宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ヨハネによる福音書20章1節~18節


 「あなたを離しません」

説教者  江利口 功 牧師

   

◯ 学生時代の出来事から(死ぬために死ぬ、生きるために死ぬ)

 私が洗礼を受けたのは大学生の4回生の時でした。

同じ学生室にいる後輩の子と話しをした時に彼がこう言ったんですね。

「先輩、死んだら無、死んだら無ですよ」。多分、私がクリスチャンであったので何かの会話からそうなったのだと思いますが、「先輩、死んだら無、死んだら無ですよ」彼は断言していました。私がその時、感じたのは、「それでいいの?」ということでしたが、人にはそれぞれの価値感があって、それぞれの生き方があるから仕方ないな・・・そういう風に受け止めました。

恐らく、「死んだらそれで終わり」と思っている人、周りに少なくはないのではないでしょうか。その人と私たちとの違いって何でしょうか・・・

死後の世界があるかないかだけでしょうか?死んだ後の違いだけでしょうか・・・。そうではなくて、神さまを信じていない人は、人生そのものが終わりに向かって進んでいく生き方なんです。その人は人生の最後に、自分が終わるために死ぬのです。死ぬために死ぬという感じです。一方で神さまを信じている人の人生はどうでしょうか。それは、人生の最後に、生きるために死ぬのです。さらに言えば、今日のみ言葉からわかることは、私たちは最後、イエス様のようになるために死ぬ。生まれ変わるために死ぬということなんです。

ここで何度かお話ししていますが、幼虫がさなぎになるのは蝶になるためであるのと似ています。これは、希望がずっと残されている人生です。

◯ イエス様とラザロ

 今日、私たちは復活祭を祝っています。

イエス様のご復活を祝っています。ところで、イエス様が捕らえられ十字架で処刑される前に、イエス様は信じられないような奇跡を起こされました。何かご存じでしょうか?それは、死んだラザロを蘇らせたのでした。しかも、死んですぐにではなく、死んで数日たったラザロを蘇らせたということで人々はとても驚きました。しかし、疑問が生じないでしょうか。ラザロのように死んで蘇ることができるのであれば、イエス様が十字架に掛かる必要はありません。イエス様がその人のところに行けばその人は蘇るからです。

じゃあ、その違いはどこにあるのか。それは、蘇ったラザロは肉体的には生きていますが、霊的には死んでいるのです。旧約聖書の創世記にエデンの園での話しがあります。人類に罪が入り込んだ時の話しです。神さまははっきりと、「善悪の知識の木からとって食べた時、あなたは死にます」とアダムとエバに言っています。じゃあ、彼らがとって食べた時、彼らは地面に倒れたのかと言いますと、彼らはそのままでした。彼らは、肉体的に死んだのではなく、霊的に死んだのです。聖書が霊的に死んだということを言っても、なかなか私たちにはピンとこないかも知れません。古い世代の人たちに想像できる範囲で例えるならば“ゾンビ”です。若い世代の人たちが想像できる範囲で例えると、“鬼滅の刃に登場する鬼”です。神さまの前においては、肉体的な死は、大した問題ではないのです。それは、ラザロを蘇らせたイエス様の力を見ても分かります。問題は、霊的な死なんです。勿論、霊的に死んでいる状態の人を見る目は人間と神さまとでは違います。」ですので違いがわかりません。

◯霊的な糧、命の水

 あるとき、イエス様は、たった二つのパンを用いて、五千人もの人にパンを与えらました。それを体験した人々は、イエス様にずっといて欲しいと願いました。なぜなら、食べ物に困ることがなくなるからです。

しかし、イエス様は、彼らに何といったのかというと、私は天から降ってきたマナ・パンです。そうおっしゃいました。つまり、五千人をパンを用いて満腹させたのは力を示したのではなくて、霊的な糧を与える存在となることを教えようとされたのです。同じように、サマリアの井戸では、女性が喉を潤す水をくださいと言ったことに対して、イエス様はご自身が霊的な命の水(魂を潤す水)であることを教えられました。

◯霊的な蘇り

 同じように、イエス様がラザロを蘇らせたといっても、イエス様はご自身が死人を蘇らせる力があることを示したかったからではなく、ご自身が、霊的な蘇りを与えるために来たメシアであることを教えようとされたのです。

イエス様の奇跡を見た人の多くは、イエス様にずっといて欲しいと願ったに違いありません。でもイエス様の目的はそこにはありませんでした。

◯ 離したくない

 今日の聖書箇所では、イエス様が墓に葬られた後、一番、初めに向かったのがマグダラのマリアという女性であったことを記しています。マグダラのマリアが墓に言った時、墓の石が取り除けられているのを発見します。そして、葬られたイエス様の体もなくなっているのを知るのでした。彼女は仲間の弟子たちに報告し、もう一度、彼らと戻ってくるのですが、彼女は、イエス様のご遺体を誰かが持ち去ったと思いました。恐らく、彼女からすれば、愛するイエス様が十字架で殺され、葬られたイエス様に会おうとしたら、そのイエス様までいなくなるのですから、彼女からすれば、悲しみに対して、さらに、悲しい事実を突きつけられた感じだと思います。

その事実から、泣いていた彼女にイエス様が声をかけられたのですが、それがイエス様だとわかった時に、彼女はイエス様にすがりつこうとしています。

ここは想像ですが、彼女は、復活したイエス様を見て驚くよりかは、何が何だかわからなかったのではないかと思います。ですので、出会った時の彼女の最初の本能的な行動が“二度と手放したくはない”という思いだったと思われます。

◯ 新しい関係に入ることを教えている

 すがりつこうとしたマリアにイエス様はこうおっしゃっています。

「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」一見すると突き放したようなイエス様の冷たい言葉に聞こえますが、やはり意味があります。彼女も他の弟子たちと同じように、イエス様が復活するということを聴いていたはずです。しかし、彼女がイエス様にしがみついたのは、見えるイエス様であり続けることを望んでいるのです。復活したイエス様は、彼女の目を開くために、ご自身がメシアとして復活し、そして、新しいマリアを含めた私たちとの関係を持とうとされていることを教えられたのでした。その関係とは、地上において、霊的な交わりを永遠に持つことができる関係。全ての信仰者と同時に交わりを持つことができる関係。その関係にこれから入ろうとしていることをイエス様は示しておられます。それが「わたしは上る」という言葉に表されています。

◯ 霊的な方となるために上る

 イエス様がこの地上にいらっしゃれば、奇跡をいっぱい起こすことができる。しかし、それは、人の肉の欲、また、肉の願いを叶えることしかできません。イエス様の十字架でのご受難によって、私たちは、神さまの前に、罪のないものとして、義とされ、神さまとの関係が回復されました。

そして、イエス様が天に昇られることによって、霊的な命の糧を与えてくださる方となり、また、命の水となられたのでした。

◯ 全ての時代に全ての人と共にいる主

 すがりついたマリアの思いは、「あなたを離しません」という思いでした。それに対するイエス様のお答えは、「私は霊的な存在として、ずっとあなたと共にいることになります」という答えでした。そして、今日、信仰者として歩む私たちは、どのようにしてイエス様を捉えることができるのでしょうか。

それは、礼拝においける、み言葉の中に、そして、現実のものとして、この聖餐式が行なわれているこの場所で、私たちはイエス様を捕まえることができるのです。

◯ イエス様と出会いたければ聖餐式に行きなさい

 私たちの人生は、死んで終わるものではありません。

それをラザロを蘇りとご自身の復活を通して世界にお示しになりました。

さらには、ご自身の十字架による死によって、私たちをつかんで離さなかった悪魔の手から私たちを解放し、また、私たちをつかんで離さなかった死というものから、私たちを解放してくださいました。また、死んでから神さまの力が私たちに及ぶのでもありません。聖書の神さまに対する信仰を持つ人は、今、キリストと交わることができるのです。イエス様を探す必要もありません。

礼拝が行われる場所、また、聖餐式が行われる場所にイエス様は必ずいらっしゃるのです。

◯ 今、すでに恵みの中に生きている

 イエス様は、ご自身のことを「いのちのパンです」とおっしゃいました。

また、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」とおっしゃいました。私たちは飢え渇きという言葉を使います。魂の飢え渇きは気づいていないようであるんです。それを満たすのがイエス・キリストというお方です。

また、人生に導き手が欲しい、私を守ってくれる人が欲しい。誰だってそう思うでしょう。だからこそ、イエス様は「わたしは善き羊飼いです」とおっしゃいました。また、私たちはいつも希望の光を必要としています。

イエス様は「世の光です」とおっしゃいました。そして、全てを含めるようにイエス様がおっしゃったのは・・・「わたしはぶどうの木であなたがたは枝です」「わたしに繋がっていなさい」「離れてはいけません」という言葉でした。

最初に「死んだら無」ということを言った後輩のことをお話ししました

。神を信じるということは、死んだ時にわたしはどうなるのかということの議論ではありません。そうではなくて、神を信じるということは、今、この時点で、未来に光を見て歩み始めている人のことを言います。そして、神の力がその人の人生に豊かに働き始めた人のことを言うのです。霊的に生きるようになる。この状態を神さまがくださるのです。私たちのとって大事なのは、神から離れないということです。神から離れると、その人は、飢え渇き、そして光を失います。そして、さ迷い命を失います。