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◯ 自由になじまない日本人
おはようございます。みなさま「自由」と聞いてどういうイメージを持たれますか?この前、ある哲学者の方のコラムを見ていますと、おもしろい記事がありました。その方曰く、日本人の生活文化に「自由」という言葉が根付いていないということでした。
◯ 日本人の自由と外国人の自由
私たちはこうしてみんなマスクをしています。コロナの感染予防のためです。町に出ても、マスクをして歩いている人沢山見かけます。スーパーに行きますと、ほとんどの人がマスクしています。スーパーに着いて「あ、マスク忘れたどうしよう」と思った経験がある方いらっしゃるのではないでしょうか。
マスクを着けずにスーパーに入るのはとても勇気がいりますよね。一方で、外国人(特に西洋人)は日本人ほどマスクをしません。日本人だったら“この状況だったらつけるよね”という状況でさえ、マスクをつけない外国人が結構いるんです。もちろん色々な理由があるかと思いますが、外国人の場合は、着けていない自分に引け目を感じないのです。「わたしはわたし」という意識がとても強いのです。服もそうで、自分が着たいと思った服を着ることができるのが外国人です。では、日本人はどうでしょうか。例えば、結婚式。どんな服を着ていくべきかを考えるときに、他の人がどんな服を着てくるのかが気になりませんか。「平服でお越しください」と書いてあったら余計に悩みますよね。
ですので、「あなたはどんな服を着ていくの?」と聞きたくなるのが日本人です。なぜそうなるのかと言いますと、みんなと違う服を着てそこに居ることに“ストレスを感じる”からなんです。「わたしはわたし」で居ることがしんどいのです。外国の人(の多く)は気になりません。みんなと違う服装をしていても気にはなりません。むしろ強制されることの方が“強いストレスを感じる”のです。別の見方をするとこうです。今回のコロナのことで都市封鎖というのが色々な国で行われました。外国人は強制的に都市封鎖しないとダメなんです。なぜなら、強いられることをとても嫌うからです。一方で日本人はどうかと言いますと、“皆がしているのであれば、強いられてもストレスにならない”のです。ですので、強制的に都市封鎖しなくても、皆が外出を控えるムードを作れば必然的に行動を規制することができるのです。実は、イエス様の救いは「自由」と深く関わっています。イエス様の十字架の姿の中に私達の「自由」が隠されているのです。
◯ 聖書の言う自由(奴隷からの解放・赦免)
聖書を読みますと、「自由」がどのように使われているのかと言いますと、一つは、「好きなものを取りなさい」という「気兼ねなく」という意味での「自由」です。しかし、聖書が「自由」という時、その大半は、奴隷の状態からの解放を意味していました。有名なのは、出エジプト記にあるようにエジプトで奴隷であったイスラエルの民がモーセに連れられてエジプトを出ていくという話があります。実は、もう一つ、「自由」について聖書に書かれているのです。それは、「赦免・赦し」という概念です。つまり、「罪」という状態から「自由」になることです。これは、牢獄を抜け出したところで、罪人は罪人です。罪人が唯一、罪人でなくなるのは、「赦免・赦し」しかないのです。
◯ 儀式(奴隷からの解放と罪の赦し)
ところで、皆様は、ユダヤ教の3大祭りってご存じですか?この時は、世界中のユダヤ人がエルサレム神殿にやって来なくてはならないと決められている祭りです。一つは、種入れぬパンの祭り。そして、5旬祭(ペンテコステ)、そして、仮庵の祭りです。この3つの祭りは収穫祭です。しかし、種入れぬパンの祭り、仮庵の祭りの前には、犠牲の動物を屠るという大きな儀式がありました。種入れぬパンの祭りの時に行われたのが過ぎ越し祭りです。
これは、イスラエルの民がエジプトでの奴隷の状態から解放されるときに小羊が屠られたことを記念して行われています。ちなみにこれは4月頃に行われます。もう一つ、仮庵の祭りの時、その前に贖罪日という儀式が行われます。
これは、年に一度、大祭司が動物の血を携えて、神殿の奥の奥、誰も入ることが許されないその中に大祭司が入って行って、契約の箱と呼ばれるものにその血を振りかけるという儀式を行うのです。これは、何の儀式かと言いますと、一年間に民が犯した全ての罪の赦しをいただくための儀式なんです。
これは、過ぎ越し祭りの半年後に行われます。つまり、こういうことです。
イスラエルの民は、毎年、4月頃に、奴隷の身分からの解放を覚えて犠牲の動物を屠り、そして、9月頃、今度は、一年間の罪の赦しを得るために、犠牲の動物を屠っていたのです。イスラエルの民にとって、犠牲をささげる祭りは、昔、エジプトから救い出してくださった神さまが、今度は、私たちを罪の縄目から解き放ち、再び天国に迎え入れてくれるのだという、感謝と希望を併せ持った祭りだったのです。もうお気づきのこととかと思いますが、イエス・キリストの十字架は、この二つの犠牲を一つにし成就した、完全な犠牲の姿であったのです。
◯ イエス様の十字架の意味
私は今年教会の一年のみ言葉を次のみ言葉にしました(週報を確認)。
「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」イエス様は何をおっしゃりたいかと言いますと、わたしはあなたに「自由」を与えるとおっしゃっているのです。聖書が言う「自由」とは何か覚えていますか?聖書が言う自由とは「奴隷からの解放」と「罪の赦免」でしたよね。「奴隷からの解放」とは何ですか?これは、サタン(悪魔)からの解放です。イエス様は十字架でご自身の清い血を流すことによって悪魔に勝利されました。次に、「罪の赦免」とは何ですか?これは、イエス様が十字架の上で私達の罪を全て背負って罰せらえることによって、神さまの前に、私たちの義を勝ち取ってくださったのです。
◯「助ける」と「助け出す」
ところで「助ける」という言葉と「助け出す」という言葉を聞いて皆さまはどのように感じられるでしょうか。「助ける」と「助け出す」。少しニュアンスが違いますよね。「助け出す」というのは、何か危険な場所、危険な状態から連れ出すというイメージがあるのではないでしょうか。英語に直すと分かりやすいかも知れません。「助ける」は「ヘルプ」です。「助け出す」は「レスキュー」となります。イエス様がしてくださったのは「助け出す」ことです。ですので、イエス様は羊を導く羊かいに喩えられます。よく「聖書を信じたら幸せになりますよ」という風に言います。私もそう言う言葉を使う時があります。ただ、聖書が言う救いとは「今の状況が良くなる」というものではありません。古い自分から新しい自分になることを言います。古い自分から新しい自分になる。古い生き方から新しい生き方に代わる。古い考え方から目が開かれ新しいものの見方が生じる。このことによって、「幸せになっていく」「祝福を得ていくのです」。ですので、今日の聖書箇所、ペトロの手紙3章18節でペトロはこう言っています。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです(先ほど解説した解放・赦免)」その次、あなたがたを神のもとへ導くためです。ここに「あなたがたを導くためです」と書いてあります。イエス・キリストがなさりたいのは、みなさまを、信じるものを、導き出したい、助け出したい、そして、神のもとへ導いて行きたい、そう願っておられるのです。だから、イエス様は、神の子なのに私達と同じように罪人として洗礼をお受けになったのです。また、私達と同じように、人として悪魔の誘惑をお受けになったのです。そして、宣教された時に「悔い改めなさい(振り向きなさい)。信じなさい。ついてきなさい」と命令形で人々に訴えられたのでした。
◯ なぜあのような姿を取られたのか
でも、イエス様が私達に「信じて欲しい」「ついてきて欲しい」そう願って歩まれたのが十字架でした。イエス様が十字架で苦しまれたのは、やはり、私たちを助け出す(導く)ためでした。あのような姿にまでなることによって、この方こそ神が私達のために苦しまれた姿なのだ・・・。そのような信仰を呼び起こすことを願われたのです。格好良く死んだのではありません。そのような勝利の方法があったかも知れません。しかし、神様は十字架の死をお選びになりました。それは、私達が神さまの愛に触れて、そして、信じて、イエス様についていくことを選ぶためでした。
◯ 本当の自由を勝ち取る
今日、「自由」ということでお話ししてきました。日本人は自分だけ違うことをすることを嫌がる民族です。今の状態で、過ごしやすくなることで満足できる国民性です。日本人は「何を食べようかなぁ(自由)」「何を着ようかなぁ(自由)」そういった気兼ねない生き方で嬉しいんです。しかし、イエス様はおっしゃいます。その生き方であっても、何か試練にあうと「何を食べようか(焦り)」「何を着ようか(焦り)」と思い煩うようになりますよ。って。
イエス様は「私についてきなさい」そして、「わたしから真理を学びなさい」そうおっしゃいます。するとあなたは自由になります。目が開かれて本当の自由な人となっていきますよ。そのように約束してくださっています。
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