画であったことを彼は再発見するのです。

●見定めつつ、祈る
 私達の人生は、時に、納得できない状況になることあると思います。クリスチャンになったのに逆に試練ばかり起こると思えることも沢山生じます。
 その時に、まず、「委ねる」ということが大事になっていきます。つまり受け身の人生観です。そして、「黙する」ということも大事です。しかし、この「黙する」というのは、何もせず、ただ、じっとしているということではありません。神を礼拝することです。

 先ほど、ヤコブがエジプトに降った時の話しをしました。ヤコブは、エジプトに行くことを躊躇していました。しかし、行こうと決心したのですが、ヤコブは、エジプトとイスラエルの国境沿いである、ベエルシェバという場所で、神にいけにえを捧げて礼拝しています。
 すると、そこで、神が、「エジプトに行きなさい、恐れてはならない、わたしはあなたと共にエジプトくだり、あなたを連れ戻す」と答えをくださいました。
 私たちは未来に対してどうなるのかと考えるとき、必要となってくるのは、神を礼拝すること、また、心のままに正直に祈るということです。すると答えが来るのです。
 今日の福音書の個所でイエスさまは、こうおっしゃっています。

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。

 神さまは全てをご存じです。また、人生の一つ一つを祝福で満たそうとしてくださっています。そのために、通らなければならない道があります。それは、私達の願う道ではないことが多いのです。また、この後どうなるのだろうか・・・と不安になる道であることも多いのです。そこで、神さまは、切に祈り求め、行動しなさいと教えておられます。すると、聖霊が、その試練の中に道を開き、そして、聖霊を通して、心の目を開き、答えをくださいますと教えています。

 試練は、私達に、自分の人生は全て神さまによって計画されている祝福の計画であるという信仰を与えます。試練の時、この試練の意味はどこにあるのだろうかと、切に祈り願い求めつつ、じっと、神の救いを見定めるということが必要になってくるのです。