宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
マルコによる福音書8章31節~38節
ローマ人への手紙4章13節~25節

 「誇りは埃」

説教者  江利口 功 牧師

 

◯「信仰」に対するイメージ

 おはようございます。今日は「信仰」についてご一緒に考えて見たいと思います。「信仰」と聞けば皆さまどのようなイメージが浮かびますか。例えば、どんな時でも毎週礼拝に欠かさず来ようとしている人を見て、「あの人の信仰は素晴らしいなぁ」と思われることあるのではないでしょうか。あるいは、毎日聖書を読んでいる人、お祈りを毎日1時間位している人、隣人に心から仕えている人、沢山の献金をした人、そういう方を見ると「あの人の信仰は凄いなぁ、立派だなぁ」と思われることあるかと思います。私もそういう方を見ると、そのように感じます。多くの場合、ご本人が気づいているか、いないかは別として、信仰を持っていることを喜んでおられるのです。その喜びが実を結んでいるのです。ですので、私はその方のお姿を見て、その方に対して「凄いな、立派だな」と感じるのと同じように、いや、それ以上「この方の信仰を深められた神さまってすごいお方だなぁ」と思うのです。

◯ 日本語の「信仰」よりは深い意味がある

 私たちは、聖書を読んでいて「信仰」という言葉が出てきたときに、あまり深く考えずに読み過ごしていること多いと思います。しかし、聖書のもともとの言葉を翻訳する時に、日本人が一番馴染みがある単語として「信仰」という単語をあてたのです。勿論、間違っていると言っているのではなくて、日本語の「信仰」には現れてこないニュアンスを含んでいるのです。

◯ 信仰とは唯一の神を信じること

 では「信仰」とは何でしょうか。まず、第一に「信仰」とは神さまを信じることです。目には見えない神さまを心で信じることです。この点では日本人が考える「信仰」と同じです。ただし、聖書が「信仰」という時、それは、①聖書を通して啓示しておられる神だけを信じる、②神は唯一の方であるということを信じることが求められます。ですので、八百万の神を信じていて、そして、聖書の神も信じているというのは、それは「不信仰」な姿であり「信仰」とは言いません。

◯ 信仰は与えられる

 では、次に聖書が教える「信仰」ですが、それは、神によって与えられるものを意味します。聖書にこういう言葉があります(ローマの信徒への手紙10章17節)。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。信じるということは、私の中にある「信心」が引き起こすものではなくて、神さまが私たちの中に「信頼する心」を引き起こしてくださることにより生まれるんです。このことをイエス様は、羊飼いと羊の関係を用いてこうおっしゃっています。(ヨハネによる福音書10章3節~5節)。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。つまり、私(たち)が今、神さまを信じているということは何を意味するのか。それは、私(たち)は、もともと神さまと一つであったということ。そして、神さまから離れてしまった私を神さまは声をかけて招いてくださったということなんです。

◯神の息のように

 このことをイメージして欲しいと思い、一枚の絵を週報に載せました。これはミケランジェロという画家がシスティーナ礼拝堂の天井に描いた天地創造という絵画です。有名なのでご存じかと思います。この絵は、その中でも、神が人を土から作ったあと、命の息を吹き込まれたというその情景を描いています。神さまが腕を伸ばし、アダムも腕を伸ばして人差し指同士が触れ合おうとしている絵です。

この絵の特徴として、躍動感ある神さまと、まだ生きる力を得ていないアダム(人)があげられるそうです。つまり、人は、神の命の息を吹き込まれることによって、本当に生きる人となったということを現しているのですが、「信仰」についても同じようなことが言えると思います。「信仰」は、神の生きた言葉が耳を通り心に入ってくることによって、私達の中で命となる。よくみ言葉の種という言葉を使いますが、それも同じです。神さまの言葉、特に、イエス様の言葉、(それはイエス様の言葉そのものと、イエス様の十字架と復活の出来事)が私達の耳に入ってきたとき、それが、心の中に入ってきて、そこで芽吹くんです。

◯ ヘセド

 ところで、週報のこの絵なのですが、神さまとアダムの手の上に、文字を加えました。これは、旧約聖書の言語(ヘブライ語)なのですが、ヘセドと読みます。このヘセドという言葉は、人と人、神と人、そういった関係性の中での絆を意味します。カトリックの司祭で雨宮教授はこのヘセドについて、この言葉には、二つの側面があり、それは、両者を結ぶ「愛」と、その愛に対する「誠実」さという意味があるそうです。これはどういう事かと言いますと、神さまが私たちを愛すると言う時、それは、絆を意味しており、この絆に対して神は誠実であり続けられるということです。たとえば、人間が神の愛から離れたとしても、神さまはそれで終わりですとおっしゃるのではなくて(そうなると人に命はない)、神のヘセド(誠実)は、相手を赦し、また、探し求めて連れ戻そうとまでするのです。

◯ 愛の手、信仰の手

 では、私たちはどうなのか。私達は罪人となり、悪魔の虜になってからは、神さまを愛することができません。今、私達の側にあり、求められているのは、「信仰」と「信仰からくる誠実さ」と言えると思います。つまり、神さまは「愛の手」を差し伸べてくださっていて、私たちに「信仰の手」を差し伸べて欲しいと願っておられるのです。実は、聖書が「信仰」という時、つまり、聖書では「ピスティス」という単語なのですが、それは、「信仰」という意味と共に「誠実・忠実」という意味もあるのです。

◯ 神の愛の受肉によって

 最初に、「信仰深い人」のお話しをしました。どんな時でも神さまを礼拝することを第一にする人、毎日み言葉を読み、また、お祈りする人、多くの献金をする人、隣人に心から仕えている人。そういう方のお姿を見て、「あの人の信仰は凄いなぁ、立派だなぁ」と感じます。その方に共通なのは、その人の「信心する力。耐え抜く力」が秀でているのではなくて、それは、神さまの愛がその人の中で受肉した、芽吹いたということを意味しているのです。

 神さまの一方的な愛の姿を人が知り、愛を受け止めることができた人は、信仰を通して神さまとの絆が深められて行くのです。その深められた絆は、信仰による行いによって、豊かに見える形で表れてくるのです。

◯ 誇りを捨てて

 神さまの愛、何が何でも絆を回復したい、深めたいという思い、願い、それが、見える形で表されたのが、イエス様の十字架と復活です。今日の福音書の中で、イエス様がご自身の死と復活について語られた時、ペトロがイエス様をいさめたと書かれています。これはどういうことか言いますと、ペトロにとって、イエス様は「勝利の主・栄光の神である」という願望があったのです。

昔、あるTV番組で、どういう男性が好みか?という質問に対して、一般の女性が「わたしのために交渉してくれる人、戦ってくれる人」そういう風に答えておられました。確かに、そういう男性は頼もしいでしょうが、もう一つ大切な要素ってあると思います。それは、どこまで私のために自分を捨ててくれるのかということです。イエス様の十字架は、一番、神らしくないお姿でした。

敗北者のようであり、無力なようであり、また、罪人の姿、神に捨てられた姿でした。しかし、それは、神さまがいかに私たちを愛してくださっているのか、愛する者との絆を回復するために、誇りを全て捨ててもよいという現れであろうといえるでしょう。

◯ 主を誇る

 最後にみ言葉を読みます(コリントの信徒への手紙Ⅰ1章30節31節)

神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。私たちには誇りがあります。

たとえば、学歴(知恵)であったり、男性であれば強さ、女性であれば美しさであったりします。また、名誉や富であったりもします。しかし、それらは、神さまの愛を知れば知るほど、違うものに見えてくるようになります。

勿論、それらは大事なものではあります。しかし、それに執着しなくなるようになります。むしろ、誇りたいものが、イエス様のことになってきます。

主の祈りの中に、「御名があがめられますように」という言葉がありますが、イエス様を知れば知るほど、この祈りが本当の願いになってくるのです。

信仰は神さまからの賜物です。私たちが主の前に集っているというのは、神さまに愛されている証しでもあります。日々、神さまとの交わりを豊かにするように歩んでください。