●三位一体の神は、全てを一体に考えておられる
おはようございます。聖書には、神さまが天と地と、そして、自然と、人を造られた・・・。そのように書かれています。
「土の塵で人を形作り、神さまはその鼻に命の息を吹き入れられた(創世記2章7節)」と書かれているのですが、これは、私達人間は、自然や動物たちと物質を共有しているということ、そのことから、共に一体として生きているという意味なんです。
加えて人間は、命の息を吹き入れられて生きているとありますので、これもまた、神(命の源である神)と共に生きているという意味だと言えます。
神さまは、天地を造り、そして、地上の被造物の世界から、一部(土の塵)と取り出し人を作り、そして、今度は、人から、また、一部を取り出して、今度は異性を造りだされました。もちろん、人は、神さまの息の一部から、つまり、命が、人の中に入っています。また、父、子、聖霊なる神も、3つであって一つであるということから考えても、この世界は、すべて、一つである、「相手があって、私がある」という基本でできているということを表していると言えるでしょう。
●神はいつでも蘇らせることができる
創世記を読みますと、アダムとエバが、取って食べてはならない木から取って食べた時に、人類に罪が入り込んだと書かれています。そして、人は土に返る・・・。そのような定めとなったと書かれています。
井上さんが天に召されて、10日経ちます。アダムとエバが罪を犯して以降、人に定められた土に返るという事実は、私達にとっては、悲しい出来事ですが、創世記にある「土の塵で人を形作り、そこに、命の息を吹き入れられた」という事実をよくよく考えると、土に返るという事実は、神さまのお力によって、いつでももとに戻るということだと言えると思います。命が不滅である以上、神様は、いつでも、どんな土の塵からでも、もう一度、その人を蘇らせることは可能だということになると思うのです。実際に、イエスさまは、死んだ人を前にして、「眠っているだけだ」と、イエスさまはその言葉によって死の意味を教えようとしておられるのだと思います。
●My name isとI am
ところで、みなさま、名前ありますよね。恐らく、一番初めにみなさまの名前を呼んでくれたのはご両親ではないかと思います。両親に抱っこされたり、名前を呼ばれたりして(返事はしませんが)いくなかで、自分の存在というものを意識していくのではないかと思います。外国人と会うと、自己紹介する時って絶対ありますよね。昔、英会話のハンドブックで少し勉強してことあるのですが、その本に、My name isはフォーマルな時の表現で、I amを使いましょう。という風に書いてありました。確かに、名前を聞かれたら、私の名前はという意味で、My name isでいいのでしょうが、“私”という存在を意識して、相手に対して、今、あなたの目の前にいる私は●●なんだという思いを伝えるのであれば、やはり、I am の方がいいなと思いました。
●私の存在I amは永遠?
I am という言葉は、小中学生の時に学ぶ簡単な表現です。I am a boy. (私は男の子です) I am a girl.(私は女の子です) I am a student.(私は学生です) I am young.(私は若い) I am beautiful.(私は美しい) I am clever.(私は賢い) 色々な表現を学びますよね。これらは、全て、「私はどんな者か」を表しています。
でも、よく考えると、どうでしょうか。I am a student. と言っても、いずれ、学生ではなくなります。I am young. と言っても、いずれ、歳をとります。I am beautiful. と言っても、老いてきます。I am clever.と言っても、歳を取れば、ボケてきます。今は、I am a boy.と言っていても、社会的にI am a girl.になる人もいらっしゃいます。全部永遠ではないんです。では、I am .「わたしだ」という事実はどうだろうか。でも、これも人生の最後には、「なくなってしまう・・・」“そう思ってしまう”のが私達だと思います。
「われ思うゆえにわれあり」という言葉があります。「私」「私は私」、その「私」の存在が「どうなるんだろうかと漠然と不安になってくる」。年を重ねれば、誰でも、ふと、心によぎるときがあるのではないでしょうか。これまで、「私!」「私は私!」「これは私の!」と自分の存在を意識していたものが、「この後、私はどうなるのか」「私は私でなくなるのか」そのような解決できない不安で一杯になるのが人生の終わりだと思います。
でも聖書は、あなたは土に返って存在がなくなるのではありません
永遠に存在するのですと宣言しているのです
●神の存在、永遠の存在I amを探し求める
私たちは、自分の存在が不確かに思えた時に、確かな存在である方を探し求めます。その時に、神は、呼び求める者に、「私はある」、「わたしだ」と、永遠の存在である方として現れてくださるのです。永遠の方と出会う時と言ってもいいかも知れません。
旧約聖書の出エジプト記では、モーセが初めて神さまと出会った時に、神さまは最初に「わたしはあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とおっしゃるのです(出エジプト記3章6節)。そして、モーセをエジプトに遣わし、エジプトで奴隷になっているイスラエルの民を救い出そうとするのです。しかし、モーセは、「いきなり私が人々に『あなたたちの先祖の神が私を遣わした』と言えば、何という神だと言うに違いありません。その時、なんと言えばいいのでしょうか?」と尋ねた時に、神さまは、「わたしはある、わたしはあるという者だ」と答えなさいとモーセに命じるんです。これが、英語で言えば、「I am who I am」なんです。
神とはどんな方か?その答えが「I am who I am」なんです。意味は、絶対的な存在、揺るがない存在、永遠の存在、変わらない存在という意味です。たとえ、世界が滅びても、わたしの存在はなくなることは決してないというほどの意味を持っています。
●嵐を鎮めるイエス
今日の聖書箇所ですが、イエスさまと弟子たちが、船に乗って、ガリラヤ湖を横切ろうとしたときに、船が激しい突風に巻き込まれ、今にも、沈みそうになります。弟子たちは、死を覚悟して恐れています(I am??)。イエスさまは、船の後方で寝ておられました(I am!)。弟子たちは、イエスさまなら何とかしてくださると思って、イエスさまを起こすのですが、イエスさまは彼らの前で、「黙れ、静まれ」と叱りつけるようにおっしゃるのです。もちろん、彼らに言ったのではありません(×寝てたのにぃ)。風と湖に対して、「黙れ、静まれ」とおっしゃったのです。すると、風はやみ、湖は静か~になるんです。
弟子たちは、「お~!!!パチパチ」となったのではありませんでした。イエスさまに対して、畏怖の念、「この人はいったいどういう方なんだ」という思いで一杯になったのでした。
●自然も悪霊もそして病も命もその手の中にある
マルコによる福音書を見てみますと、この自然も従うイエスさまの存在に驚いた弟子たちは、今度、悪霊に取りつかれた人を「この人から出ていけ」と言うだけで悪霊が逃げていく出来事にも遭遇します。そして、その後には、誰も治すことができない病を癒すだけでなく、死んだ娘を「起きなさい」というだけで、蘇らせるイエスさまを知るんです。
自然も悪霊もそして病も命も、御意思で自由にできるイエスさまを弟子たちは知っていくのです。イエスさまは、弟子たちに、ご自身が、天地創造の神と等しい存在、言葉一つで全てその通りになる存在であるということをお示しになっていたのです。
●イエスさまこそ「わたしはある」
イエスとは何者だ。これは、弟子たちも、人々も、そして、宗教指導者達も、そして、王様もみな、このことを問い続けるのです。それに対して、イエスさまは、「わたしはある」という存在であることを教えられるのです。
あるときは、イエスさまは「わたしだ」とおっしゃいます。また、アブラハムが生まれる前から「わたしはある」ともおっしゃいました。また、ヨハネによる福音書の8章21節以降を見て頂いても、イエスさまは、「わたしはある」という言葉を何度もお使いになっているのです。何度もいいますが、「わたしはある」という言葉は、モーセが神さまに向かって「何者だ?と問う者に何と答えればよろしいでしょうか?」と聞いたときに、「わたしはある」「わたしはある」というものだとお答えになったその言葉なんです。
つまり、イエスさまは、弟子たちに、人々に、そして、私達に、「わたしは、わたしはある」という者だ、天地を創造した者であり、モーセに表れた者であり、永遠の存在である神であるとおっしゃっておられるのです。
●永遠の存在である神があなたを包み込む
子ども達の讃美歌にこのような賛美があります。
1 きみのとても大切な、かぶと虫やイヌのチビやネコのミケもいつかどこかへいってしまうでしょう。でも神様は変わらないのよ、大きな愛できみのこと包み込んで変わらないのよ神さまの愛は
2 きみがいつも追いかけた、そよふく風やまいちる雪や雨のしずくも、きみの前を通りすぎていくでしょう。でも神様はいつも一緒よ、大きな愛できみのこと包み込んでいつも一緒よ神様の愛は
I am a student.(私は学生です) I am young.(私は若い) I am beautiful.(私は美しい) I am clever.(私は賢い) 私を表現する言葉は沢山あります。しかし、これらは、全て、永遠ではありません。私たちは老います。いつか私たちはI am「わたし」自身がどうなるのかが不安になります。しかし、その時、神は、I am「わたしだ」とその存在を示してくださるのです。
●思い起こしてください
イエスさまが十字架に掛かられた時、両サイドに罪人が同じように十字架にかけられていました。その一人が、最期の時に、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うんです(ルカ23章42節)。彼は、自分の横で十字架に掛かっているイエスさまを、罪のない神の御子であることを認めるんです。この言葉を受けてイエスさまは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と彼に宣言します。自然も言葉で従います、悪霊も言葉で退散します、死んだ人も言葉で蘇ります。その神の御子が、彼に「一緒に楽園にいる」と宣言されたんです。
罪人は、自分の存在がもうなくなろうとしているときに、永遠に存在される神の御子に、「思い起こしてください」と言いました。永遠の存在であるお方が、心に覚えているということは、その人は永遠に存在するという意味です。彼はそれでもいい。永遠なる方の心の中に存在するだけで自分は永遠であると思えたその告白を、イエスさまは喜び「一緒に楽園にいますよ」と永遠をお与えになったのです。
先ほどの子ども賛美ではないですが、永遠の存在の方の愛が、その人を包み込んで一緒に存在し続けてくださるのです。
この神が、私達が今、礼拝している神さまなんです。モーセは燃える柴で、神と出会いました。私たちは、この後聖餐式をしますが、「わたしはある」という方が、「これは、わたしの体、わたしの血と言って、永遠の存在のもので私達の身体を満たそうとしてくださるのです。今も生きておられる「I amなる方との交わり」それが聖餐式です。
●あなたは永遠に存在する
I am a student.(私は学生です) I am young.(私は若い) I am beautiful.(私は美しい) I am clever.(私は賢い) 私を表現する言葉は沢山あります。でも、最後まで変わらないのは、名前です。私の場合でしたら、I am Isao.苗字は変わりますが、名前は変わりません。I am Isao.これは変わりません。神さまは、聖書を通して、「わたしはあなたの名を呼ぶ」そう言ってくださっています。また、神さまは、「あなたを手ひらに刻みつける」ともおっしゃっています。つまり、永遠の神の手に刻まれるとは、あなたもまた永遠に存在するという意味です。
私たちは、永遠に存在します。イエスさまの横で十字架に掛かっていた罪人は、洗礼を受けたわけではありません。でも、楽園にいるとイエスさまはおっしゃいました。ですので、こうして、神さまの前に集う私達を、神さまは包み込んでくださっています。もちろん、神さまは、洗礼を受けるようにと勧められておられます。それは、本当にわたしが永遠に生きる存在である保証を受けるためです。
神は永遠なる方です。私たちは、その方によって、永遠に存在する者となっているのです。
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