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◯ 静かに黙って神の救いを待ちなさい
泳ぎが下手なのか、水が怖いからなのかよく分かりませんが、私はこれまで、何度か溺れた経験があります。溺れかけた経験と言ってもいいかも知れません。二度目に無意識にとった行動によって自力で助かることができました。その後、もう一度、溺れかけた時がありましたが、この時も自力で難を逃れました。
何をしたのかと言いますと、「まずい!溺れる」と思った時に静まったんです。静まるということは何を意味するのかと言うと、水に体を委ねるということ、そして、一旦、沈むということです。溺れると一刻も早く水から上がろうと必死になるのですが、そこを我慢して静まるのです。これまで二度そうやって助かったことがあります。当時のことを思い起こしてみたのですが、恐らく、静まっていた時間は3,4秒ほどです。3,4秒ほどのことでしたが、冷静になることができ、どうすればいいのかを考えることができました。
先ほどお読みましたイザヤですが、30章15節にこう書いてあります。
まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」。神さまは、どこに救いの力があると言っているでしょうか?一つ目、神に立ち返ること。二つ目、静かにしていることです。
そうすれば救われると書かれています。安らかに信頼していることにこそ力があるとはっきりとおっしゃっています。これは、当時のことだけではなく、信仰を持っている人に共通した真理であると言えます。続く、み言葉を読むと面白いと思います。こう書いてあります。(16節)
お前たちは言った。「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえにあなたたちを追う者は速いであろう。もがいても、焦ってもダメな時があります。こんなんじゃだめだ、早く、この状態から抜け出さなければ・・・そういって頑張れば頑張るほどだめな時があるんです。そのような時に大事なのは、神を信頼して、静かにすることです。短い時間でもいいんです。
“馬を降りること(イザヤ書)”なんです。そして、神を安らかに信頼することなんです。
◯ 放蕩息子の話しから(ルカによる福音書15章11節から)
イエス様のたとえ話に、“放蕩息子”の話しがあります。
彼は、親から財産をねだり、その財産をお金に変えて、親から離れて遠くに行くのでした。そして、お金を散財するのですが、お金がつきます。
そして、無一文になった時、その地域に酷い飢饉が起こり、彼は食べ物を得ることができなくて、生死をさ迷うような生活になるんです。そのような時、彼は、ふと、我に返るんです。親と一緒に住んでいた時、わたしは食べ物に困ることはなかった。使用人でさえ、ご飯を食べられていた。私は、何ということをしたんだろう。親に財産をねだり、自分で好きなように生きようとした・・・。ばかなことをした。そうだ、家に帰ろう、そして、父に謝り、使用人にでもいいから雇ってもらおう。そう思いなおして、父親のもとへと帰っていくのでした。帰って行った彼はもちろん再び子供として受け入れられるという展開になっていくのですが・・・酷い飢饉が起こったからこそ、彼は、目が開かれました。
我にかえるということができたのです。飢饉が起こったからこそ、彼は、その生き方を反省すること、また、父という存在の大きさを改めて知ることができたということなんです。この世界は、良いことも、悪いことも起こります。
しかし、悪いことは時に、良いことへとつながるということが多くあります。むしろ聖書は、悪いことを通しても、神は人を良い方へと導かれるということを示しているのです。私たちは、人生に行き詰まった時、これで終わりだ・・・そう思うことが良くあります。しかし、それは、新しい道を見出すとき、神に立ち返る時となるのです。
◯ 救いの場所はどこにあるのか
詩編の121編には次ように書いてあります。目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。これは、信仰を持つことによって、与えられる、平安の原点と言えると思います。助けは神にある。そして、その神はこうおっしゃるのです。「お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」
◯ 聖書箇所を説明
さて、今日の福音書を見たいと思います。ルカによる福音書24章36節をご覧ください。今日も私たちは、復活後のイエス様の記事を見ています。
ここ2週間はヨハネによる福音書からその出来事を見ていたのですが、今日は、ルカが書いた福音書から、復活後の出来事を見ています。イエス様が十字架で処刑された後、弟子たちはイエス様の思いを実現するために、雄々しく立ち振る舞ったというよりは、自分たちも同じようにして捕まるのではないかと思ってビクビクしていたようです。さらには、イエス様を納めた墓が空だったことから、もしかしたら、当局から、また良からぬことをしようとしているのではないかと疑いがかけられるかもと恐れていたようです。ですので、弟子たちは、集まっていますが、部屋の鍵をかけていたと書かれています。
その部屋に、イエス様は現れ、彼らの真ん中に立たれた・・・というのが今日の聖書箇所なのです。鍵をかけたのに、部屋に入ってきたイエス様に驚きました。しかし、イエス様は、ご自身の手や足(傷)を見せて、亡霊ではなく、復活されたことを分からせようとされました。手足があるのを見ても半信半疑で、喜びと困惑が入り混じる彼らに対して、今度は、イエス様は、食べ物があるか?と言って、弟子たちが差し出した焼き魚を食べました。魚を食べた・・・読んだだけでは、少し、コミカルに感じる記事に見えますが、これは、恐らく、聖書を読む私たちに対して、「わたしが出会った主は、幽霊ではなく、本当に普通の人と同じで、手足があり(傷もあり)、また、食べ物も普通に食べられたんです」ということを伝えたかったのだと思われます。さて、この弟子たちに対して、イエス様は、次に、何をなさったのかと言いますと、ここからは、とても霊的になっていきますが、イエス様は、彼らの目を開き、つまり、霊的な目を開き、こうおっしゃいました。46節。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」宣教命令です。
しかし、イエス様は、今すぐ宣教しにでかけなさいとおっしゃいませんでした。何とおっしゃったのかと言いますと、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」そうおっしゃいました。これは、聖霊が降るまで待ちなさいという指示でした。そして、今日、ここを重視して欲しいのですが、イエス様は、「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」とおっしゃったのです。
ここでも、力は神からくる!ということを教えておられるのがわかります。
◯ キリストの平安
今日、説教題を「勝利と平安」という題にいたしました。
神さまは、私たちに平安を与えようとされています。イエス様は、十字架にかかる前に弟子たちにこう言っておられます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネによる福音書14章27節・新改訳聖書)イエス様は弟子たちに、平安を与えるとおっしゃっています。
しかも、イエス様が与えてくださる平安は、この世から受けることができる平安とは違うとおっしゃるのです。平和と平安は違います。平和とは、人と人、国と国との関係に争いがないことを言います。もしくは、問題のない状態を言います。一方で、平安とは、私たちの心の中が安らぎがあることを言います。
この世が与える平安は、争いがないことです。しかし、イエス様がいらっしゃることによって得られる平安は、たとえ、試練や苦難の時であっても見出すことができる平安なんです。私は、今日の福音書を読みながら、信仰者がいかに、平安を豊かに持つことができる信仰を得ることができるのかを教えている個所だと思いました。そのポイントを3つお話ししたいと思います。
◯ 平安を豊かに得ることができる方法
一つ目は、復活し、今も、生きておられるイエス様を知ることです。
イエス様は、弟子たちに手や足、他の福音書では、十字架の傷をお見せになり、また、食べ物を食べることによって、復活したこと、今も生きておられることを知らせておられます。このことは何を教えているのかと言いますと、①神は心の中の存在・概念ではないということ、②私たちは一人ぼっちではないということです。人生の最後の最後まで、人生のどん底においても、神は生きた家族が共にいるように、共にいらっしゃるということです。そして、二つ目、それは、聖書の言葉は、神の言葉であり、必ず、実現するということです。これは、本当に大切な、信仰です。これは、未来に対する信頼と希望を生み出します。イエス様は、弟子たちに聖書の言葉は全て実現すると一緒に居たころ言っておいたではないか。とおっしゃっています。聖書の約束は、必ず実現します。この信仰を持って欲しいというのが神さまの願いです。そして、三つ目、それは、神の力に対する信頼です。イエス様はおっしゃいました。
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」弟子たちは、この後、迫害の中、キリスト教を宣教していきます。しかし、そのスタートそして、不思議な力、また、力強い証しは、上からの力を期待し、待つことによって与えられました。
何を待ったのかと言えば、聖霊が降ることでした。聖霊によって力を得て彼らは世に遣わされたのです。最初にイザヤ書を読みましたが覚えれいらっしゃいますか?「お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」。
◯ 勝利の主に対する信仰
今日の聖書箇所、背後にある大きな真理は何かと言いますと、それは、復活されたキリスト、勝利されたキリストの姿です。悪魔も、死も、イエス様を捕らえることはできませんでした。イエス様は、死と墓を砕き、復活されました。これは、勝利の主であることの証しです。主が勝利の主であるからこそ、私たちの人生は、必ず勝利へと導かれていくのです。信仰者は必ず勝利するのです。
神さまはこの世が与えるものとは違う平安を与えてくださいます。
信仰者は、この世が与える平安とは違う平安を持つようになります。
それは、イエス・キリストに対する信仰によって生じる平安です。
勝利の主、今も生きておられる主、力ある神、そして、み言葉は必ず実現する。この信仰を是非もってください。
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