宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ヨハネによる福音書12章20節~33節
エレミヤ書31章31節から34節

 「死んで生きる」

説教者  江利口 功 牧師

 

Good Newsを聴くことが大事

◯外にでかけてみると・・・

 イースターは春の祭りなのですが、春になると日差しが心地いいですよね。教会の桜も咲き始めました。私は休みの日には、できる限り自然の中にでかけるようにしているのですが、この前、甘樫の丘に行きますと、色々な木々が芽吹き始めていました。これまでは、枯れ木のようにしか見えない木であったのに、少し芽吹いているだけで、すごく、生命の神秘さ、力を感じるんですね。さらには、その周辺を覆っている空気もまた、新鮮さがあるんです。これは、写真では伝わってこないと思います。そのような場所にいると、こちらまで内側から湧き出るような元気をいただくことができます。イエス様の十字架と復活は、冬と春の自然の様相と凄く似ていて、イエス様の復活は、神の力による命の蘇りという力強さがを感じることができます。

Bad News Sad news → Good News

 最近、ニュースを見ていると、心の萎えてくるニュースが多いですよね。

政治の世界でも、また、犯罪の世界でも、理不尽なニュース、人格を疑うようなことをする人達のニュースが多くなっていないでしょうか。ですので、Bad News Sad Newsばかり耳に入ってきて、心が萎えてしまう私たちはGood Newsを聴いて、希望を与えられる必要があります。Good Newsとは何ですか。福音のことです。イエス様の十字架と復活のことです。イエス様の十字架と復活のお姿は、私たちに霊的なだけでなく、精神的にも良い効果をもたらします。ですので、精神的に疲れた時は、自然を見ましょう。そして、悪いニュースに疲れることのないように、福音にいつも耳を傾けていましょう。

■聖書箇所の内容の説明

◯ 簡単に会えない?

 さて、今日の聖書箇所ですが、これはイエス様が十字架にかかる(捉えられる)週の話しです。今日の個所で、“祭りの時”と書かれていますが、これは過ぎ越し祭りのことを意味しています。この時期は、ユダヤ教徒はみんな神殿に行かなければなりません。一説によりますと、家族の代表、もしくは、ご近所単位で代表の人に行ってもらうという風になっていたとも言われています。

とにかく、沢山の人がエルサレムにやってくるのが過ぎ越し祭りです。

そして、ユダヤ教徒と言ってもユダヤ人ばかりではなく、ギリシア人もいましたので、今日の個所で礼拝に来ていたギリシア人の話しが書かれているのです。さて、礼拝に来ていた何人かのギリシア人が「イエス様にお目にかかりたい」とイエス様の弟子のフィリポのところに来ています。そして、フィリポはアンデレに話し、そして、フィリポとアンデレがイエス様の処に行っています。私は、この個所を読んで、どうして、イエス様に会うのにこんな手間がかかるのかと思いました。お祭りで人でごった返しているので探しにくいということかも知れませんが、もしかしたら、イエス様がすでに少し危険な状態、つまり、イエス様を狙っている人たちが出はじめていて、少し緊張感があったのではないかと私は思います。

◯ 時が来た

 さて、イエス様は、この訪問者を受けて、ご自身の終わりの時が来たことを悟られたようです。イエス様は、こうおっしゃいました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」一粒の麦とはイエス様のこと。地に落ちて死ぬというのは十字架で死ぬということ。そして、多くの身を結ぶというのは、イエス様の死と復活がこの世界にもたらす実りのことを言っています。

◯ 他者のために生きよ

 私たちは、ずっと、イエス様の十字架の話しを聖書を通して学んでいます。確かに、イエス様の十字架による贖いがなければ、私たちには救いもないし、希望も見出せません。しかし、忘れてはいけないのは、イエス様のこの受難というのは、本来、イエス様に全く関係のないことであったということです。

イエス様は十字架に掛かる必要が全くないのです。罪のない生き方をされたそのご生涯を見ても、十字架に掛かる必要はありません。加えて、エルサレムに来なければ捕まることもないのです。イエス様のご受難は、100%、私たちを救うためだけなんです。少し難しい表現をしますと、他者のために、自らの命を捨てるという生き方なんです。イエス様はこうおっしゃいました。

「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」ここには、他者のために命をささげるキリストの姿が描かれているのと同時に、私たちにもこの生き方の意味をしってくださいというイエス様の願いもあるのです。

■鬼滅の刃から

◯鬼とは

 少し前のことですが、鬼滅の刃という映画が流行りました(今も流行っている:韓国、北米)、簡単に言えば、鬼をやっつける漫画です。そんな風に言えば、昔話の桃太郎のお話しのように感じますが、桃太郎のように勧善懲悪の話しではないんです。確かに、時々、流れる、残酷なシーンがあり、北米では16歳未満は注意してみてくださいとされています。それでも、子どもだけなく、大人までも涙を流すと言われる映画が、鬼滅の刃という映画なんです。

映画ではなく、この連載漫画には、鬼がいくつか登場するんです。

登場する鬼というのは、実は、もとは人間で、鬼の血をもらって鬼になったのです。話しの中にでてくる鬼には、それぞれ、鬼になることを選んだ理由があるんですね。それは、辛い経験、悲しい経験がその背後にあるんです。

鬼になれば、この辛くて悲しい境遇から解放される、人を見返すことができる・・・「鬼になるか?」そんな甘い囁きのゆえに鬼になることを選択してしまったのが鬼なんです。私もこの連載漫画を見ていると、「あ、わたしもそういう境遇だったら、同じように鬼になる選択をしてしまうかも知れない」そんな風に共感できてしまいます。それがこの漫画が人気ある理由だと思います。

もちろん、鬼になれば、過去の記憶はなくなり、本当の鬼になってしまうのですが、鬼が死ぬときに、主役の男の子に触れられることによって、鬼の様相がとけていくんです。もとの人間に戻っていくというか、解放されていくんですね。これも、このストーリーの良さだと思います。最初に、最近のニュースがBad News Sad Newsが多くなってきたと言いましたが、今の社会の理不尽にも感じるニュースは、まさに、鬼(すなわち自分を制御しきれなくなった人)になってしまった人間が起こした事件のように見えるし、また、事件に巻き込まれた人にとっては、「お前も同じように生きたらどうだ」そんな誘惑の声が聞こえてもおかしくないニュースばかりなんですね。

◯錬獄さん

 さて、今回の映画の見どころ、涙するところが、一人の剣の達人(練獄さん)の最後なんです。彼は、最後、仲間や一般の人を助けるために、命を惜しまず死んでいくんです。鬼はそれを愚かだと見るし、さらに、鬼は、その達人に対して、「お前も鬼になれ」「鬼になったら何年でも修行して強くなれるぞ」「鬼になったら死なない」「俺を見ろ、お前に切られた傷はすぐなおる。お前はどうだ目もつぶれ、骨も折れて、あとは死ぬだけだ」そう言って、「お前も鬼になれ」そう誘うんです。でも、彼は鬼の誘惑に対して「おれは鬼にはならない」「君と俺とでは価値基準が違う」。つまり、“生き方、生きる目的が違う”そう言うんです。

■イエス様の教え

◯イエス様のお姿

 私は、このストーリを見て、イエス様の荒野の誘惑の話しを思い出しました。イエス様が荒野で悪魔から誘惑を受けた時、悪魔がこう言いますよね。

 「神の子なら、石をパンに変えたらどうだ」。これは、人であることをやめて、神に戻れ・・・。そんな誘いですよね。でも、イエス様は、「神の一つ一つの言葉によって生きる。そう書いてある」そう返しました。今度悪魔は、では、聖書にこうかいてあるから、本当かどうか試してみろ、そのように誘惑しますが、イエス様は、「神を試みてはいけないと書いてある」そうお返しになります。最後に、悪魔は、おれを拝め、そうすれば、お前はこの世界の頂点に立つことできる、お前は、この世界の支配者となれる、だから、おれを拝め!そういうのですが、イエス様は、この誘惑に対しても、「いや、み言葉はただ神を拝めと書いている」そう返されるんですね。「お前も鬼になれ」「おれは鬼にはならない」「君と俺とでは価値基準が違う」イエス様は、つねに、御言葉を自分の揺るがない基準にされていました。何処までも“父なる神の御心に生きる”これがイエス様のお姿でした。でも、これは、イエス様だけの話しではなくて、イエス様は私たちも同じように御言葉に生きる人となりなさいと教えておられます。今、私たちは、御言葉にいきる(週報)という標語をかかげて歩んでいますが、イエス様はいつも、“父なる神さまのみ言葉(御心)に生きる”。ここに徹しておられました。「わたしの生き方は、父なる神さまの願いに生きることなんだ」そうおっしゃるのがイエス様です。

◯週報の絵から

 今日、週報の写真は、左上に、山の頂点に登った人の姿。

その右に十字架を背負って丘を上がっていくイエス様の姿が描かれています。そして、それぞれの下に一方では、お金が降り注いでいる絵、そして、麦がいっぱいに実っている絵があります。最初に春になれば、木々に芽吹いた葉や花の姿のことをお話ししましたが、この左下の絵と右下絵を見て、どちらが本当の豊かさだと感じるかと言えば、わたしは、右側なんですね。これは、何をお伝えしようとしているのかと言いますと、人はやはり、左側にある上昇志向、成功した人生を目指して歩むし、しかし、そうでない自分を見せつけられた時に、自分を見失うんです。でも、神の御心に従って生きる、他者のために生きる。この生き方は、実は、生きた実りが待っているのです。そのことをお伝えしたかったのです。

◯「死んでも生きる」「死んで生きる」

 この前、一番の下の子が、説教題を書いた看板を見て、これ間違っていない?という風に尋ねました「死んでいきる」。これを「死んでも生きる」ではないのかと言うのです。というのも、今、教会学校では、暗唱聖句で、「私を信じる人は死んでも生きる」というイエス様の言葉を覚えていたからです。

ですので、そう尋ねたんです。「死んで生きる」「死んでも生きる」一文字、“も”が入っているだけで、意味は違います。私たちは、イエス様の十字架によって、死んでも生きる、永遠の命をいただきました。イエス様を信じ、洗礼を受ける人は、このみ言葉どおり、死んでも生きる人になります。

もう一方でイエス様は「わたしの弟子になりなさい」とおっしゃいます。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」この生き方が、「死んで生きる」生き方です。

◯どうなるか不安な生き方かも知れないが

 週報の絵で言うならば、右上の十字架を背負って生きる生き方です。

これは、他者のために荷を負う生き方ということです。でも、イエス様はこうもおっしゃっています。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」「死んで生きる(利他の精神)」この生き方を選択する人は、神と出会う。神は喜ばれる。

そう教えてくださっています。私たちの心は弱いし、もろいんですね。

いつも、鬼になる要素を持っているんですね。そして、悪魔の誘惑「神は何もしてくれない、神を捨てろ」「おれを拝め、そうしたら人生成功する」そんな誘惑に直面すること多いんですよね。そういう時に、「おれはお前に魂を売らない」「御言葉に生き続ける」「父なる神の願いに生きる」「父なる神の言葉通りに生きると必ず命の実りがもたらされる」そう返せる信仰が欲しいですね。

でも、忘れないでください。できる、できないにこだわらないでください。どちらの価値基準を選んでいきたいか、どちらの生き方が本当の実りであるのかを理解しているかどうかがまず大事です。その次に、生き方の鍛錬が始まるのです。最後に、私たちが、今年掲げたみ言葉を読んで終わりたいと思います。

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」